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「男女共学化問題」考

 高等学校、とりわけ伝統校、進学校と呼ばれる男女別学校の共学化をめぐって、宮城県では議論が紛糾し、半ば混乱の様相を呈しているような印象を受けます。
 
 以下は、「別学」/「共学」をめぐる記事、意見が豊富に掲載されているサイトです。
いろいろな立場からの意見を読むことができて興味深いです。
   http://transnews.at.infoseek.co.jp/kyogaku.htm
  http://asa.co.jp/will/sendaikko/rondan.html
 さて、「共学」対「別学」という二項対立の図式に、私はどこか違和感を感じてしまいます。問題の核心はどこにあるとみればよいのでしょうか。
 私は学校の「個性」とか「特色」をめぐる解釈にあるように思います。本来、問われるべき学校の「個性」とか「特色」といったら「共学」や「別学」といった外的形態ではなく、教育内容、カリキュラム、授業といった対象を指すはずです。しかし、「別学」支持の方々は、教育内容ではなく、「雰囲気」(校風=「古き良き伝統」)を「個性」「特色」として強調しているのではないかと思います。学校は知識を授けるところだという立場からすれば「共学」や「別学」といった教育形態の必然性はありませんが、後者という歴史的問題があるためにそれを保護すべきか否かが争点となっているという状況ではないでしょうか。ただ、後者を保護する法的根拠はどこに求められるのかは、私にはわかりません。

  「共学」の観点からすれば、性別によって特定の公立高校に対する受験の権利すら認めないという男女別学制度(例えば、あの高校、とくにあの先生に勉強を習いたいのに女子/男子というだけでその権利がない、といった問題)は、少なくとも、公立学校に関する限り、認められるべきではない、一刻も早くすべての公立学校の完全共学化を実現することは宮城県という地方公共団体の法的責務だということになります。
 これは「別学」支持にとっては、論破することが難しい指摘です。「良き伝統を守れ」というノスタルジックな主張に固執するだけでは無理でしょう。だからといって、政治的な力や復古主義的なイデオロギーを持ち出して「共学」意見を押しつぶそうというのは、えげつない最も忌むべき手法です。

 一瞥したところ、「別学」支持の論陣で、ジェンダーという観点から主張を展開されている方はさほどいないようです。「ジェンダーフリー」という言葉から、ジェンダーという概念まで毛嫌いされているせいでしょうか(なお、専門家の間では「ジェンダー・フリー gender-free」という言葉が使われ、性差を抹消するものとして批判の対象となっている造語「ジェンダーフリー」とは区別しています。性差は抹消することも、無視することもできません)。性別役割、良妻賢母を肯定したいという思いをひそかに込めつつ、表向きには「男らしさ」や「女らしさ」を強調する形で主張を展開しているケースが、バックラッシュの影響で多くなっているようにも思います。しかし、それは女性解放史上何度も用いられてきた男女特性論の繰り返しにすぎず、あまり説得力を持っているとは思えません(矛盾しているかもしれませんが、男女特性論は女子の特性=セクシャリティ・ジェンダーを強調することで男女平等を図ろうとする女性解放思想の一つとして位置づけられます。最終的には問題を個人の内面へと矮小化してしまうため、批判にさらされます)。

 私からすれば「共学」派への最も有効な反論は、実はジェンダー概念を活用することで成り立つと思うのですが。例えば、こうです。
 ジェンダーは、そもそも法理念的には男女平等が達成されているはずなのに、現実として性差別的階層構造が残っていることから、その問題的状況を効果的に捉えるために登場した概念である。社会規範や秩序を再生産するという学校機能の観点から見れば、男女共学制度が全国的には広く実施されているにもかかわらず、実態として社会ではジェンダー秩序(男が標準、普遍、女は差異、特殊というタテ型社会の階層性)が再生産されている。これは、「共学」になったからといって、ジェンダー秩序が即解消されるとは限らないことを意味している。むしろ、その再生産が助長される可能性すらある。だが、例えば女子校ならば男子の介入を問題視することなく、すべての事を女子自身の手で行うわけだから、男主女従という秩序にはまらずに、リーダーシップなどの資質が性差にとらわれることなく育成される可能性がある、云々。

