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「昔と今」の二分法を越えるには

仙台もいよいよ梅雨明け。夏到来!
そんな中、久々に連続講義(集中講義)に出ているφ(。。;)
「植民地支配と教育」というテーマからして難しそうなイメージを持ってしまうが、K先生はきわめて懇切丁寧にひとつひとつの事柄について説明してくれる。「植民地支配という過去の問題に対して関心が持てない・現在の自分とのつながりがみえない」(=教育の歴史を学ぶ意義がわからない)という学生からの反応にもゆっくりとした口調で対応してくれる(一度説明の手順を頭の中で構築し、確認してから話し始めているような印象を受ける。当たり前のようなことかもしれないが、自分だったら絶対に慌ててしまい、早口となって、結果しどろもどろになるだろう)。

 以下は、(ある学生が上記のように素朴に感じた疑問とも関わる)歴史認識の問題について、講義資料中印象に残っている箇所の一部。テッサ・モーリス=スズキ『批判的想像力のために―グローバル化時代の日本』(平凡社、2002年)からの引用文である。

○「連累」(implication)
わたしの言う「連累」とは、過去との直接的・間接的関連の存在と、(法律用語で言うところの)「事後共犯(an accessory after the fact)」の現実を認知する、という意味である。(中略)
 「連累」とは以下のような状況を指す。
わたしたちは直接に土地を収奪しなかったかもしれないが、その盗まれた土地の上に住む。
わたしは虐殺を行わなかったかもしれないが、虐殺の記憶を抹殺するプロセスに関与する。わたしは「他者」を具体的に迫害しなかったかもしれないが、正当な対応がなされていない過去の迫害によって受益した社会に生きている。
 わたしたちが今、それを撤去する努力を怠れば、過去の侵略的暴力行為によって生 起した差別と排除(prejudices)は、現世代の心の中に生きつづける。現在生きているわたしたちは、過去の憎悪や暴力を創らなかったかもしれないが、過去の憎悪や暴力は、何らかの程度、わたしたちが生きているこの物質的世界と思想を作ったのであり、それがもたらしたものを「解体(unmake)」するためにわたしたちが積極的な一歩を踏み出さない限り、過去の憎悪や暴力はなおこの世界を作り続けていくだろう。
 すなわち、「責任」は、わたしたちが作った。しかし、「連累」は、わたしたちを作った。

過去の問題がどのように現在につながり、今日の自分の生活意識に及んでいるのか。それを課題化するのはとても難しい。ついさきほどみた番組「クローズアップ現代」でも“ヒロシマが伝わらない”という問題(広島の教師の悩みやアメリカにおける原爆認識の実態など)が取り上げられていた。

 どんな過去の問題もどこかで自分の身近な問題とつながっている、という〈意外性のある〉事実がみえてくると、俄然歴史は面白くなる。そう思う。K先生の場合、自身の父親とある日本軍「慰安婦」との偶然的な関係からそのつながりを見出すという作業を行うことで、我々受講者にその一例を示してくれた。

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