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一人院生室にて、沢柳漬け

 現在、午前5時50分。空はすっかり明るくなってしまいました。

私は、まだ院生室にて、依頼された原稿を書いています(not 論文)。
院生室には私一人、というかこの11階建ての建物の中に私一人という状況です。
先日卒業した院生たちが使っていた、現在空っぽの本棚が、寂寥感を助長します。
聞こえるのは、「はぁ…」という自分のため息と、「ブーン…」というパソコンのファンの音だけ。
泣けるね。もう帰ろう。朝日を全身に浴びながら。

頼まれている原稿というのは、沢柳政太郎に関するものです。
彼は近代日本を代表する教育者の一人であり、文部省普通学務局長、文部次官、東北大学総長、京都大学総長などを歴任、官職を辞して後は、私立成城小学校を創設し、大正新教育の中心的存在として初等教育の実践に取り組むという、異色の経歴の持ち主です。 『澤柳政太郎全集』が刊行され、多くの大学図書館に所蔵されています。

東北大学の学生なら、初代総長として彼の名を一度は耳にすると思います。そうです、東北大学の初代総長は教育学者なんです(制度的には文部行政官なんだけど)。「研究第一」「門戸開放」「実学尊重」といった学問風土の形成に、彼はまちがいなく影響を与えています。

そんな彼が著した『実際的教育学』(1909年)は痛快です。それまでの教育学を根本から批判しているからです。
「教育はこうあるべき」という当為論、「これが望ましい教育」という理想論から教育論を展開する傾向は現在もさかんですが、当時もそうで、そういったいわゆる講壇教育学を、彼は痛烈に批判します。

「これが正しい教育だ」という思想(神話と言い換えることもできる)を振りかざす前に、その思想を科学的吟味にかけ、実証的な裏づけのもとに理論化し、具体化していく。現実の教育経験(子どもの発達段階、学習到達度、認知構造など。端的に言えば、子どもの実態)に立脚した、実験研究の必要性を説いているわけです。

 「学力重視」・「ゆとり教育」といった、それ自体曖昧な観念の応酬に揺れる昨今の現状をみるにつけ、沢柳の遺した教育遺産を振り返る必要性を強く感じます。

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桜前線北上より一足早く

 昨日26日、プロ野球パ・リーグが開幕しました。半世紀ぶりに誕生した新球団「東北楽天ゴールデンイーグルス」が開幕戦で勝利をおさめ、地元仙台は大いに盛り上がった…と思うんですが、自分はどうも体がだるく、家でダラダラとした一日を過ごしてしまいました。おかげで予定が狂ってしまった_| ̄|○ (居合道同好会のみなさん、すいません、今日は稽古に行けません)。ともあれ、球団初戦白星を機に、地域に多くの刺激を提供してもらいたいです。自分も落ち着いたら、必ず球場へ足を運びたいです(金をどう捻出するかが最大の問題ですが)。

 夜(26日)は、テレビ番組「ビートたけしの歴史的大発見 名画モナ・リザはもう一枚あった!―世界に先駆け独占公開―」を見ました。事件の謎を解き明かしていく推理小説のように、認識のすじみちを辿る形式で展開されていく番組は、視聴する側の思考をゆさぶり、おもしろくみることができます。「モナ・リザに隠された暗号」という問いの提示から、「これが我々の結論」という挑戦的な論点の提出まで、飽きることなく見ることができました。
 センセーショナルな仮説を立てて、それを物語ってくれる資料を発掘し(資料をして語らせる)、見えなかった歴史を紡いでいく。自分もそんなふうに、読み手が引き込まれていくようなスリルのある研究できたらなあ。

どうも、ぼーっとして、文章までダラダラになってしまって……、あっ!やってしまった!

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合同稽古会参加記

 日曜日(20日)に、山形大学との居合道合同稽古会に参加しました。
技に関する意見交換等、このような機会は、いろいろな意味で刺激になります。

 今回の稽古会を通してとくに難しかったのは、技について自分の意見を説明する際に、言葉がうまく出てこないという問題でした。自分は日頃「稽古日誌」をつけていますが、最近は怠けがち。
身体の動作の問題について、体ではその感覚をわかっていても、それを言葉で書き留めておくというのは、非常に難しいわけです(だから、武道などの〈身体の技法〉の世界では比喩が多用されるのでしょうか。例えば、「右手は卵を握るように軽く添える」とか)。言葉によってそれぞれの技について反省し、理解していく。先生の指導の下では、容易にできることなのですが、自分自身で行おうとすると途端にむずかしくなる。いやはや、持つべきは師だなあ。

 漠然とながら理解していたことではありますが、今回の稽古会を通して再認識しました。技の精度を高めたり、自分の動作を反省するうえでは、やはり言葉は重要なものだと。まだまだ、一つ一つの技、動作について、自覚的になれていない証拠です。

