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わざから得る快楽

 外はポカポカ陽気なのに、今日もあいかわらず学内を歩き回る忙しい一日だった。何しろ椅子に座る時間が少なく、落ち着きがない印象を周囲に与えてしまっている。
 そして、夜は居合の稽古へ。大学のほうがかなり忙しいが、かといって、口で反省し、課題ばかりを書き溜めるだけでは技は上達しない(その点では「武道は論ずべきものに非ず、行ずべきものである」という指摘に同意する)―と、こう書くことで、技の鍛錬=錬武を実行してまっせというところをアピールしちゃう。
 
 居合は刀術の一種として考え出されたものであるが、今日、その理念は〈人間形成〉と結びつき、精神の鍛錬を第一義として論じられる場合が多い。
 しかし、〈人間形成〉を念頭において日頃の稽古を行っている者などおそらくいないだろう。自分に関していえば、「技術の修練のみに傾倒することなく、自己修養との関連からその修行目的を十分考えていくことが必要である」などと学科試験で書いたりするものの、実際の稽古で〈人間形成〉といった崇高な理念を念頭に置くことなどはまずない。
 そもそも人間形成と武道の稽古との間にどのような因果関係があるのかがよくわからないし、おそらくだれも証明はできない。もちろん武道関係者のなかに「人格者」の方は多くおられるが、それが稽古の成果によるものだとする論証は困難なはずである(本人は武道のおかげだというかもしれないが)。すなわち、それは証明不可能な部分を含む「思想」であるから、否定も肯定もできない。本人がそれを支持しているというだけの話にすぎない。
 自分が現在保持している「思想」=「居合修行の目的」は、「居合によって、どんな事態が突如自分を襲うかもわからない、よって油断があってはならない、という心構えが養われる」というものである。

 だがそのような「居合修行の目的」以前に、自分が体を引きずってまで稽古するのは、それが快楽をもたらしてくれるからである。快楽というと、本能にしたがうままに欲望を貪る堕落的な行為が想起されがちだが、ここでいう快楽とはそうではなく、むしろ訓練を積むことによって順次開発されていく高次のものを指す。
 例えば、刀が空を切り裂く音や、切り下ろしがピタっとが水平で止まったときの手応えを身体を通して感じたとき、一つの業が最初から最後まで納得のいくかたちで決まったときなどは快感である。
 しかし、稽古を積まないかぎり、その高次の快楽を味わうことができない。そして稽古を積めば積むほどさらなる快楽があることを知り、(矛盾するようだが)ストイックに稽古を続けていく―。だから高段者ほど実はまだ自分たちが知らない快楽を味わっているはずだ(先生方はそれを隠している!)というのが、自分の推察(暴論)である。
 わざの達人たちが、「チョー気持ちいい」や「ヘヴン」などと声に出すのは、まさにその境地に達してしまったからではないのか。自分はまだまだそこまでの快楽には達していないために、それを求めて稽古を続ける―。

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