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セクシズムの男女共学

 ようやく、一つ論文の区切りがつきました(というか、観念しました)。
この間、〈ジェンダーと教育〉の問題に関していくつかの専門書や論文を読む機会を得、未熟な自分なりに、視野が広がる、今まで見えなかったものが見える(可視化)という知的経験の快感を得ることができたと思っています。

 例を挙げると、男女共学論の問題。
 男女共学のほうが別学よりもジェンダーの拘束性が弱く、ジェンダー中立的な営みであると何の疑いもなく確信している研究者はまずいないでしょう。教育社会学を中心に、教育学研究において学校内部におけるセクシズム(性差別主義)の存在が取り上げられるとき、議論の俎上に乗せられてきたのは何より男女共学の教育でした。この男女共学における性差別の存在が、共学・別学、どちらがよいかという問題さえ生んでいるといえます。
 学校教育に男女平等とセクシズムが同居している。それを可能にしているからくりはどのようなものか。これは私が一つ関心をもった点です。それは男女共学論がこれまでどのような視角から論じられてきたかという問題へとつながります。先行研究の見解は、男女共学論でも、そこで焦点が当てられてきたのは常に女子教育の問題であったこと、すなわち、男子の教育のあり方を一つの基準としてその基準へ女子教育のレベルを近づけるという意味での「共学」であり、男子教育のあり方は不問に付される一方で(そもそも「男子教育」なる言葉はどの教育学事典にも載っていない)女子には「平等」と「差異」(女子の特性)の二重基準が求められるというジェンダーの非対称性があったということでした。
 男女共学を求める言説自体にジェンダーの非対称性(男性が主、女性が従)が存在し、そして、そのようなものとして男女共学が実施されて今日に至っていると捉えるとき、改めて問題としなければならないのは、単に共学よろしではなく、その中身です。そしてこの問いは、共学論のみに向けられるものではなく、別学論にも当然向けられるべき問いです。男女の特性に応じる(男らしさ・女らしさを一方的に否定しない)意味で別学が指向されたとしても、実際には「女子のあり方」(男並み化と女らしさの間での葛藤、進む社会進出や少子化との関係で問われる女性のライフスタイル)のみに問題が集中し、男子に求められるのは「女子への理解」といった思弁的な問題でしかないとすれば、それは共学論に内在する非対称性の問題と何ら変わりません。

〈参考〉
・小山静子「男女共学論の地平」藤田英典ほか編『教育学年報7 ジェンダーと教育』世織書房、1999年。

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コメント

ここ数年間、私が抱えてきた課題だったので、
思わずコメントをしてしまいました。

この男女共学論と同じ論理が生涯に渡って適用され、
「平等」と「差異」の二重基準を満たす事を
私(女)は求められていますし、自分でも求めています。
それが人々(私も含めて)の意識の中では、
当たり前になった時代なのでしょうね。

この非対称性に対して、自分はどのように対応
すれば良いのか、その一つの答えを出した所です。
けれど、まだこれからも模索は続きます。

自分の人生を使って、実験をしているような気分です。

投稿: なっつん | 2007/11/06 02:17

 なっつんさん、コメントありがとうございます。ただ、ずいぶん前に書いたエントリーなので、読み直して気恥ずかしいです。

>自分の人生を使って、実験をしているような気分です。

 じつに壮大な「実験」ですが(笑)、そのような自分の生き方・身の処し方と研究との切り結びは、本来研究者が当然に志すべきスタイルだし、それが本当の「教養」だという人もいます。
 謹んで、なっつんさんのお幸せと、ご健闘を祈念いたします。

投稿: タカキ | 2007/11/06 22:13

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