 坂本辰朗さんは、アメリカでも男女別学をめぐるさまざまな試みが実施されており、論争が起こっていることを、以下の事例を挙げながら指摘しています。
①1972年改正教育法(公立の別学校の共学化)
②1980年代末からの、公立学校による男女別学の試み(例 ヤング・ウィメンズ・リーダーシップ・スクール)
③2002年教育法(別学校や別学クラスを維持するために、地方教育当局による革新的教育プログラム資金の使用を可能にし、論争に)。
④カリフォルニア州における大規模な公立学校での別学パイロット・プログラム(男女別の12校のシングル・ジェンダー・アカデミーの確立)
⑤公立学校における別学への反対論(全米女性機構(NOW)とアメリカ女性大学人協会AAUW)、米国自由人権協会(ACLU)など)
〈註〉坂本辰朗「ジェンダー・フリーな教育からジェンダー・センシティブな教育へ」、東北大学21世紀COEプログラム「男女共同参画社会の法と政策」公開研究会資料、2004年9月24日。
 報告のまとめで坂本さんは、ジェンダー・バインド対ジェンダー・フリーという二分法の罠に陥らないよう指摘し、ジェンダー・センシティブな教育の理想像の追求により、ジェンダーの関係そのものが変わってゆく可能性について主張しました。これは「別学」か「共学」かという外的形態にこだわらずとも、ジェンダー・センシティブになることは可能だということを示唆する主張でした。

 結局、どのような条件がジェンダー不平等を改善する手がかりとなるのかは、私には依然としてわからない状況です。ですから、なお議論を継続する必要があります。坂本さんが指摘されたように、「共学」「別学」といった既成の枠組み自体を再考の対象としていくことが、現在の議論を進展させるきっかけになるのではないかと思います。

【追記】私は福島県の男子高の出身です。周知の通り、現在は共学化されています。だからといって、私はそのことに大きな問題を感じてはいません。むしろ「新たな伝統の芽吹き」を喜んでいます(過去の歴史において女子生徒が在籍したという時期がすでにあったようです)。伝統とは自ら創るものであって、すでにあるものとして外から強要されるものではありません。
 たしかに世間は、私が「古き良き伝統」の中で高校生活を送ったと見るでしょう(部活動は男子高を象徴するような体育会系に在籍していましたし)。しかし、私が高校生活から得た「伝統」観は、私固有の、私自身が選び取ったものであって「古き良き伝統」といった特定のイメージに解消されるような質のものではありませんし、周囲からも特定の「高校生」像に矮小化されて見つめられたくはありません。それに、もし共学校であったなら、またちがった素敵な生活を送れたかも知れないとも思っています。

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教育」カテゴリの記事

コメント

こんにちは、へたれ大学院生さん
お書きになった文中、
>なお、専門家の間では「ジェンダー・フリー gender-free」という言葉が使われ、性差を抹消するものとして批判の対象となっている造語「ジェンダーフリー」とは区別しています。<
…の部分について、
「専門家の間では」…「区別しています。」
=「専門家」が「区別してい」るのだ、と読みました。
質問があります。この「専門家」は、何処の誰ですか?
人名、団体名(学会?)など、この板上で、出来るだけ詳しく教えて下さい。

また、坂本辰朗「ジェンダー・フリーな教育からジェンダー・センシティブな教育へ」はAmazonでヒットしませんでした。出版社と出版時期を教えて下さい。

東北大学21世紀COEプログラム「男女共同参画社会の法と政策」公開研究会資料、2004年9月24日…これは学外市民が入手出来ますか。その方法は?