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月光輪

 今夜(21日)、仙台の夜空には、月暈(げつうん、つきがさ)が現れました。
「月のまわりにみえる輪っか」のことです。
 自分自身、「月暈」という言葉すら知りませんで、「月光輪」「夜光輪」などと勝手に名づけていました。
辞書的意義は、以下の通りです。

(1)
・げつ-うん【月×暈】
月の周囲に現れる輪状の光暈。月の光が細かい氷の結晶からできている雲に反射・屈折して起こる。つきのかさ。
〈註〉大辞泉 Yahoo!辞書から

・つき‐がさ【月×暈】
月の周りに見える光の環。
〈註〉大辞泉 Yahoo!辞書から


(2)
満月前後の明るい月のまわりに大きな光の輪が見えることがあります。これは「月のかさ」、「月暈(つきがさ)」などと呼ばれる現象です。

ベールのようなうす雲(巻層雲)が上空を覆うと、この雲に含まれる小さな氷の粒がプリズムのような役割をして月暈が現われることがあります。

月暈は半径約22°の大きな円形をしています。上空の氷の粒の状況により、白っぽく見える場合や虹のように色が分かれる場合があります。
〈註〉「月世界への招待」さん HP:http://mo.atz.jp/

星がみえなくても、この幻想的な夜光輪をみると、癒されます。
飲み会のため、駐輪場に置いてきぼりにしてきたバイクを取りに、アパートから仙台駅まで歩いたわけですが、不思議と足取りは軽く、疲れませんでした。この月暈のせいでしょうか。
 ところが中心街へ出ると、この輪郭はとても気付かないほど薄くなってしまいます。
かわりに視線を落とすと、おもしろいくらいにすれ違う人すれ違う人が、ことごとくケイタイを耳にあててしゃべっている。その日常の風景を再発見しました。

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痛いっ!

 木曜日、研究室史上、初の試み―と言っても、院生だけで楽しく飲んだというだけの話ですが―を行いました(自分の所属研究室はまだ若いのです)。
少しでも院生間の交流を深め、ゼミ以外での意見交換の場を広げよう、という表の理由と、福引きで当てた五千円の割引券を有効期限までに使わなければという裏の理由から、楽しく飲みました。
 
 飲みの後は、そのままみんなでボウリングへ。これが失敗でした。
右腕とお尻左側大殿筋が、やってる最中からしびれてきました。案の定、今日は極度の筋肉。でも、もしかしたらみんなだってそうかなと思い、みねさんに聞いたら「そんなことないですよ(笑)」、「体鍛えましょうよ」と……、鍛えているのに_| ̄|○
 ま、みんなとハイタッチしたり、わいわい楽しくできたってことで、よかったよかった。


 そして、昨日金曜日は、「節目の季節です」で書いたように、親知らずを抜いてきました。想像ほどみはなく済んだのですが、モノを食べるとき、ちょっとみます。
 歯ぐきの一部を切ったり(一針縫う)、歯を割ったりしてようやく抜けた、という感じです。麻酔が効いていたとはいえ、ぐいぐいと歯を引き抜いているお医者さんのあの作業を思い浮かべると、悪寒がはしります。見ているだけでも痛いですよ、あれは。
 でも、とりあえずは、すっきりしました。ただ、虫歯の治療も残っており、完全に治療が終わるのは桜も散り、若葉が萌えるころ、新茶がおいしい八十八夜の頃まで長引きそうです。出費も痛い

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なぜ節目なのか

 この時期、各学校は卒業シーズンです。ですが、なぜこの時期が(少なくとも制度上の)節目になるのでしょうか。なぜ4月が学校の、学年の始期になっているのでしょうか(アメリカなどは9月ですよね)。

 管見の限りで、この疑問に答えてくれるのは、佐藤秀夫『学校ことはじめ事典』(小学館、1987年。現在絶版)。教育制度・政策史関連で多大な功績を残している(例えば、みすず書房『続現代史資料 教育』全三巻)佐藤さんが、学校慣行史・文化史について一般向けに書いた本で、とても面白く読めます(仙台市図書館には一冊あるようです)。

 佐藤さんは、「日本でも近代化のスタートを切った明治前半期では、大学をはじめ小学校まで9月始期制が多かったのであり、帝国大学や旧制高校ではなんと1920(大正9)年まで9月新学年制だった」(32ページ)といいます。夏目漱石の『こころ』(初版、1914年10月、岩波書店刊)には、そのことを裏づけるような部分が登場しますね。例えば、「その年の六月に卒業する筈の私(大学生-引用者注)は、是非共この論文を成規通り四月一杯に書き上げてしまわなければならなかった」(『こころ』新潮文庫、64ページ)。

