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試験の秘儀性

 本日から、大学入試の二次試験。
今年も例によって、お手伝いをする。
さすがに今日は遅刻せずに済んだ(※昨年の悪夢)が、まだ明日もあるので油断できない。

 休憩時間を利用して、竹内洋『立志・苦学・出世―受験生の社会史』(講談社現代新書、1991年)をよむ。
かなり前に買ったものの、積んどいたままだった。今回の「受験」(お手伝いだが)を機に、ようやく眼を通す。
 「受験」という言葉が明治30年代から(「遊学」というキーワードにかわって)頻繁に使われるようになり、その意味も入学試験としてのそれに特化していく。
そういった受験観念の誕生が正しい受験生とは何かについての物語を紡ぎ、特定の行動範型をもつ「受験生」像を呈示する。
受験生はその物語に規制され、そこに「受験的生活世界」が形成されていく――。
本書では、受験雑誌の分析を通して、その過程が(その後の変容も含めて)詳細に論じられている。
日本の入試問題が、事実についての細かな知識を問うものになっており、受験生に「預金型」学習を強いるものだった(問われるのは「記憶力」)という指摘も説得的である。
 1991年に書かれた本だが、最近巷で話題のトピック(例えば、『ドラゴン桜』とか)を先取りするような記述もうかがえる(「第六章 受験のポスト・モダン」)。別の見方をすれば、それは受験に関する問題の本質が、今日全く変わっていないことを示す証左かもしれない。
 例えば、「受験産業は教育とアカデミズムの秘密を暴く」に関する以下の記述。

「受験生にとって予備校がおもしろいのは、予備校には目標があるからとか教師が熱心だからというようなことではない。そこでは徹底的に試験が相対化され、暗号の位置におかれるからである。予備校は入試を秘儀的な儀式の位置から暗号解読ゲームに変換してしまう場だからである。試験の秘儀性が剥奪されることは、学校=教育システムの存立構造の秘密のカラクリを知ってしまうことである。それはアカデミズムの秘密-真理の探究というよりも、それ自体特有のルールにもとづいた知的ゲーム-をも知ってしまうことになる。」(179ページ)

「大学側からする入試選抜方法の改革がいつも受験産業に負けてしまうのは、予備校などの受験産業は入試を徹底した戦略ゲームと考えるのに対し、大学側は教育的意義や人間形成などの教育的言説を入試という排除ゲームに持ち込むからである。そのぶん大学側は戦略的思考ができなくなる。」(181ページ)

「受験が人間形成や努力倫理などの教育的言説や道徳的言説とセットになっているときに重い深刻劇になる。受験産業は受験からこの種の教育的言説や道徳的言説を放逐することによって軽やかなゲーム性(受験は要領)に変換したのである。」(182ページ)

試験の秘儀性の剥離を捉える氏の指摘は、読んでいて痛快であった。

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