投稿: 検証好き社会人 | 2005/02/18 03:49

>検証好き社会人さま
コメントありがとうございました。やや長くなります。

①「専門家」について。
教育学の領域についてしかわかりませんが、
管見の限り、このことを明確に指摘しているのは、横浜国立大の堀内かおるさんです。堀内さんは、gender-freeが使用されている文献(初出?)について調べています。
・堀内かおる「今改めて問う『ジェンダー・フリー』の意味」財団法人女性学習財団『月刊 We learn』no.620(2004年6月)。
他の堀内さんの本にも書かれているかも知れません。軽々しく「専門家の間では」と書いてしまいました(主語と述語も統一してないなあ、反省)。鋭いご質問、恐縮です。

②坂本さんの資料について。
私が何部か持っています。しかし、あくまでレジュメです。時期は特定できませんが、もう少ししましたら、COEの研究年報第2号が発行されます。そちらにはおそらく文章化され、論文記事の形で同資料が掲載されると思います。そちらについては、仙台アエルビル19階のジェンダー法・政策研究センターにお問い合わせください。もし、そちらで断られましたら、同28階のエル・ソーラ仙台(せんだい男女共同参画財団)の図書ラウンジにお問い合わせください。こちらにも置かれることになると思いますので。
 
http://www.law.tohoku.ac.jp/COE/
http://www.sendai-l.jp/

投稿: タカの眼 | 2005/02/18 20:54

こんにちは、へたれ大学院生さん
ご丁寧にご返事有難う御座いました。早速検索してみました。

 ①②とも市民の入手は困難なようです。つまり、私の位置からは、検証不可能。それだけではなく、ジェンダー・フリーの定義自体、決して確固としたものではなく、例えば上野千鶴子東大教授は、「ジェンダー・フリーなんて公務員の人が使っていただけ、単なる俗語。使わない方が良い。」と発言していたりします。定着もしていなけば、オーソライズされても居ない、違いますか。勿論、私の知る限りで申しており、認識不足があれば、直ちに訂正します。(「無いこと」の証明は困難ゆえ。)

 「フリー」の部分も、free from gender では無く、gender-freeである以上、「ジェンダーから自由」などでは有り得ず、「ジェンダーの皆無な社会」を目指すものであって、すなわち性差絶対否定の危険思想です。これらご説明は、出来るだけ中立公正厳密に行っていただくと良い。と、言うのは、御貴殿学問の道にある方ですから、このようなブログは市民に対する影響力を無視できません。ご専門の立場から、貴方自身の信用問題でもあるでしょう。

 ジェンダー・フリーの抱える問題は、現在男女平等論が、差別の定義にさえ満足に成功していないことを指し示しています。貴方の仰る「男女特性論」では、何が合理的な別異取り扱いであるか、がいちいち深い考察を要するからです。その一方、面倒だから、全部同じということにしてしまえ、という「ジェンダー・フリー」は展望が無い。米国での性的白紙説の行き詰まりと劇的墜落を見れば、答えは既に出ている筈のもの。他の(人種、年齢、社会階級などの)差別論同様、社会全体を見渡した、しかも地道な取り組みこそ、求められるのではないか…素人考えでは有ります。(特性論支持)

 もう一つ、ご指摘を。
>これは「別学」支持にとっては、論破することが難しい指摘です。えげつない最も忌むべき手法<
が果たして誰か、どういう連中がえげつないのかを、はっきりさせなければならないでしょう。楽しみです。

投稿: 検証好き社会人 | 2005/02/19 03:48

>検証好き社会人さま

ためになるご指摘ありがとうございます。
しかしながら、如上のコメントについて、批判的にならざるを得ない箇所があります。
以下、コメントに対しての私の所感です。長くなります。

(1)
「定着もしていなけば、オーソライズされても居ない」

 定着していなければ、使ってはいけないというのは権威主義です。上野さんは「ジェンダー・フリー」という概念を使う必要性を感じないのでしょう。私も研究(論文)上で「ジェンダー・フリー」の語を使用したことはありません。

(2)
「『フリー』の部分も、free from gender では無く、gender-freeである以上、『ジェンダーから自由』などでは有り得ず、『ジェンダーの皆無な社会』を目指すものであって、すなわち性差絶対否定の危険思想です。これらご説明は、出来るだけ中立公正厳密に行っていただくと良い。」

