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ブログ納め

 今年もあとは大晦日を残すのみ。はやいものです。

 今年もいろいろありました。いろいろな人のお世話になりました。
みなさんにとっては、どんな一年だったでしょうか。

財団法人 日本漢字能力検定協会が毎年行っている「今年の漢字」の全国公募、
今年の世相を表す漢字として選ばれたのは「災」でした。
台風、地震、津波などの天災のみならず、イラクでの邦人襲撃、ロシア学校占拠、長崎小6女児殺害事件、奈良小1女児殺害事件などの人災の数々……。


「災いを転じて福となす」
この苦況のなかにも前進への契機を見出し、多くの人が「幸福」の意味を明確な対象・経験とともに自分の言葉として語ることのできる、来年はそんな一年になることを祈る次第です。

〈世界の中心で「チョー気持ちいい」と叫ぶ〉

そんなアホなテーマを思いつきのまま書いたところで、今年の書き納めとさせていただきます。
それではみなさま、よいお年を。

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エレクトーン・コンサート

 今日(26日)は、講座の後輩さんが所属するエレクトーンサークルのコンサート(「冬コン」との通称)に行って来ました。このブログを始めた日にも実は、吹奏楽部のコンサートに誘われて行っていたのですが、いずれも本格的で、実に魅力的な演出で楽しませて頂きました。何より、演奏している皆さんが凛々しく、とても大人に見えてしまうんですねぇ(対照的に、聴いている自分が子どもに思えてしまいます)。

 高校までは企画・運営のかなりの部分まで、顧問の先生に頼っていたのが、大学生になるとほとんど自分たちで行う。場所の確保から、協賛・広告の依頼、ポスターやパンフレットの作成、そして演出など。
 自分にも覚えがあります。学部生時代、剣道部での私の肩書きは、「東北学生剣道連盟幹事長・全日本学生剣道連盟常任幹事」というものでした。名前に負けず職務内容は大変なもので、東北規模の大会の運営、中央との連携、各大学への情報伝達と交流などを行っていました。この時に手紙(ビジネス文書)の書き方や電話応対、目上の方(各大学の監督さんや連盟会長といった方々)への接し方など、就職にも役立つような基本的なマナー(就職してないですけど…)、そして自治精神が嫌になるほど養われたと実感しています。人を動かすリーダーとしての資質は私にはありませんでしたが、それでも幹事の皆が文句一つ言わず協力してくれて、大会が無事に終わったときの達成感は、ビールを浴びたいほど格別なものでした。

 コンサートを締めくくる挨拶でサークルの部長さんが眼を潤ませていた、その気持ちがよくわかります。後輩さんも最後の演奏を心から楽しんでいるように見えました。その姿が印象的でした。


 どんな人間だって〈それなり〉の環境に放り出されれば、その環境からの刺激を受けて成長していく。なおかつ、自らも環境に働きかけるようになり、それぞれが変わっていく。そんなことを、今日のコンサートを受けて考えました。

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他者のまなざし

 日付がかわって、今日はクリスマス・イブですね。
山下達郎の名曲「クリスマス・イブ」、

 きっと君は来ない
 ひとりきりのクリスマス・イプ
 Silent night, (wo,ホニャララ) Holy Night

このホニャララ、何て言っているのか、いつも気になってしまいます。
だれか、知っている人がいましたら、教えてください<(_ _)>


 さて、昨日23日は、所属講座の院生発表会でした。来年早々に修士論文を提出しなければならないM2のみなさんが玉砕覚悟で教官に挑んでおりました。 あとちょっとだ、がんばれ!


 研究発表やブログ、さらには音楽やスポーツなどを通して、何かを「表現」する。
この「表現」というのは、どこか暖かく、ロマンティックなイメージを与えます。
 何ものにも拘束されない自分の意識を、何にも拘束されずに放出するという意味合いがそこに感じられるからです。
 
 ただし、「表現」というのは、原則的には他者がいてこそ、その意義を発揮するのではないでしょうか。
例えば、居合道。これは刀を用いた身体「表現」の一形態と捉えることができます。
大会での演武の光景を思い浮かべていただければ、あの他者のまなざしが注がれる状況の中、研ぎ澄まされた集中力でもって演武に臨むことは、演武者のポテンシャルを引き出し、技を洗練させるのではないかと思います。
 本来、居合の技は門外不出の極秘事項だったと思いますが、この「表現」というキーワードは、居合道の現代的意義を考える上で、ひとつ有効なのではないでしょうか。