 学年始期を4月にした最初は、1886(明治19)年の東京高等師範学校でした。1888年には府県立尋常師範学校が文部省の指示により、これに続きます。佐藤さんによれば、その理由には三点があげられていました。

①陸軍との人材獲得競争のため
②公費支出の便宜さ
③学年末試験がむし暑い中下旬に行われるので、学生の健康上よろしくないというもの

 ①について。1886年12月に「徴兵令」が改正され、装丁の届出期日が従来の9月1日基点から4月1日基点に改められた。当時の高師や師範には20歳以上の新入生が多かったから、学校が9月始期のままだと、壮健で学力のある人材が先に陸軍にとられる。そこで、学年始期を4月1日にくり下げた。「陸軍の都合に学校が引きずられてしまったのである」(32ページ)。

 ②について。国や県の会計年度は1886(明治19)年から、以前の7月~翌年6月を、4月~翌年3月に改正された。徴兵事務はこの新会計年度に合わせたものであり、学校もそれにならった。「つまり、お役人の都合だった」(33ページ)。

 ③について。4月始期では、寒さきびしい2月・3月に試験が行われるから、五十歩百歩のちがいで、付け足しの理由にすぎない。

要するに、現在実施されている「4月はじまり」に教育的意義はない、というのが佐藤さんの本旨です。それどころか、「4月はじまり」のために、例えば、「夏休み」のような休暇期間と「学期」との調整をどうするか、そのバランスの悪さをどう改善するかという問題が登場することなります。例えば、休み期間の登校日や宿題(「夏休みの友」なんてありましたよね)などは、ようやく慣れてきた学校生活途中の空白を埋めるためのもの(休み期間中が休みでなくなるという矛盾)。夏休み自体は、欧米の外国人教師を通じて導入されたもので、米作りを核とした日本の伝統社会にはなかったといいます(34ページ)。

 「桜の花とともに」新しい門出を祝う(実際には気象条件によって地域差を伴う)。なんとも美しい情景です。ですが、それはあと付けの理由、というより制度上の規定にのせて、人々が描いた色々な思い出の結晶といえばよいでしょうか。少々、センチになりました(もし、9月始期制だったら、花見もそこそこに溜息まじりの卒業研究、ということになるか)。
 学校慣行によって私たちの精神・身体は知らず知らずのうちにつくり上げられている。少なくとも、そういう部分がある。佐藤秀夫さんの本(=教育史研究)は、私たちのもつステレオ・タイプを相対化してくれます。それこそ、私が先に「面白い」と述べた、もっとも大きな理由です。

〈追記〉佐藤秀夫『教育の文化史2 学校の文化』阿吽社、2005年、103-116ページにより詳しい説明があります(2005年4月20日、記す)。

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節目の季節です

 昨夜(12日)は、居合道同好会会員、わださんの歓送会。
日付の変わる前に、会はお開きとなりましたが、3次会までやったので、結構つかれました。
とくに、最後のビリヤード……、結構酔ってました……。
いきなり会長に三連敗の後、徐々に酔いを醒まして、最終的には5勝5敗のタイに持ち込みました(そういうところは覚えている)。

この時期は、節目の季節。良いとか悪いとかの単純な言葉では表現しつくせない、それだけにどこかおさまりの悪さも感じつつ、それでも区切りをつけなければならない。

そうやって人は前に進むのでしょう。
自分は来週、勇気を出してはじめての「親知らず」抜きに。
歯医者は嫌い。というより、病院が嫌い。それでも区切りをつけなければ、スッキリできません。
今から怖いです。

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『山びこ学校』は語りかける

 一昨日(2005年3月7日)、山びこ学校のルーツを探る幻の回覧文集『山峡』が見つかったという記事を読みました。
自分にその資料的価値を見定めるだけの力量はありません。ですが、ぜひ多くの人が読める形でデータベース化してもらいたいものです。

 『山びこ学校』は山形県山元村の中学校において無着成恭氏が行った教育実践の成果であり、子どもたちが書いた綴方(=作文)が豊富に掲載された文集です。初版は1951年、サンフランシスコ講和条約締結の年に出版されました。現在、岩波文庫の一冊として出版されており、簡単に手に入れることができます。

 『山びこ学校』は出版後まもなく、教育界のみならず一般読者層の間でも大きな反響をよび、ベストセラーになりました。東北の一地方(それも決して裕福とはいえなかった地域)の学校から発信されたこの『山びこ学校』が、当時社会に大いに歓迎された理由はなんだったのでしょうか。
 すでに周知のことかもしれませんが、自分なりに整理してみたいと思います。
戦前-戦後の生活綴方運動の中心的存在であった国分一太郎は、次のように述べています。

