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教育史的テレビ番組

 日曜日(9日)夜、NHKで沢柳政太郎にスポットを当てた番組「NHKスペシャル シリーズ明治 第一集 ゆとりか、学力か」をみました。「学力低下」「ゆとり教育見直し」といった現代の問題に、教育史的視点から問いかけた番組です。当時の教育を伝える貴重な資料の紹介やそれにもとづく授業や試験の再現、沢柳の肉声など盛り沢山でした。教育史をテーマにした番組をみる機会は、そう多くありません。今回の番組は、学術的にもおもしろい論点を含む、興味深いものでした。

 少し前の記事でも紹介しましたが、沢柳は文部官僚から民間教育家(大正期新教育運動の担い手)になるという経歴の持ち主です。 この文部官僚としての沢柳と新教育運動の担い手としての沢柳とをトータルにつかまえる鍵概念は何か。これは、教育史研究上の一つの大きな問題です。明治-大正の教育をめぐっては、〈形式的・画一的な明治教育の否定→「個性尊重」「児童中心主義」をスローガンとする大正新教育〉という認識枠組みが支配的です。この枠組みにしたがい、新教育運動の批判対象として、明治期の教育行政を否定的に捉えるとき、その双方において中心的存在であった沢柳の立場は、一見矛盾するものにみえてしまいます。

 番組では、この問題に対して、一つのヒントを提示しています。それが、番組のタイトルである「ゆとりか、学力か」。これは、教育内容からの視点といえると思います。

 沢柳は1900年第三次小学校令制定の際、普通学務局長として教育内容の合理化に大きな役割を果たします。しかし、その結果、「学力低下」の批判を受けることになってしまいます。政策の当事者沢柳はこの「学力低下」批判をどう受け止めていたのでしょうか。皮肉にも、彼の教育改造は、彼自身の願いでもあった就学率向上の実現により、さらなる受験競争激化の問題に直面することになります。なお、この時期の「学力低下」は、授業時間の削減によって引きおこされたとみるより、授業料不徴収による就学率の向上に伴って、児童生徒間の学力格差が拡大した結果とみるほうが実態に即しています(「個性」という概念は、この学力格差による一斉教授の弊害という問題状況を背景として登場する)。 

 彼は、主に試験目的から百科全書的にただ多くの文字やコトバを伝達、暗誦するという教授-学習過程への批判として、教育内容の改良を図りました。それは、子どもの発達段階・学習理解の実態を考慮に入れたものであり、教育の中身(カリキュラム)に積極的に切り込んだものでした(例えば、代表的なものとして、国語科の設置。他にも、尋常小学校の算術では、10以下の加減乗除→10,000以下の加減乗除と進んでいたのを、中間に100以下の加減乗除を教えるという段階を作った。地理・歴史では、郷土の地理・歴史から入る従来の方式を変え、全国の地理・歴史で日本全体の概観を作らせてから部分へ進む方式を取り入れた、など)。

 肝心の中身の問題ですから、当然民間から批判が起こるだろうと予想していたら、これが非常に少ない。「量的に減った」「点数が下がった」という表面的な批判しか出てこない。子どもの発達段階や認識能力の視点からの批判がない。このような指摘は、教育関係者への痛烈な批判を意味します。

 彼が文部官僚の職を辞して後、民間に飛び込み、実験学校成城小学校を創設したのは、「(カリキュラムについて)だれも検証しないなら、オレがする」という、教育内容への積極的姿勢と教育学者としての自信のあらわれからではないか。今回の番組は、彼の活動の軌跡を捉える、そのような新しい視点を示唆していました。

〈参考〉
・沢柳政太郎「改正小学校令ニ対スル批評ヲ論ズ」(『澤柳政太郎全集』第三巻、国土社、1978年所収)。
・成城学園教育研究所ホームページ:
http://www.seijogakuen.ed.jp/kyoikuken/index.html

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