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聞くほうも重い

 今日は、地方教育会の研究会に出席。
あいかわらず、ハイレベルというか、内容について行くのがキツイ。
お二方とも、足を使い、手間暇かけた重厚な報告で、話題性があり、議論も広まりと深まりを見せた。そのような報告を一度に二本。聞く側にとっても重い(とは、C葉先生の言)。
 I橋さんの報告は、ゼミで聞いてきた内容を含んでいたので、自分や指導教員もああだこうだと言っていたことを思い出しつつ聞いていたが、この研究会での先生方からの指摘は別格。なるほどそんな見方もあるのかと唸る。「確認のため」といって出される質問も、報告者の分析視点の深化を促すような、建設的で鋭いものである(そのような質問はTゼミでは出ないし、自分も出せない)。そんな、さらなる考察のきっかけとなるようなところに、すばやく「眼」が行くという、その「眼」の精密さに学ばなければと思う。もちろん、一朝一夕で自分の「眼」が鍛えられるわけはないから、こうして研究会に出席しているのだが、果たして鍛えられているのかどうか┐(´~`)┌
 Oさんの報告での議論中に提起された問題―教員養成史における師範学校史偏重の問題(師範卒は全体の三割程度、多数はnot師範出)と教育会の教員養成事業(あるいは他の養成ルート)の問題―さまざまな教員養成のありようへの指摘も面白かった。たとえば、壺井栄『二十四の瞳』で師範出の大石先生に向けられた同僚教員や庶民の眼差し、その背景を知り、物語の理解を深めることにもつながるかもしれないなどと考えたりした。

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