 言葉の定義の問題は、真偽の問題ではありません。そこから議論が始まる出発点を示すにすぎません。
「ジェンダー・フリー」を、ジェンダーを無視する意味で使うのか、それともジェンダー・バイアスからの自由を意味するのに使うのか、でその後の展開は大きく異なります。あくまで出発点です。
 その定義を使うことで、現実をどう鮮やかに見通すことができるのか、その定義を使うことで、今まで見えなかった、どのような対象が見えてくるのか、そして、どう整合的に理論を構築できるのか。その点がその言葉、概念を判断する上で重要なことです。
 それを抜きに、言葉上の定義だけをめぐって「ジェンダー・フリー=性差絶対否定の危険思想」と言うこと自体、「検証」の精神から外れた「危険思想」といわざるを得ません。「中立公正厳密」とはいえません。

形式的男女平等論(「人間みな同じ」)と男女特性論(「異質なれども平等」)との対立構図を越える視座をどうしたら獲得できるのか、その手段として、私は「ジェンダー」という概念装置に着目しています。一つの立場の狭い観念にとらわれることなく、問題を矛盾の相でみて、そこに発展の契機を探っていく。それが生産的な手法というものです。

(3)
「米国での性的白紙説の行き詰まりと劇的墜落を見れば、答えは既に出ている筈のもの。他の(人種、年齢、社会階級などの)差別論同様、社会全体を見渡した、しかも地道な取り組みこそ、求められるのではないか」

 前半の部分について、私は何も知りませんし、社会人さんのご意見を、「検証」ぬきにそのまま採用しても「それはおまえの頭の中で行き詰まっているのだ」と、私の周囲からは言われそうです。
 後半の部分については、その通りだと思います。私の周囲からも言われています。もっとも「社会全体を見渡した、しかも地道な取り組み」とは具体的にどのような事例を指すのかはわかりませんが。

(4)
「果たして誰か、どういう連中がえげつないのかを、はっきりさせなければならないでしょう」

 私が問題にしているのは「手法」であり、特定の人物ではありません。「えげつない」という文脈でそれをして「えげつない連中」を指せば、それは人格攻撃になります。また、「もしもそのような手法をとるなら」という仮定の話です。
 これは私の文章のいたらなさの問題といえましょう。

投稿: タカの眼 | 2005/02/22 19:00

通りすがりではすまなくなったようだ。

>(1)「定着もしていなけば、オーソライズされても居ない」
 定着していなければ、使ってはいけないというのは権威主義です。上野さんは「ジェンダー・フリー」という概念を使う必要性を感じないのでしょう。私も研究(論文)上で「ジェンダー・フリー」の語を使用したことはありません。

うるへー。^^
何が権威主義だ。私がいつ「定着していなければ、使ってはいけない」なんて言った?何時、何処で?何言ってんの?書いてあるはずのものなんだろ、出してみろ。
君のやり方は、まず相手の言い分の歪曲、然る後攻撃…無礼な議論だ、院生の看板下ろせよ。あ、でも院生ぐらいなら良いか。

私が言ったのは、君の
>なお、専門家の間では「ジェンダー・フリー gender-free」という言葉が使われ、性差を抹消するものとして批判の対象となっている造語「ジェンダーフリー」とは区別しています。<
に対して、「定着もオーソライズもされていない」
ということだけだ。
使うなら使うで、「一般的ではないかもしれないが、自分はこのような定義で使う」と、最低でもそのくらいの断りは要るに決まっているだろう。何勝手な事言ってんだ?
君のように、「専門家の間では…区別しています」なんて言い切ったら、立派な【嘘】ではないか。何とか言ってみろ。
「専門家の間では」ってのはなあ、ただふたりの専門化がそのふたりだけの間で、というのとは訳が違う。「専門家一般は」ということになり、特にこの文脈では、学会などでキチンと定義づけられているか、多数が使うのだと言うことを示せなければならない。
君のやっている事は、素人相手に、都合の良い誤解を誘おうと言う真似だろう。何とかいってみろ。
「えげつない手法」とはこのことだよ。

