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「総合的な学習の時間」考(その1)

 前回に引き続き、総合学習について考えてみようと思います。今回はとくに現在、問題視されている「総合的な学習の時間」(以下、「総合」)についてです。

 自分が関心を向けるのは、なぜ「学力低下」と結びつけられて批判されるのかという点です。
ほんとうは教育内容と授業時間数が削減されたことが問題なのでしょうが、「総合」がよく機能していないという疑念にも矛先が向けられ、前者と関連させて批判されているのだと思います。内容と時間が削減されなかったら、「総合」の見方も違っていたのではないでしょうか。
 そもそも「総合」(さらに、その前提をなす理念の出発点であった92年からの「新しい学力観」)は、「学力低下」を危惧する立場から提唱されたはずでは? と思うのですが。

 文化遺産(過去の業績、書物)を、児童の経験(認知構造)や意思決定と何ら切り結ぶことなく、いわば百科全書的に、既成の枠組み=教科にしたがって伝達する。その問題性を指摘する声は、古くからありました。知識が具体的な対象を伴わず、単なる文字や音声(音波)としてしか伝わっていないという事態への批判です。そのなかで教科のあり方が問題とされ、教科の捉え直しが言われ、そしてその総合化(総合学習)が価値視されてきました。
 下からの動きとしての独創的な総合学習を行った事例は、戦前日本ではいくつも確認でき、一定の研究蓄積があります。奈良女子高等師範学校附属小の合科学習や長野師範学校附属小の「研究学級」、成城小学校のダルトン・プランなどです。ですから、「総合的な学習の時間」は非常に新しい教育発想のようにみる人もいると思いますが、長いスパンでみた場合には、決して新しいものではありません。これが上から提起されたということが新しいといえます(どのような政治的理由に端を発しているのかは別として)。

 私が問題視するのは、「総合」の実践が、そこで学ぶ知識=「学力」の中身を問わずに、子どもの関心・意欲だけに焦点化することで問題を解決しようとしている場合です。そこには、「関心・意欲」が起これば子どもたちは自動的に思考・判断し、知識の獲得に至るという認識筋道の図式があるように思います。「生活科」の実践などもこの図式の下に考えられているケースが多い気がします。知識の獲得を、このあまりに安易な認識筋道で捉えてしまっては、結局、最終的には「やる気」かよということになってしまいます。

 どんな知識も、「なるほど」「えー、びっくり」と身につまされるような形で認識しない限り、頭から離れずに記憶されるということはないと思います。「国際理解」をしようが、「ボランティア」をしようが、ウサギを飼おうがです。これらの体験学習の中でどのような「切実性のある」知識を獲得させるか、そのためにどのような認識のすじみちをつけるか、これはひとえに教師の学習指導にかかってきます。それがなければ、単なる「楽しげな学習」を行ったという事実だけがあとに残ってしまうでしょう。要は、知識の中身について教師が熟知していなければいけないという、教科学習と同様、自明の前提に還ればいいわけです。教師自身が身につまされて学べなければ、子どもも同じように学べるわけはありません。だから、教師には教材研究という、重要な任務を行う環境を、時間的余裕を保障してあげなければと思うわけです。教師は「授業の専門家」であるはずですから。それができれば、「総合」云々といった問題は、大きな問題にならずに済むと予想します。
 
 何人かの教育学者は「問われているのは子どもの学力ではなく、我々の学力だ」と語っています。「学力低下」は子どもの問題ではなく、日々教える事柄(知識)の科学的、社会的な意義(俗っぽく言えば「その知識を学ぶことの楽しさ」)を明確に示せていない大人たちの問題だというのです。われわれ大人が心地よく知識を学べていないことに起因する問題だと。
 身につまされます_| ̄|○ とくに私のように「最大瞬間学力」(宮城教育大、西林克彦教授のネーミング)として、知識を身につけてきた者にとっては。
 子どもを誹りの対象にする前に、自分たちが反省しなければなりません。そこから始めることが、「学力」向上への第一歩だと思います。

〈補〉最近、「学力低下」の問題を「脳」や「身体」をキーワードとして克服しようという言説を見かけますが、どうも釈然としないものを私は感じます。これらの主張は、知識をなぜ学ぶのかという問題を一般論的に解決してくれる(例えば、「脳が活性化するから」といった理由)から支持されやすいのだと思います。対象とする知識が示す社会的意味、生活経験との連続性などについては触れる必要もなく、教師にとっては非常に楽です。しかし、そんな楽な理由に簡単に飛びついてしまっていいのかと思ってしまいます(それらを全否定しようというのではありません。それらも一つの方法にすぎないと言いたいのです)。それとも、そんな悠長なことは言っていられない現状なのでしょうか。

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» 生き延びた「総合的な学習」を悪用して(嘘) [ホクレア号を待ちながら]
 中山文科大臣が昨日、総合的な学習の継続方針を示しました。 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050221-00000003-san-pol  おそらくは文部科学省の官僚に「ご説明」を受けて、ようやく学力低下論と総合的な学習の短絡が床屋政談レベルの議論であることに気づいたのではないかと推測します。そういう人を文科大臣にする総理大臣の考えも興味深いですが、それは置いておきましょう。  ともかく、現在の枠組みがそのまま残るかどうかはわかりません..... [続きを読む]

受信: 2005/04/18 21:35

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