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「言葉」と「体験」

 2月9日に、次期学習指導要領の基本方針に関するニュースが流れた。今度は、「言葉の力」だという(「学習指導要領、『言葉の力』柱に 全面改訂へ文科省原案」、asahi.com、2006年02月09日10時00分)

さらに、2月13日のニュースでは、中央教育審議会教育課程部会「審議経過報告」について次のように記している。

「ゆとり教育」のもとになっている今の学習指導要領に代わる次期指導要領について、結城章夫・文部科学事務次官は13日の定例記者会見で、「指導要領は『言葉』と『体験』をキーワードに、早ければ06年度中に改訂する」と述べた。文科省はこれまで全面改訂のスケジュールについて07年度末までとしてきたが、教育改革の加速を望む声が強いことを踏まえて1年前倒しした。
〈註〉「文科次官、学習指導要領で『06年度中の改訂目指す』」、asahi.com 2006年02月13日21時44分。

「言葉」「体験」
この二つの鍵概念が飛び出してきたのはおもしろい。
当然のことながら、この問題の議論においては、「言葉」と「体験」の接続関係が論点となってくる。両者が全くの並立関係で、一方で「言葉」だ「国語力」だと言い、他方で「体験的学習」だと論じるだけでは、「学力」対「ゆとり」の対立構造と何ら変わらない。

 「言葉」とそれを教える国語教育(基礎学力)の重要性について、学校現場の先生方から熱い持論を聞くことがある。国語教育が重要だということには異論はない。
 しかし、それが単なる形式的活動としての音読・暗記・書き取りを重視せよという俗論的な方法の主張に終始するだけなら異論はある。
 もちろん、身体を通した認識活動の効用(=「わざ」から知る)については理解するし、自分も武道を学ぶことを通してその意味を日々考えている。とはいえ、やはりそれは学習の一面にすぎない。

 「ゆとり教育」の対義語としてよく用いられる「詰め込み教育」(「学力重視」でも構わない)の意味を、国語教育の文脈で自分なりに解釈すれば、それは「言語主義」である。すなわち、文字や音声=「言葉」として提示される知識が、それが指し示す事物・事象の具体性を抜きにして、単なる記号として記憶されるような学習の仕方である。
 情報化が進む今日にあっては、何ら背景のない「言葉」に圧倒される事態が予想される。自分自身、その犠牲になってしまっており、その進行に歯止めがかからないことを危惧している。
 したがって、このような現状に国語教育はどう立ち向かわなければならないのかが議論される必要がある。少なくとも、教科書に書かれている文章(=「言葉」)を読んで、「どんな気持ちになりましたか?」といった個々人の主観・情緒志向を問うている限りは、問題は解決されない。国語教科書に書かれている「言葉」が指し示す具体的事象へと、視点を広げなければならない(それは「教科書に書かれている文章が、具体的事実に堪えうるものかどうか具体的事実の観察をもとに検証する」ことであり、端的にいえば「教科書を疑え」ということになる)。

 だからこそ、一つの考え方として「体験」という概念が「言葉」と対になるものとして、今回登場したのではないかと推測する(深読みだろうか)。その意味で国民に論点を投げかけているのなら「おもしろい」。

〈リンク〉
・中央教育審議会初等中等教育分科会教育課程部会「審議経過報告」、2006(平成18)年2月13日。
[http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/06021401/all.pdf](PDF)

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