投稿: 通りすがり改めmikenyan | 2005/02/23 06:58

>(2)「ジェンダー・フリー」を、ジェンダーを無視する意味で使うのか、それともジェンダー・バイアスからの自由を意味するのに使うのか、でその後の展開は大きく異なります。あくまで出発点です。<
なんとこしゃくな。じゃあ、1997年ジョンマネーの墜落以前に、ジェンダー・フリーを「ジェンダーを無視する意味」ではなく、「ジェンダー・バイアスからの自由」という意味のみで使った例は出せるかい?
出せやしないのさ。仮に見つかっても少数例外に過ぎない。多分見つかりはしない。(残念ながら、無いことの証明は出来ない)。
ジェンダー・フリーは、その初め、わが国で、性的白紙説の神話を利用して、性差の絶対否定を行う意味で使われた。(http://www.pacs.co.jp/cgi-local/sen1fubbs/ibbsf2.cgi?page=20のレス第65を見よ。)次に白紙説崩壊のため、都合が悪くなって、徐々に定義を変えようとしているに過ぎない。つまり、分かりやすく言えば、いま「ごまかし」て居る最中だ。体よく口をぬぐっても無駄だよ。
初めにそのような、誤った説の名称として使っていながら、その誤りは有耶無耶にして、なに?「検証の精神から外れた」だと?それ、わたしのことかと聞いているんだよ^^。もーーしもーし。
>一つの立場の狭い観念にとらわれることなく
ってのが、「ごまかし」と、どう違うのか、教えて欲しいんだよ。時蕎麦だろ?要するに。

投稿: mikenyan | 2005/02/23 06:59

>(3)「米国での性的白紙説の行き詰まりと劇的墜落を見れば、答えは既に出ている筈のもの。他の(人種、年齢、社会階級などの)差別論同様、社会全体を見渡した、しかも地道な取り組みこそ、求められるのではないか」
 前半の部分について、私は何も知りませんし、社会人さんのご意見を、「検証」ぬきにそのまま採用しても「それはおまえの頭の中で行き詰まっているのだ」と、私の周囲からは言われそうです。<

アホな、…ジョン・マネーも知らずに、こんな大胆な書き込みしてたのかい。お友達が悪かったな。教官誰?水原教授なんて言ってくれるなよ^^。

> 後半の部分については、その通りだと思います。私の周囲からも言われています。もっとも「社会全体を見渡した、しかも地道な取り組み」とは具体的にどのような事例を指すのかはわかりませんが。<

だから、まず、ジョン・マネーが何者か読んで、所謂「本質論的研究」をひととおり学習して、その後に、樋口せい子教授としばらくお話させていただくんだね。(私はお会するチャンスは無い、残念だが、著書も手に入らない。でもきっと、金じゃ買えないお話が聞けるよ。)
そうして初めて目が覚めるだろ。社会何とか主義なんていう、ごまかしテクの取り澄ましたようなもの勉強してると、性根が腐るよ。
地道な取り組みというのは、何が差別で何が区別か、局面ごとに弁別してゆくことだよ。しかしその前に、民主主義や人権の限界を学ばねば、↓のような過ちに忙しくて、何も進展しないだろうよ。

投稿: mikenyan | 2005/02/23 07:01

>(4)「果たして誰か、どういう連中がえげつないのかを、はっきりさせなければならないでしょう」
 私が問題にしているのは「手法」であり、特定の人物ではありません。「えげつない」という文脈でそれをして「えげつない連中」を指せば、それは人格攻撃になります。また、「もしもそのような手法をとるなら」という仮定の話です。
 これは私の文章のいたらなさの問題といえましょう。「良き伝統を守れ」というノスタルジックな主張に固執するだけでは無理でしょう。だからといって、政治的な力や「共学」意見を押しつぶそうというのは、えげつない最も忌むべき手法です。<

「政治的な力や復古主義的なイデオロギーを持ち出して「共学」意見を押しつぶそうという」例を意識して書いているんだろ?居るかどうか分からないけど書いてみた、なんて下らない詭弁を使うなよ。やろうと思えば、おなじ手法でいくらでも当てこすりをお返し出来る。
私は伝統に根差した別学校教育をかつて実体験し、それが良いものなので、いわれなく葬られるのはおかしいと思っている。更に、「変化によって失うものは確実だが、変化によって得るものは不確実だ。」(オークショット)などと、まさに「復古主義的なイデオロギーを持ち出して」、挙句、請願の動きに加わっている。貴方に言わせれば、「えげつない最も忌むべき手法」を用いる張本人だ。但し、何処にも恥ずるところはないし、お前さんのように、【嘘】は書かんぞ。間違えればあやまるし、実際そうしてきた。
何が「人ではなくて手法」だ。実際その手法を用いる人間が居ることを意識しながら書いておいて、その上「えげつない連中」を指しては居ないなどと誤魔化すのは、サイテイ中の最低だ。

