認識を媒介するもの
前回、千葉市動物公園のレッサー・パンダ、風太君について触れました。
二本足で立つ姿が意外で、かわいらしく映り、思わず取り上げてしまいました。
しかし「意外」といっても、自分のもつ既成のイメージに照らし合わせての意外性であって、じっさい動物の世界は未知のことに溢れています。タコだって二足歩行するわけですし。
私たちは何かを知るとき、すでに自分の中にある既成のイメージ(認識枠組み、ア・プリオリ)を介して認識しています。それが時に、生物たちが見せる豊かな表情を捉える眼を狭めていることがあるかもしれない。そう考えたりしました。
◇
「動物」に限りません。「人間」にしてもそうです。例えば、凶悪犯罪が起こったとき、「人間のやることとは思えない」などといわれたりしますが、そのように報じられるにつけ、「では人間以外に誰がやるのか。ケダモノだってあんなことはしないぞ」と言いたくなります。それら犯罪を非人間的と断定して道徳的非難を加えることは簡単です。しかしそれは、思考停止と同義のものです。より重要なことは、その非人間的とされる中にある極めて人間的な部分をあぶり出すこと、そして、既成の「人間」のイメージを、さらに、その「人間」が営む「社会」のイメージを問い直していくことではないかと思います。
今日は宮城県図書館に、資料を探しに行きました。森の中に浮かぶ近未来的な建築がかなり気に入っているのですが、如何せん、東北の県立図書館の中でもっとも郊外に位置する図書館。行くだけで大変です。
1920年代の『河北新報』を閲覧していたのですが、「意外」だったのが、今日凶悪犯罪とされるものと変わらない犯罪が当時もかなり頻繁にあったということ。犯罪数の比較はできませんが、「児童虐待」の語を当時すでに確認できますし、中学生が包丁で小学生を脅して殺害するなんて犯罪記事が確認できました。
「青少年の凶悪化」が叫ばれる昨今ですが、この「青少年」イメージにも再検討が必要かも知れません。教育社会学者の広田照幸さんは、戦後の犯罪・非行統計を検討して、「青少年凶悪化」が幻想であることを指摘、その幻想がセンセーショナルなマスコミ報道によって構築されていると述べています(広田照幸『教育には何ができないか』春秋社、2003年、175-188ページ)。
メディアの発達、それに伴う高度情報化が私たちの認識に与える影響。すでに学術の世界では「メディア論的転回」ということが言われています。私たちが何かを知るとき、そこにはメディアの存在が、先験的なものとしてあるということ。これからはこの認識媒体としての「メディア」への視点がますます重要となってきそうです。
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