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ぼんやりした考え

  「ぼんやりした考え」というのは哲学者の鶴見俊輔さんの言です。鶴見さんは次のように語ります。

「私は、戦争をずっと通ってくると、自分をどんな時にでも支えられる考えというのは、ぼんやりした考えなんです。はっきりして、テストできる、論理的に明晰な概念が自分を支えるものじゃありません。どういう場合にあっても、戦争反対の立場で死にたいと思っていますから、それはいまのぼんやりした考えに連続的につながっているものなんです。これは明治以後の日本の教育制度がまさに消した考えなんです。強い人間、ひとりで立てる人間は、むしろ明治以前にいたんですよ。学校を秀才で上がってくる人間が、たよりになるというのは、これはまちがいです。私の言いたいことの中心は、ぼんやりした、しかし自分を支えられる考えにぶつかるということです。それをもってる人は、いまの日本人には非常に少ない。」(鶴見俊輔+岡部伊都子「ほんものの人間、ほんとうの歴史」『月刊 機』155号、藤原書店、2004年12月。

鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二『戦争の遺したもの』(新曜社、2004年)の中でも、鶴見さんはご自身の戦争体験の文脈で、この「ぼんやりした考え」について語っています。

 この「ぼんやりした考え」という言葉には、深く考えさせられます。「ぼんやりした」というのはイメージ的によいものではないかもしれません。しかし、明晰な(とくに他者から与えられたような)ものに安易に飛びつくのではなく、たとえ周囲からバカにされようとも、(自分の中にある)その「ぼんやり」としたものにぶつかっていくこと、そのことが最終的に自分の「眼」を養い、自分を支えるのだと考えるなら、それは極めて主体的な思考を、ひいては強い生き方を示すものです。不良少年で学校にはほとんど行かず、また貴重な青年期を戦争の中で過ごした鶴見さんだからこそ、出てくる言葉です。
  
 ○×式の教育の中で明晰で平明な(単なる文字やコトバでしかない)答えばかり追い求めていると、「本当にそうなのか」「これはどうなのだ」といった自由な思考が育たなくなる。戦前の国語教育を例に取れば、「国体の精華とは何か」「皇道にのっとるとは何か」といった問いに対し、ある決められた形式的な言葉の言いかえで対応するのが模範とみなされる。しかし、それは言語の本質である思考とも表現とも、ほとんど切り結ぶことのない過程です。
そのような教育への批判として、この「ぼんやりした考え」は捉えられるわけです。

 私にとっては切実です。批判の意味でも、励ましの意味でも。この言葉に触れるたびに、簡単に「わかってはいけない」、たえず自分の認識を吟味し、反省していかなくてはならないと思うし、また、教育学というその位置づけ自体が「ぼんやり」としている学問(他学部、とくに理系の同期からはときに軽蔑のまなざしで見られたものです)を、自分を支える足場にする自信が湧いてきます。

 昨年、大河ドラマ化され、話題をよんだ新撰組。 
「自分を支える考えにぶつかる」、激動の幕末を生きた新撰組も、そんな思考を貫いた強い人間たちだったのかも知れません。

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