投稿: mikenyan | 2005/02/23 07:04

 mikenyanさん、またまたご指摘ありがとうございます。
 コメントを読むたびに、自分の思考が燃焼させられていくのでためになります。文章修行のためにブログをするというのは、間違いではなかったと確信します。

 mikenyanさんの言いたいことが、ようやくわかってきました。すいません、ヘタレなもので。
 さしあたって、(1)と(4)の問題について応えておきたいと思います。(2)と(3)の問題については、今回の記事に限った問題ではないので、違う記事の中で反映させる形で応えていこうと思います。
 次のコメント欄を読んでください。

投稿: タカの眼 | 2005/02/23 16:58

(1)について。
 まず、私が書いた文章を確認してみます。

「なお、専門家の間では『ジェンダー・フリー gender-free」』という言葉が使われ、性差を抹消するものとして批判の対象となっている造語『ジェンダーフリー』とは区別しています」

これについての、mikenyanさんの見解は、至極妥当なものです。この記述は、次のように訂正すべきだと思いました。

「なお、私の専攻領域では、『ジェンダー・フリー』という言葉が使われるのが一般的で、『ジェンダーフリー』という言葉は使用されない。ただし、『ジェンダーフリー』と『ジェンダー・フリー』の違いについて、自覚的に区別し、明示しているのは、管見の限り、一部の論者にとどまると思われる。」
〈註〉藤田英典ほか編『教育学年報7 ジェンダーと教育』世織書房、1999年、前掲堀内。

「ジェンダー・フリー教育」を支持するにしろ、しないにしろ、学会のなかでも一つの分科会を占めるまでに至った、この一つの動向に対して論じる場合には、「ジェンダー・フリー」という言葉が使用されているのが、現状です。

投稿: タカの眼 | 2005/02/23 17:10

(4)について。
 私が指し示そうとしている「政治的な力と復古主義的なイデオロギー」と、mikenyanさんが指し示そうとしているそれとでは、定義が異なっているのではないでしょうか。
 mikenyanさんが考え、行っていることは、むしろ、正攻法でしょう。私のメインの研究領域は日本教育史ですので、戦前の教育事象をいろいろ見ていると、教育内在的な理由からではなく、きわめて外在的な理由によって、教育が左右されている。自分が考察対象としている大正期の自由教育弾圧などがまさにそうです(長くなるので、詳しくは述べません。もっとも、それは一面でしかないし、もっと異なる実態・問題点ががあったというのが、今の私の研究テーマです)。教育のあり方をどうすべきか、それに則して、十分な検証をもとに論じること。それが重要だと言いたかったわけです。
 「えげつない」という言葉を使用したことを後悔しています。
mikenyanさんほか「別学」支持の運動を展開されている方々を指して「えげつない」、「最低だ」などとはいえません。それは人格攻撃になります。人格と議論は切り離さなくてはなりません。

投稿: タカの眼 | 2005/02/23 17:41

 ただし、「別学」支持の論には弱さを感じるわけです。現時点では、私は、どうもすっきりと、満足できないわけです。私だって「別学」校の出身ですから、その良さを身にしみて実感しています。だからといって、それを法的に、あるいは教育内在的に保護する論拠を、私は見出せないわけです。

私は記事で、次のように書きました。

>「別学」支持の方々は、教育内容ではなく、「雰囲気」(校風=「古き良き伝統」)を「個性」「特色」として強調しているのではないかと思います。学校は知識を授けるところだという立場からすれば「共学」や「別学」といった教育形態の必然性はありませんが、後者という歴史的問題があるためにそれを保護すべきか否かが争点となっているという状況ではないでしょうか。ただ、後者を保護する法的根拠はどこに求められるのかは、私にはわかりません<