 つまり、今日のテーマは「人間には成長を促してくれる他者の存在が欠かせない」。
 研究にもその言葉が十分当てはまるわけです。例えば、論文は自分の考えを批判してもらう他者の存在を前提として公表するものです。だから、文体は明快でなければならない。そして、「読者の深い読み」を前提として書くこと。
 もっと日常的に言えば、指導教官のまなざしが自分の研究を促し、支えるということ。だから、頻繁にレジュメをきり、論文を書き、みてもらうことで自分はさらに成長していくということ。と、ここまで来ると、急に暗澹たる気持ちになってしまうわけで……。

 それでは、また次回です。おやすみなさい。

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はじめてのトラックバックで

 木村剛さんのブログ「週刊!木村剛
が、小生の記事(「『学力』対『ゆとり』という振り子」、12月16日付)を取り上げてくださいました(「素敵な先生方を増やすために」、12月22日付)。
まだ、はじめたばかりのブログ。実は私がした最初のトラックバックが、木村さんの記事でした。
それだけにびっくりです。ちゃんと読んでくださっているんだなあ(感激!)

それに対して、こちらはどう対応してよいのかわからず、少々困惑しております。
今後も書き続け、そして自分の「眼」を精密にしてくれる記事とめぐりあい、
自分を成長させることで、感謝の意を表していく所存です。

ブログを通して、①自分に関心のある事柄の情報を探し、②時にコミュニケーションなどを通して、少しずつ見解を深め、③探し得た多くの情報を、まとまりをもった知識構造として組み立てていく。これって結構、心地よい自己学習だと思うんですが、どうでしょう。

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タカと刀は使いよう―居合道について―

 今日(18日)は自分が所属する居合道同好会の稽古納めでした。
会員のみなさん、今年もお疲れさまでした。同好会を結成して二年目。自分はあまり今年は活動に参加できませんでしたが、会長を中心に、少ない人数ながらもみんながんばったなあと感心しています。明日の納会ではその労をねぎらいたいです。
 自分自身、居合道を志して三年目。今年も多くのことを勉強しましたが、まだまだです。初心を忘れず、成長しつづけていきたいです。

 さて、居合道とは何か。自分は居合道一年目のときに、どう認識していたか。以下は、宮城県剣道連盟居合道部会に寄稿した「居合のすすめ」です。

居合道を始めて一年になります。大学院の同僚から勧められ、決意しました。
大学まで剣道を続けていましたが、引退後は忙しさを理由に稽古から遠ざかっていました。しかし武道のもつ厳粛な雰囲気と緊迫感をもう一度味わいたい思いは強く、また居合道という未知の世界に好奇心をそそられたため、同僚の誘いにすぐに応えました。
現在先生方の懇切丁寧なご指導の下、剣道とはまたちがった世界を楽しんでいます。居合は形の稽古ですので、一見地味に見えます。しかし、地味に見える中にも技の想定や理合など多くの意味が凝縮されていて、正確な動作の難しさに稽古をはじめたばかりの頃は驚きました。
恥ずかしながら剣道の稽古では、居合ほど自分の身体動作に繊細に、そして意識的になったことはありませんでした。
精神を集中して身体感覚を研ぎ澄ます。同時に先人が築き上げ、修練してきた同じ技の世界に学ぶ。これは私にとって大きな魅力です。
他にも、外人の方も多く国際色豊かなこと。試合に男女・年齢の区別がないこと。
居合で出会った方々とともに刀をジョッキに持ち替えて語り明かせること・・・・・・、たった一年でも多くの魅力を見つけました。
この居合道の世界に居合わせることができた幸運をうれしく思い、さらなる上達と新たな刺激を求めて、現在稽古に励んでいます。

 読み返してみて、認識はこの時と変わらないなあ、深まってないなあと・・・・・・。この時に比べれば多くの情報を得、経験もしているのですが。さらに高度な「眼」でもって、居合道の世界に潜入していく重要性を痛感し、今年の反省にしたいと思います。

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「学力」対「ゆとり」という振り子

 今朝の毎日新聞(12月15日朝刊)は一面で日本の「学力低下」を取り上げていました。

①「得意の理系も学力低下」(一面)

