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「総合的な学習の時間」考(その2)

 今日も「総合的な学習の時間」(以下、「総合」)についての雑感です。
これで、一応の区切りにしておきたいと思います。

「総合」について、私が一つ疑問に思っているのは、
〈なぜ「総合的な学習の時間」という何とも中途半端に長い名前なのか〉
ということです。なぜ、「総合学習」と、すっきりした名前として指導要領に盛り込まなかったのか。この背景には、単に教課審や中教審の答申の文言そのままという理由を超えて、いろいろと提案に際しての苦悶があったのではないかと思ってしまいます。

管見の限りでは、「総合的な学習の時間」=「教科の時間から独立した総合的な学習を行うための特別の時間」という認識枠組みの下に実践が行われているようです。教科、特別活動、道徳に次ぐ第四の領域として捉えられている観があります。

しかし、それも一つのあり方に過ぎないのであって、「教科学習」の時間=「総合的な学習の時間」にしても何ら問題はないと、私は思ってしまいます。また学校行事などの教科外教育を「総合的な学習の時間」にあてても、学校の実態に合っていれば問題はないはずです。「総合的な学習の時間」を設けよというのは、既存のカリキュラムから独立して設けよ、という意味に画一的にとる必然性はないと思うわけです(もっとも「総合」と称して、何の反省もなく、旧来の「詰め込み」に戻るのは困りものですが)。「総合的な」とか「時間」とかいう微妙な言い回しは、その点の画一性を避けるために用いられているのではないかと思ったり……。

「総合的な学習の時間」とは領域概念ではなく、方法概念と捉えたほうが効果的です。教育学者の中には、「教科とはそもそも総合的だ」などという人もいます。教科というものは人類の蓄積してきた文化(科学・学問)をそのまま教えるのではなく、子どもの経験に即して配列・再文脈化をほどこすものである、換言すれば、科学・学問を子どもにわかるように教師が「翻訳」して教えることが教科の教授だと。それは子どもの側から見ると細分化されている知識を、自分の文脈で総合化して捉え直すということであり、必ず総合的なものとなると。

前回にも述べたように、「総合的な学習の時間」が提唱される以前から、総合学習という方法(児童の経験と何ら切り結ぶことなく、百科全書的に知識を伝達する方法への批判としての学習法)は、善良な教師たちによって蓄積されてきました。

〈「総合的な学習の時間」(という言葉)が消えたとしても総合学習は消えない〉というのが、現時点での私の認識です。

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