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「授業をつくる」とは

 そんなようなタイトルの授業=講義(正式名は伏せる)が、所属講座の先生の下で行われている。対象は学部一年生、いわゆる全学教育の一科目である。事務補佐員の作業と時間帯が重なっているので、私はこの授業を盗み聞きすることができる。
 「自分がもし教師だったらこんなことを生徒に学ばせたい」という問題意識の下、受講者各自が素材を持ち寄り、それについて担当教員を含むみんなで検討する。講義の概要はそのようにまとめることができる。
 だが、この講義で学生たちは何を学んだのだろうか。少なくとも、私が遠くから眺めている限りでは、授業づくりを支える〈理論〉を学生が学んだと評価することはできない。単に井戸端会議でもしているようにしかみえなかった。学生が持ち寄った素材に対し教員が「なぜそれを学ばせるのか」と問いを発して、ああだこうだとクレームを付ける。学生は自分はこう思うからと反論する。それに対し、教員が自身のイデオロギーの吐露としかいいようのない持論を展開し、逆に反論する。そんなことが繰り返される……。
 自分からすれば、なぜ「すぐれた」授業理論がすでにいくつもあるのに、それを先に学生に提示しないのか疑問でならない(昨年の学生はこんな授業を創ったという例を出せというのではない。そうではなく、それを「すぐれた」授業と理解できる眼=理論を提示せよということ)。先にそれを提示せずに、教室から離れた抽象的な空間でいきなり授業を創れといっても作れるわけがないだろう。

 私は、先に「素材」という言葉を使った。講義ではこの「素材」をめぐって、それが「教育内容」に値するのかどうかを議論していた。「教育内容」とは授業のあり方とは無関係に(その意味で抽象的に)考えられた体系的な教授内容を意味する。一方、授業のあり方と関係する形で考えられたものは「教材」となる。つまり、「教材」とは、「どのような質の学習者に対し、どんな方法で授業するかという構想にともなって具体的に考えられた内容」を指す。ある「教育内容」が達成されるかどうかは、ひとえにこの「教材」の良し悪しにかかってくる。しかし、講義ではこの「教材」への視点にまで話が及んでいたとは到底思えない。そのような認識にまで到達していたのなら、「そのこと(=教育内容)を教えるために、どうしてその知識をその順序で教えていくのか」、「はじめにどんな情報を出しておき、どの情報は隠しておくか」といった教授・学習過程への議論が起こるはずである。しかし、少なくとも自分が教室にいたときに、そのような「どう教えるか」という次元での発言はほとんど出なかった。「何を学ばせるか」から学生は考えなければいけないのだから、無理もないかもしれない。

 どのような認識・思考のすじみちをたどるかたちで教えると、もっとも「教育内容」、あるいは授業の目的に達することができるか。そのことへの視点を含んではじめて「授業をつくる」ということになるはずである。先生はこの「教材」への視点と方略をもって、自身の講義の進行を考えたのだろうか。その点が最も疑問である(少なくとも自分には、講義の「あの進め方」は、相当無理のあるものだと思った)。

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コメント

その講義に際して、「生徒」とはどのような想定がなされていたのかな?生徒というからには、中学生か高校生かだと思うけれど。たとえば中1と高3だったら、かなり発達段階が違うわけでしょ。そのあたりを明確に意識しないと授業を作れといわれても、現場の教員でもきついよ。
先日、集団下校訓練をしたときに先輩教師からこんなコメントを頂きました。
「地区別に集合するとき、『○○地区集まれ』と言われても、5,6年生だったら迷わず並べるが、小学1年生はどこにいったらいいのかわからない。」
同じ事でも、発達段階が違えば、それだけ、「はじめにどんな情報を出しておき、どの情報は隠しておくか」という設定も変化する。
つまり、相手をどのように想定するか。これが「授業をつくる」議論を実質的なものに近づける一助だと思いました。

投稿: すだっち | 2005/07/17 07:34

 一応「中学生」が想定されていたようです。先生が「よいと思った授業」については、先生がコネをもつ仙台市内の中学校で自ら実践してもらうということでした(昨年の例でいえば。「よい」の基準はよくわかりませんが)。

 すだっちのいう想定は、「児童・生徒観」(学習指導案で書くよね)と言い換えることができると思います。これへの議論はあまり聞かなかった。無理もないし、これはある程度仕方ない。
 だから、より問題だと思ったのは、やはり上記記事で書いたようにどういう「教材」でもって「翻訳」すれば、「教育内容」をわかりやすく教えることができるかということへの言及のなさ。そういうことは、実は教える自分自身がどれだけ「楽しく」その内容を学ぶことができるかということと意味的には同じ。自分だったら「自分でプランを創っていて楽しかったか」「教材研究の際、自分は、なるほど、とわかるような認識みちすじで教育内容を学べたか(=「楽しさ」の意味内容はココ)」と学生に聞くなぁ。

投稿: タカキ | 2005/07/17 14:58

さきほど新しいエントリーにコメント書いてしまいましたが、再びこんにちは。すだっちさま、初めまして。

恐らくタカキさんも思っていらっしゃることとは思うのですが、授業をつくると言っている本人の授業がいちばん、つくられていないんですよね。講義やゼミにおいては、某T先生よりも、彼のほうがよほど「ビヨンド」であるといつも感じていました。
きっと彼は、理論を提示すると発想が失われる、と思っているのではないでしょうか?
学部一年生に教えられることは確かに限られているとは思いますが、すぐれた理論をわかりやすく伝えることができないのであれば、教員である意味はないと思ってしまいますよね。
いずれにしても、彼に対しては結局こちらの「翻訳」能力が問われてしまいます。厳しいですね。
学問的な話からは遠ざかってしまいましたが、それはわたしが教員免許を持っていないから、ということにしてもいいですか?

楽しいからやっているはずの勉強なのに、どうしてそうなってしまうんでしょうねー。

投稿: ミティ | 2005/07/24 17:36

学問的な話は、自分も苦手です(^^;)
>授業をつくると言っている本人の授業がいちばん、つくられていないんですよね。
ああ、そんなにズバッと…
 大学とそれまでとは「授業」の意味づけが違う(=大学ではこちらの「翻訳」能力が問われる)。そういってしまえば、それまでなのかもしれません。

 記事を書いてから、もう少し注意深くあの授業を盗み聞きしたところ、素材についてただ羅列的に調べているけどそれで楽しかったか、といったような先生の発言を聞きました。
 ほんとは「授業をつくる」というテーマの下、知識を構造的に、あるいは文脈的に自己学習する(受験勉強で毒された体を浄化する)―そんな経験をさせたかったのかもしれません。「理論を提示すると発想が失われる」(=学生は自由な発想を展開できる)という認識が、さらにそれを支えていたのかもしれません。
 そうなると、先生をあてにせず、学生自身がしっかりしなければ、ということになるわけで。キビシィね。

投稿: タカキ | 2005/07/24 19:27

管理者様へ。新しく書いたブログの内容を告知させて頂くサイトを立ち上げました。宜しければ、ブログ更新の際に是非当サイトをご活用下さい。尚、ご興味無いようであれば、お手数ですがコメント削除の程、宜しくお願い致します。

投稿: BC7管理人 | 2005/08/13 22:27

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