これについて、「別学」支持の方はどう考えているのかが、知りたいところです。

投稿: タカの眼 | 2005/02/23 17:54

ご丁寧な対応、恐縮です。タカの眼さんを、一方的主張を無責任に垂れ流す宣伝係と断定したため、February 23失礼な筆致となりました。お詫びして改めます。

さて、まず
>学校は知識を授けるところだという立場からすれば「共学」や「別学」といった教育形態の必然性はありませんが、法的にみても、論理的にみても、「共学」や「別学」といった教育形態の必然性はありません<
とすることが出来ると確信します。これで、問題がはっきりします。

そうです、これは必然の問題ではなく、比較の問題であり、そして更に、住民・県民の「選択」の問題です。

最大限非難さるべきは、宮城県当局が、これまで一貫して「必然」を装い、そこから踏み込んだ議論を一切撥ねつけて来た事です。ですから、周知期間をいくら置いたとしても、それはアリバイに過ぎず、「説明不足」と指摘されるわけです。

議論がここでとどまっている限りは、なんらの生産性も無いのです。しかし中身の議論を省略するわけには行きません。飽くまで住民・県民の選択です。共学化がいくら延期されても、費用が増すわけでも有りませんし、誰が被害を受ける訳でも有りません。何年でも掛けて、徹底的に議論すべきです。

1年間の話し合いに、100万円掛けると、多分飲めや歌えの宴会まで出来ます。そんなに掛かる筈は有りませんが、仮に100万円かかったとしても、H17単年度の共学化関連予算の1%に過ぎません。(H17単年度は1億円足らずで、これはほとんど二高だけの予算。累積で且つ全校なら、はるかに大きな額。県は共学化の通算額を出していない。)

またこのような制度の変革は、戦後県政教育史上最大と言えるでしょう。その影響は、子々孫々ゆうに数十年以上に及ぶでしょう。5年や10年掛かって何が問題ですか。「ゆとり」に何年掛かっているかご存知でしょう?

話し合いを拒み、議論を有耶無耶にする正当性が、何処にあるでしょう。正しい政策なら、なぜ説明を恐れるのでしょう。急ぐ理由は皆無で、県の頑なな態度に見るように、更なる検討を待つ理由のみ挙げられます。まず、凍結、再検討が必要です。

投稿: mikenyan | 2005/02/25 12:24

なぜか送信のとき、勝手に文が消えます。直前の投稿を訂正します。
「さてまず」の段落を、次のように変えてください。

(差し替え始)
「学校は知識を授けるところだという立場からすれば「共学」や「別学」といった教育形態の必然性はありませんが、」
の部分が核心だと思います。

更に押し広げて、
「法的にみても、論理的にみても、「共学」や「別学」といった教育形態の必然性はありません」
とすることが出来ると考えています。
これで、問題がはっきりします。
(差し替え終)

投稿: mikenyan | 2005/02/25 12:41

>mikenyanさん
コメント、ありがとうございました。

>これは必然の問題ではなく、比較の問題であり、そして更に、住民・県民の「選択」の問題です。<

この点に、もっとも納得しました。「別学」「共学」、どちらがよいか、教育に普遍絶対はありませんから、どちらが悪いとはいえないでしょう。
教育基本法第5条は、「男女共学は認められなければならない」としていますが、それは「男女共学でなければならない」ということではありませんし。

そんなふうに考えれば、それは「選択」の問題だと。
なるほど。

私は、記事でこの問題について、「なお議論を継続する必要があります」と書きました。
この点で、mikenyanさんと、私の姿勢は一致します。
教育の機会均等、現中学2年生(受験対象生)の問題などもあり、県民のニーズも錯綜している現状。
私自身、「共学」派の見解に満足していない面もあり(たとえば「男女共学が自然だ」というときの「自然」という言葉は私には眉唾です。「女性は子育てに専念するのが自然だ」というのと同じくらい)、今後も思索しつづけてみる予定です。
ありがとうございました。

投稿: タカの眼 | 2005/02/25 18:24

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