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書き手の責任

 こんなエピソードがあります。
あるアメリカ人女性が、銀座東急ホテルに向かうためにタクシーに乗りました。タクシーの運転手(日本人)は聞き違いから、銀座第一ホテルへと彼女を案内してしまいました。
その時、彼女は「ごめんなさい、私がもっときちんと説明していれば」と運転手に謝りました。
一方の運転手は運転手で、「とんでもない、私のほうが注意して説明を聞くべきでした」と謝りましたとさ。

このエピソードは、以下の著書に記されていたものです。コミュニケーションにおいて話し手と聞き手、どちらが責任を負うのか、その責任意識の文化的相違を示す例として。
ポール・ロシター+東京大学教養学部英語部会『FIRST MOVES : An Introduction to Academic Writing in English』東京大学出版会、2004年、30ページ。
(全部英語で書かれているので、私が適当に部分部分を抽出して簡単に訳しました)。

 書き手-読み手の関係においても、この文化的差異があてはまるのではないかと思います。
とくに学問・研究の世界においては。わかりにくい文章によく出会う教育学の実態をみるにつけ、書き手の責任のもとに文章を書く(理解されなかった場合は、書き手の責任だ)という土壌が日本に根づいているとは思えません(もちろん、人の事は言えないわけですが)。

 中身の首尾一貫性や論理構造を明確化する義務が、書き手・話し手には厳しく求められる。
そのような意識に基づくのであれば、例えば、教師が子どもに何かを説明して理解が得られないときに、それを「この子どもはバカだから、何を言っても無駄だ」として片づけることは厳しく戒められなければなりません。

 「絶えず自分の意図が精確に伝わるように意識して書いて(話して)いるか」、自分の研究者(書き手)としてのプロ意識が試される研究発表まで一週間を切りました。切羽詰まってます(=_=;)

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コメント

 私の乏しい読書経験から言えば、教育学の書き手の文章は「わかりづらい」ではなくて、「深みが無い」である事が極めて多いという印象があります。あくまでも一般論ですが。特に教科教育学の事例研究論文は酷いですね。おそらく教育学や教科教育法というサブカルチャーの外部の著述を参照するという習慣が全体として薄いからだと思うのですが、その結果として教育学や教科教育法サブカルチャーの外部から見ると、あまりにも自己完結的で、外部の知との間に議論を共有する土台が見出しにくいような思索が横行している気がします。
 私見では、読み手の存在を考慮していないように思えるのは、第一に理論社会学の論文ですね。私のように純粋な知的興味でそういうものを読んでみようという門外漢からすると、ほとんど日本語の体をなしていないような文章が目立ちます。

投稿: hokulea2006 | 2005/04/19 20:12

コメントありがとうございます。
上の文章で「わかりにくい(中略)教育学」という言葉で用いたとき、念頭にあったのは、
①必要以上に、情念的な言葉(「『確かな』学力」とか「『生き生きと』学習が展開した」)が飛び交っているのではないかという疑問
②抽象的な概念(たとえば、「学力」「問題解決能力」など)に直面した際、論者は具体的にどのような対象(学習・思考の過程、内容)を指したいのかを把握するのが難しい現状
でした。
とりあえず、その点だけ、補足させていただきます。

投稿: タカの眼 | 2005/04/20 21:51

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