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女子教育へのまなざし

一週間ぶりです。ご無沙汰でした。
研究発表、おわりました。いやあ、しんどかった。昨日からほとんど寝ていません。
そんな状態で、この記事を書いてます(-.-)Zzz……(°_°) ハッ! ネテタ…

発表内容に自分で点数をつけるなら、50点といったところです。可もなく不可もなく。
ただ、改善すべき問題点が浮き彫りになったので、それは収穫でした。

文科相の発言についてなど、いろいろと書きたいことはあるのですが、
とりあえず今日は、研究の過程で出会った女子教育論について、少し紹介したいと思います。
とても印象的だったので。

以下は、安部磯雄『婦人の理想』(1910年刊)の一節です。その先進性に驚きます。

「我国に於ける男子の教育は殆んど其主義が一定して居るから、甚しき消長といふものははいけれども、婦人教育には斯る一定の方針がないために、其盛衰常ならずといふ有様である。何故に婦人教育が斯の如き不定の情態に在るかと言へば、婦人教育の程度は婦人自身の要求を標準とするのではなくて、男子の要求如何によつて定まるからである。…(中略)…吾人は第一章に陳べたる如く、先づ教育の理想といふことを標準として婦人教育の程度を定めねばならぬと思ふ。全体教育に制限のあるべき筈はない。何人と雖も其健康と財政を許す限りは教育を受けねばならぬのだ。教育の眼より見れば、此点に於て男女老若の別はないのである。」(183-184ページ)

 〈教育の理想は、男子の要求に基づくのではなく、教育それ自身の中から導き出されなければならない〉。そう受け取れます。「男子」の部分を「国家」に入れ換えても、まったく意味が通ります。

もう一つ。男女共学の問題について。
1932年、岩波書店から『男女共学の問題シンポジウム』が発刊されます。
ここで、小泉郁子は次のように男女共学の必要性を展開しています。

「我々は男女の絶対的人格的平等観の上に立つてゐる。而して教育上における男女の機会均等を主張するものである。(中略)男女共学とは被教育者たる男女を同一学舎に収容しその個性及び学科の性質に鑑みて男女の分合を按配し以て被教育者の必要及び社会の要求に最も適切なる教養を施すの制」である。

これにも驚きます。今の状況にあてはめてもまったく色あせていません。男女の「機械的」平等とは同一義でない「教育上におけるデモクラシーの本義」にもとづく機会均等論を、女性の人間教育の原理として示しています。これは、〈単に法的・制度的(=形式的)に男女共学が認められたからといって、それで実質的に男女平等教育が整備されたとみることはできない〉という意味に受け取れます。
今日「ジェンダー」という概念を用いて論じられている事柄をすでに先取りしているではないかと、驚きました。

とうことで今日はもう寝ますです。また次回です。おやすみなさい。


おっと、そうそう。発表の後、懇親会でフランス料理を食べに行きました。
市民会館の斜め向かいの、雰囲気のいい店です。
クラスターリーダーの先生のおごりでp(^0^)q
この歳にしてはじめて、フォアグラというものを食べました。
至福(^~^)モグモグ
ワインも赤、白どちらも飲んでしまった。とても口当たりがよかった
( ^。^)/▽☆▽\(^。^ )
会話もはずみますよ、そりゃヾ(>▽<)ゞヾ(▽^  )ゞヾ( >▽)ゞ
いやホントに、今までで一番おいしいものを食べたって感じです。
値段はそんなに高くなく、お手頃ということでした。
こんな自分は、貧乏くさいってことでしょうか。

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