国際教育到達度評価学会(IEA)が03年、各国の中学2年生(46カ国・地域参加)と小学4年生(25カ国・地域)の学力を調べた国際数学・理科教育調査(TIMSS)で、世界トップレベルとされてきた日本の小4理科と中2数学の平均点が前回(小4は95年、中2は99年)から下がったことが分かった。……高校1年生の読解力が下がった経済協力開発機構(OECD)の03年学習到達度調査(PISA)に続き、学力低下が浮き彫りとなった。

②「クローズアップ2004 『ゆとり』のツケ深刻」(二面)

 この原因を新学習指導要領に基づく「ゆとり教育」に求める論調も周囲には多いようですが、この見方は妥当なものなのでしょうか。教育内容を「三割削減した」(この「三割」というのはマスコミが言い出したものという意見も)という指導要領導入(02年)からわずか一年後の調査でのこの結果。これは本当に指導要領に原因があるのでしょうか。私には問題はそれ以前にあった、指導要領が改訂される前からこの結果は見えていたと思うのですが。
 記事では、理科が「楽しい」と思う割合(小4)も減少していたとあります。問題の根本はむしろこちら、子どもが学校で習う、新しい知識習得に魅力を感じられなくなった(逆に言えば、魅力ある授業を教師が提供できなくなった)ことにあるのではないかと(少し昔なら、「いい大学」に入ることが学ぶ動機にもなっていましたが、今も通用しているとは思いませんし、2007年には全入時代に突入します。もはや学ぶ動機は、「将来のため」という安易なキーワードに求めることはできなくなりました)。
 そう考えれば、この調査結果を機に「詰め込み」へ戻っても問題は何ら解決しないでしょう。新指導要領が導入された背景には、もはや知識を伝達しようにも子どもが学んでくれないという現状分析もあったと思います。だからといって、それを「教育内容の精選」「総合的な学習の時間」という形で解決すべきかどうかについては大いに疑問ですが(時間を削減すれば子どもは学ぶとどうして考えられますか。知識は単純に量として測ることのできるものではありません。かといって突然、子どもたちに「自分で考えよう」と放り出しても自己学習できるとは限りません)。
 「学力」対「ゆとり」の二項対立に陥らないために重要なのは、知識を心地よく(≠楽に・効率的に)習得でき、そして大人になっても頭から剥がれ落ちないような学び方の開発とそのための教師の研究条件を確保することではないのでしょうか。要は、教師を含めて、自分たち大人がいつもどうやって知識を心地よく学んでいるかということにつきると思います(単に情報として頭に詰め込むだけではなく、それを使って未知の知識をつかみ取るような、そんな学び方です)。それを示せば、子どもたちも後について来てくれるのではないかと。

 詰め込んだらそのまま忘れさられ、賞味期限も切れ、腐ってしまったことにすら気付かないということを防ぐために、いつでも取り出して使いこなせるためには、どうすればいいのか。そんなことを考えながら、自分もいろんな情報と向き合っているのですが、うまく料理できず、冷蔵庫のなかで腐らせてしまっている現状です。でも、そこにしか「学力」対「ゆとり」の図式を越える解決方法はないように思うのですが、どうでしょうか。ラクに学べるに越したことはないんですけどね。

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自分の「眼の構造」(その2)

 前回は、内田義彦さんが指摘した、二通りの読書に触れたところで終わりました。今日はその続きを書かせていただきます。
 自分が従事する教育学という領域を含め、社会科学において読書は最も日常的な研究作業です。この本を読むということが、どのような意味で社会科学研究でありうるのか。これについて、内田さんは「情報として読む」と「古典として読む」という二通りの本の読み方を提示することで応えています。
 例えば、ヘタレな私は、情報誌を読むように専門書を読み、そこから何らかの新しい情報を得ようとしてしまいがちです。それは内田さんのいう「情報として読む」読書を意味します。これに対して「古典として読む」読書とはどのようなものか。内田さんは次のように述べています。
  

ところが、これ(=「情報として読む」)とはまったく違った本の読み方がある。新しい情報を得るという意味では役立たないかもしれないが、情報を見る眼の構造を変え、情報の受けとり方、何がそもそも有益な情報か、有益なものの考え方、求め方を-生き方をも含めて-変える。変えるといって悪ければ新しくする。新奇な情報は得られなくても、古くから知っていたはずのことがにわかに新鮮な風景として身を囲み、せまってくる、というような「読み」があるわけです。(前掲『読書と社会科学』、13ページ。)

