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自分の「眼の構造」(その1)

 初っ端の今日は、自分が従事している学問、広い意味での社会科学の研究についてちょっと考えてみました。

 みなさんは『暮しの手帖』を読んだことがありますか。恥ずかしい話、自分も最近まで眼を通したことすらなかったのですが、冒頭の文章は心に残ります。
名編集者と呼ばれた花森安治さんの「暮しの哲学」ともいうべき思想が強く感じられます。

  これは あなたの手帖です
  いろいろのことが ここには書きつけてある
  この中の どれか一つ二つは
  すぐ今日 あなたの暮しに役立ち
  せめて どれか もう一つ二つは
  すぐには役に立たないように見えても
  やがて こころの底ふかく沈んで
  いつか あなたの暮し方を変えてしまう
  そんなふうな
  これは あなたの暮しの手帖です
 
            花森安治

 
 この文章について、社会科学者の内田義彦さんは次のように語っていました。これがまた、絶妙なんです。長いんですが、引用してみます。

これは、詩の形でさりげなく書かれておりますけれども、思想家花森さんの哲学を綱領的に鮮明にした宣言・マニュフェストだと私は思っています。さりげない提示の仕方自体花森哲学の表示とみるべきでしょう。「マニュフェスト」だけがマニュフェストではない。私はこの雑誌を見るたびに花森哲学の照明をあびて、さて、わが講義、わが文章はと、しんどい思いをさせられるわけですけれども、ともかく、この商品「案内」の雑誌は、読者の側の深い(古典書に接する場合にも似た)読みを前提し、それを狙いにして編集されていますね。事実また読者もそういうふうに取扱っている。私の知る限りでも、この雑誌を長年身辺に大切に保存している人が多い。私の手帖・カイエ・本として。必要なところだけを読み、ゼロックスして、捨てるという読書界一般の風潮の中で、あるいは、そういう本ばかり氾濫している出版界の現状の中で、珍しいことと思います。いつかまた読もうということもあるでしょうが、何か捨てられぬ思いが残っているのでしょう、この本には。事実上「私の古典」になっている。(内田義彦『読書と社会科学』岩波新書、1985年、14ページ。)

内田さんは、古典を含めて本を「情報として」取り扱う合理的で安易な風潮に疑問を投げかけています。そして「有用な情報を得る即席の効用にこだわらないで、本の読み深め方に専心習熟してくださるよう、希望いたします」と読者に語っています。
 雑誌編集者ではなく、経済史家である内田さんがこのように述べたのは、社会科学研究において日常的作業となる読書と関わってでした。本を読むということが、どのような意味で研究でありうるのか。これについて、内田さんは「情報として読む」と「古典として読む」という二通りの本の読み方を提示することで応えているんです。
 
 さて、そこでその二通りの本の読み方の詳細なんですが、すでに文章が長くなってしまいました。
この続きは次回に。またお会いしましょう。

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