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意識の介入

 昨日は、居合道同好会の稽古に参加。実際に相手(=すだっち)を立てて稽古を行う。相手を立てることで、技の想定、そして各動作の意味内容=理合を、より具体的に深めていくことができる。とともに「なぜこのような動きなのだろう」という疑問も湧いてくる。
 このような稽古法は、他の会員もぜひ行うべきだ。ただダベッているだけではいけない。頭の中にある既成のイメージは概して貧困なものであり、また文字・音声だけの情報に頼れば頼るほど誤った認識構造を構築してしまうという結果に陥ることが多い。そのような頭の中にある土着の認識構造の修正を、具体的な現実を想定することで直観的に行う(何とも教育学的な見解)―師匠がいない時に自身の技の修正点を意識化するという点から考えれば、このような方法こそが最も効果的であるといえる。

 日頃の生活で行う動作がほとんど無意識から成り立っているのに比べ、居合の「わざ」はかなり特異な動作の連続であり、それが体系化された「型」である。したがって、居合の稽古には日常の動きとは異なる意識の介入が、稽古する者=学習者に必要とされる。この「意識の介入」という作業は、極めて難しい。身体に関わる知(覚)は「暗黙知」とも呼ばれる。何らかの形で意識の俎上に上げないと見えてこないものである。師匠からの指導、ディスカッションなどを経ることで、それは意識化されることがあるかもしれない(同好会という装置は、その意味ではきわめて有効である)。だが、その暗黙知が繊細な身体感覚であるとなれば、やはり自己の身体との対話を通してこそ、最も理解しやすい形で得られるのではないか(そもそも身体感覚など、師匠でも教えることはできない)。実際に相手を立てて稽古を行うことも、それによって身体から受けた刺激を自分の頭の中で意識化するという意味できわめて有効だと、そのような意義も自分は加えておきたい。

               ◇

 その道の達人は素人に比べ、技の動作における「意識のコマ割り」が多いという(斎藤孝『「できる人」はどこがちがうのか』ちくま新書、2001年)。刀の素振りを例にとった場合、初心者の場合は、ただ「振り下ろす」という動作の瞬間でしかない。それ以外に意識は働かせられないだろう。だが、達人はその瞬間をいくつものコマに割り、そこで多くの判断をする。だから、ほんの瞬間でも、達人には流れる時間が遅く感じられるという。これを自分なりに解釈すると、達人は「ココの感覚はこう」といった、日常生活では絶対に浮かべない、極めて繊細な意識をいくつも介入させることで、技の精度を高めているのではないかと思う。そして、そのような非常な事態を、日常化させてしまっているのだと。

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