« 自分の「眼の構造」(その1) | トップページ | 「学力」対「ゆとり」という振り子 »

自分の「眼の構造」(その2)

 前回は、内田義彦さんが指摘した、二通りの読書に触れたところで終わりました。今日はその続きを書かせていただきます。
 自分が従事する教育学という領域を含め、社会科学において読書は最も日常的な研究作業です。この本を読むということが、どのような意味で社会科学研究でありうるのか。これについて、内田さんは「情報として読む」と「古典として読む」という二通りの本の読み方を提示することで応えています。
 例えば、ヘタレな私は、情報誌を読むように専門書を読み、そこから何らかの新しい情報を得ようとしてしまいがちです。それは内田さんのいう「情報として読む」読書を意味します。これに対して「古典として読む」読書とはどのようなものか。内田さんは次のように述べています。
  

ところが、これ(=「情報として読む」)とはまったく違った本の読み方がある。新しい情報を得るという意味では役立たないかもしれないが、情報を見る眼の構造を変え、情報の受けとり方、何がそもそも有益な情報か、有益なものの考え方、求め方を-生き方をも含めて-変える。変えるといって悪ければ新しくする。新奇な情報は得られなくても、古くから知っていたはずのことがにわかに新鮮な風景として身を囲み、せまってくる、というような「読み」があるわけです。(前掲『読書と社会科学』、13ページ。)

古くからの情報を、眼のも少し奥のところで受けとることで、自分の「眼の構造」を変え、いままで眼に映っていた情報の受けとり方、つまりは生き方が変わる。そういうふうに読む読み方を、内田さんは「古典として読む」読み方としてとらえているわけです。そしてそのような読みに耐えうるものが「古典」だと。内田さんの指摘は、社会科学研究が現実から乖離しないための重要なヒントを与えてくれています。つまり、読書を通して自分の「眼の構造」を変え、その新しくなった自分の「眼の構造」をもって、常識や通説から自由に社会の現実を見る(読むだけではだめなのです、実際にその眼を使ってみなくては)。そのような探究を内田さんは(「研究者」と呼ばれる人だけでなく、すべての人々が日常の中で行うことを)熱望しているわけです。

 前回の花森さんの話に戻れば、花森さんは、単に誘惑のままに新しいモノを求め、買っては捨て、捨てては買うといった大量消費の傾向に対して批判を投じ、「暮し」の情報を慎重に受け取り、読み深め、自身の生活をじっくり見つめ直す、自分にとって必要なモノは何なのか、素敵な「暮し」とは何なのかを探究する、そのような人々の暮らしへの姿勢と実行を求めていたといえるのではと思います。そして、雑誌読者の深い読みを想定し、さらにそのような読みを引き出すような雑誌編集を行っていたと思います。

 「研究者」をめざす自分は、果たしてそのような読者の深い読みに耐えうるものを書けるかどうか、それ以前に「古典としての読み」を怠けず心がけているかと問われると、気が遠くなるわけで……。

 ということで、また次回です。

|

« 自分の「眼の構造」(その1) | トップページ | 「学力」対「ゆとり」という振り子 »

教育学」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/69457/2270806

この記事へのトラックバック一覧です: 自分の「眼の構造」(その2):

« 自分の「眼の構造」(その1) | トップページ | 「学力」対「ゆとり」という振り子 »