古くからの情報を、眼のも少し奥のところで受けとることで、自分の「眼の構造」を変え、いままで眼に映っていた情報の受けとり方、つまりは生き方が変わる。そういうふうに読む読み方を、内田さんは「古典として読む」読み方としてとらえているわけです。そしてそのような読みに耐えうるものが「古典」だと。内田さんの指摘は、社会科学研究が現実から乖離しないための重要なヒントを与えてくれています。つまり、読書を通して自分の「眼の構造」を変え、その新しくなった自分の「眼の構造」をもって、常識や通説から自由に社会の現実を見る(読むだけではだめなのです、実際にその眼を使ってみなくては)。そのような探究を内田さんは(「研究者」と呼ばれる人だけでなく、すべての人々が日常の中で行うことを)熱望しているわけです。

 前回の花森さんの話に戻れば、花森さんは、単に誘惑のままに新しいモノを求め、買っては捨て、捨てては買うといった大量消費の傾向に対して批判を投じ、「暮し」の情報を慎重に受け取り、読み深め、自身の生活をじっくり見つめ直す、自分にとって必要なモノは何なのか、素敵な「暮し」とは何なのかを探究する、そのような人々の暮らしへの姿勢と実行を求めていたといえるのではと思います。そして、雑誌読者の深い読みを想定し、さらにそのような読みを引き出すような雑誌編集を行っていたと思います。

 「研究者」をめざす自分は、果たしてそのような読者の深い読みに耐えうるものを書けるかどうか、それ以前に「古典としての読み」を怠けず心がけているかと問われると、気が遠くなるわけで……。

 ということで、また次回です。

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自分の「眼の構造」(その1)

 初っ端の今日は、自分が従事している学問、広い意味での社会科学の研究についてちょっと考えてみました。

 みなさんは『暮しの手帖』を読んだことがありますか。恥ずかしい話、自分も最近まで眼を通したことすらなかったのですが、冒頭の文章は心に残ります。
名編集者と呼ばれた花森安治さんの「暮しの哲学」ともいうべき思想が強く感じられます。

  これは あなたの手帖です
  いろいろのことが ここには書きつけてある
  この中の どれか一つ二つは
  すぐ今日 あなたの暮しに役立ち
  せめて どれか もう一つ二つは
  すぐには役に立たないように見えても
  やがて こころの底ふかく沈んで
  いつか あなたの暮し方を変えてしまう
  そんなふうな
  これは あなたの暮しの手帖です
 
            花森安治

 
 この文章について、社会科学者の内田義彦さんは次のように語っていました。これがまた、絶妙なんです。長いんですが、引用してみます。

これは、詩の形でさりげなく書かれておりますけれども、思想家花森さんの哲学を綱領的に鮮明にした宣言・マニュフェストだと私は思っています。さりげない提示の仕方自体花森哲学の表示とみるべきでしょう。「マニュフェスト」だけがマニュフェストではない。私はこの雑誌を見るたびに花森哲学の照明をあびて、さて、わが講義、わが文章はと、しんどい思いをさせられるわけですけれども、ともかく、この商品「案内」の雑誌は、読者の側の深い(古典書に接する場合にも似た)読みを前提し、それを狙いにして編集されていますね。事実また読者もそういうふうに取扱っている。私の知る限りでも、この雑誌を長年身辺に大切に保存している人が多い。私の手帖・カイエ・本として。必要なところだけを読み、ゼロックスして、捨てるという読書界一般の風潮の中で、あるいは、そういう本ばかり氾濫している出版界の現状の中で、珍しいことと思います。いつかまた読もうということもあるでしょうが、何か捨てられぬ思いが残っているのでしょう、この本には。事実上「私の古典」になっている。(内田義彦『読書と社会科学』岩波新書、1985年、14ページ。)

内田さんは、古典を含めて本を「情報として」取り扱う合理的で安易な風潮に疑問を投げかけています。そして「有用な情報を得る即席の効用にこだわらないで、本の読み深め方に専心習熟してくださるよう、希望いたします」と読者に語っています。
 雑誌編集者ではなく、経済史家である内田さんがこのように述べたのは、社会科学研究において日常的作業となる読書と関わってでした。本を読むということが、どのような意味で研究でありうるのか。これについて、内田さんは「情報として読む」と「古典として読む」という二通りの本の読み方を提示することで応えているんです。
 
 さて、そこでその二通りの本の読み方の詳細なんですが、すでに文章が長くなってしまいました。
この続きは次回に。またお会いしましょう。

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