「戦前にあれほど盛んだった生活綴方のしごとも、敗戦後のわが国教育界では、いたってふるわなかった。その原因として(中略)もっとも大きなひとつをあげれば、戦後口やかましくいわれた、いわゆる新教育への幻想にあったということができる。今この解説を書いているわたしをふくめて、たいていのものは、日本の戦後教育の方向の新しい確認と、アメリカで行われている進歩的教育運動(いわゆる新教育の方法の重視)の移入とを、ゴチャマゼにして考えていたのである。」
〈註〉国分一太郎「解説」無着成恭編『山びこ学校』岩波文庫、1995年、332-333ページ。
戦後初期の日本では、社会科を中心にアメリカから新教育が導入され、新しい価値観のための教育が展開されました。しかしながら、それら流行のカリキュラムづくりや教育方法は、必ずしも当時日本の現実に根ざしたものとはいえず、ともすると、「形式主義のごっこ遊び」、「はいまわる経験主義」に陥る可能性がありました。そのような教師たちの実践上のとまどいに応えるように登場したのが、『山びこ学校』であったといえます。

 『山びこ学校』は単なる作文集とは異なり、先生と生徒が直面する具体的な暮らしの問題を取り上げ、ともに考え、解決しようという生活探求の姿勢が披瀝されたものです。この綴方による実践は、当時の苦しい農村の現実と社会科教科書の記述との乖離を自覚し、現実を変える実際の行動まで進むに至りました。認識-行為の接続に成功した、すぐれた実践例です。戦前の修身のように、「忍耐」や「勤勉」の徳目を伝達する心理主義的な授業とは異なり、「貧乏を運命とあきらめる道徳にガンと反抗して、貧乏を乗り超えて行く道徳」無着成恭「あとがき」)へと進んでいるのです。
 
 東北の風土が、このように〈生活に密着した〉すぐれた実践を生んだということは非常に興味深いことです。『山びこ学校』に限らず、戦前の「北方教育運動」など、今日的にきわめて評価の高い教育実践が東北では展開され、日本の教育遺産として戦後の教師たちに感銘を与えてきた経緯があります。「総合的な学習の時間」、さらに「生活科」の見直しが叫ばれる中で、先の文集が見つかったことには、何か因縁めいたものを感じます。

 『山びこ学校』は、日本土着のすぐれた教育実践例として、今日の教育にも大きな示唆を与えるものです。さらに同書は、子どもの教育のみならず、大人たちの、おとなが書く生活綴方、「生活記録運動」(=敗戦後、大人たちが行った価値観の再構築運動の一つ)が広がってゆくきっかけをもつくりました。
 
 よくよく考えれば、現在わたしはブログという媒体を使って綴方をしているともいえるわけで、アメリカ生まれのブログを日本の生活現実に根づかせ、うまく活用していくヒントを『山びこ学校』は語りかけてくれる、そんな気すらしてしまいます。

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「鞘離れ」の難しさ

居合について。
日曜日は、久々に居合道同好会の稽古に参加しました。
すだっちにも会えたし。久々に体を動かし、案の定、現在お尻が筋肉痛。

抜付けに行く際、「止まるように見える」(制定居合七本目)と指摘を受けました。
自分としては、「鞘離れ」の一瞬を意識して、「溜め」をつくっていたつもりだったんですが(´ヘ`;) う~ん・・・むずかしい。静から動へのメリハリ。
なんせ以前は「ゴボウ抜き」と言われていましたからねぇ。
だれかよいアドバイスがあれば、教えてください。こうイメージすればよいとか。

もう一つは、よく先生からも言われている、切り下ろしや血振りのとき、刀がピタッと止まらないこと。
おそらく、剣道を長いことやっていたから手首のスナップが効いているのでしょう。
これがピタッと決まるとメリハリが出るんだろうなぁ。

いずれにしろ、量をこなしながら自分の身体と対話していくしかないと思い候。
「道は無窮なり」(正法眼蔵)、「我は無給なり」(タカの眼)

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学会発表終わる……ふらふら

 学会発表、無事終了。
身内の集まりといっていいほど小さな学会ですが、そのぶん気が抜けないわけで。
出来は、70点といったところ。
資料構成をもう少し考える必要があると反省。
ただ、たくさん盛り込めばいいというわけではなく、どうすればわかりやすく伝えることができるか、発表の技法を練る必要性を感じました。そういえば、Power Pointで発表する人が増えたなあ。

 5分の質疑応答の時間に3人の先生からコメントをいただき、かなりの収穫がありました(相変わらずM原先生は容赦ない)。自分のウィーク・ポイントがどこにあるのかを明確にすることができました。
 とくに重要だった指摘は「個別と一般」の問題。一つの事例から全体を見通す視座を提示できるかどうか。個別を包含する一般性をどう掴み取るか。初歩的な指摘ですが、これがなかなか難しい。一般は観念的なものとしてあるのではなく、個別の形をとって現れている。ですから、個別そのものの把握が基礎になることは変わらないわけで、コツコツやるしかありませんか……

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