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マジでお疲れ!!

 先週土曜日は、教育会研究会(第12回)。はるばる広島からSさんも参加するなか、
自分は、Iさんとともに(というか半ば強引に誘い)村教育会をテーマとして共同発表する。
リポDを二日間で四本(いやそれ以上か)飲んだおかげで、質はともかく、量的には豊富なものに仕上がった。
 中田という地域を取り上げることの意義(宮城県全体の動きにおける中田の位置)など、言われるべきことをしっかり言われるとともに、今後の考察への糸口となる新たな知見をたくさん頂くことができた。
 さしあたり、来月末の学会論文提出に向けてIさんと取り組まなければならない課題は、郷土教育をめぐるK先生から頂いた以下の指摘に関わるだろう。すなわち、
 それまでの地域の生活から分断されるかたちで設立された(ものとみられる)近代学校の実態が、実際には我々の予想以上に、「地域の学校」を担っていたのではなかったということ。「教育の郷土化」に関する視点はすでに明治期からあり、昭和期の郷土教育運動に至る過程は、すでに展開されている実践が、郷土教育論(言説)を纏っていくことで成熟していく過程ではないかということ、それゆえに、問題は、何をもって郷土教育というか、どれくらいのスパンで意識的に時代を切るか、という事であり、論じる側の問題認識が問われるということ―。Iさんがんばってください(他人事)。

 もう一人の発表者は我らがC田さん。明治末期、教育勅語趣旨徹底に地方教育会がいかなる役割を果たしたか(文部省の諮問に応じた全国連合教育会の答申作成に各地方教育会がどう関わったか、連合教育会へ提出した各地方教育会の意見内容はどんなものであったか)がテーマ。「再修正版」ということであったが、実は自分がちゃんと聞くのは今回が初めてであった。
 以下の指摘が、印象に残る(引用させていただきます)。

 そもそも文部省の諮問自体が、教育勅語の理念内容そのものの時代不適合化という核心に手をつけることなしに、権威動揺状況を克服する途を趣旨徹底の方法的補強と徹底の実際的主体の能動的な意識と行為を喚起することに求めた措置だったのであり、これに対応した地方教育会の側も核心に触れることはせずに、趣旨徹底のための具体的方策の案出と方策の効果を基礎付けるものとして教師の信念に動機づけられた実践努力の調達との二点に問題を専ら限定して答申を作成していたのである。地方教育会答申は、教育勅語趣旨徹底の要請をその構成員たる教師自身の「心のありかた」の問題に収斂するかたちで作成されていたのだった。こうした文部省と地方教育会との教育勅語趣旨徹底をめぐる悪循環が明治末期の天皇制教育理念の動揺状況を一層深刻にし増幅させていくのであった。

本来は教育勅語それ自体、および勅語がもはや「時代不適合」となっている社会状況のほうに眼を向けなければならないはずなのに、あくまで教育を教師の努力で何とかすれば勅語の趣旨は徹底できるという教育万能主義というべき問題の枠組み(むろんそこでは教育勅語も「万能」だろう)に教育会の答申内容が収まってしまっていること。そのことが勅語の権威性をたえず意識化させる一方で、あくまで(それだけでは解決困難な)勅語の趣旨徹底に収斂するかたちで問題化されるため、結果的にたえず勅語の権威性が脅かされるという「悪循環」。
 自分にはそう読めた。何だか今日の教育基本法「改正」論議にもあてはまるような問題の構造がそこにはあったと思えてくる。今日違うのは、「時代不適合」だから教育の基本理念を変えましょうと、あっさり言えてしまえるところか。

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何はともあれ、まずはお疲れ!

 昨日のサイエンスカフェは盛会のうちに終了した(もちろん、ほんとうに盛会だったかどうかは、私の独断)。スタッフリーダーとしては、ほんと肩の荷が下りたぜ、まったく。
 テーマが「教育」という身近な話題であったために、参加者のみなさんは、皆語りたくてしょうがなかったはずである。その意味で、ファシリテーターのみなさんは議論の切り盛りが大変であったことだろう(それとも大いに語ってくれた分、逆に楽?だったか)。ごくろうさまでした。自分も疲れた。多方面にわたる質問へのT先生の回答も、(とりわけ後半のほうは)うまく切り返せていたものだったと思う。
 何しろ、参加者の顔ぶれは、小中学生から戦争体験世代に至るまで幅が広い。一風変わった目立ちたがりの人もいた。そんな方々が共通に理解できるコトバを、そう即座に話せるものではない。
 もちろん、話を「わかりやすく」してしまうと、削らざるを得ない部分がでてくる。
 教育を「科学」するとは何か、「知識」と「学力」はどう違うのか、「知識」と「考える力」はどう関係するのか……、根本的な点に眼を向けると、自分だって疑問は尽きなし、またその手の疑問は短時間で理解できるものでもないだろう。

 ぜひ参加された方々には、今回のカフェを機に、現在自分が掛けている、教育を捉える〈色眼鏡=視点・認識枠組み〉を一度外して、「みて」もらいたい。自分なりに解釈すると、それが今回のカフェのテーマになろうか。
 教育は価値と利害にかかわる営みであるために、教育論議は多用な価値観や利害関心が錯綜するものとならざるを得ず、容易には合意に至ることはできない。そのうえ、教育はだれもが自分の経験に基づいて対等の資格で語ることのできる領域だと考えられがちであるだけに、教育・学校はどうあるべきかという当為論や、どういう教育が望ましいかという理想論のレベルにとどまりがちになる(『新版 教育学がわかる』朝日新聞社、2003年、4-8頁、藤田英典筆を参照)。
 教育を「科学」するとは、抽象的に言えば、そういった自分がもつ教育観を相対化する試みだと考える。そういえば、東北大学初代総長の沢柳政太郎は、(教育実践に関して)仮説を提示しそれを実証する、という実験的プロセスに基づく「実際的教育学」を主張していた。道徳教育はこうじゃなきゃだめ、といった実験を経ない思弁的な主張を彼は峻拒した。のちに彼が校長をしていた私立成城小学校の設立趣意書には、「科学的研究を基とする教育」が掲げられていた。
 もちろん、「科学」の意味内容は、多々考えられる。自分もこれを機に、一度教育の「科学」ということについて、きちんと考えてみたい。まずは、大塚久雄『社会科学の方法』でも読み直そうかな・・・・・・、いずれ。

〈追記 6月7日〉
・河北新報社/東北大学サイエンスカフェ特集ページ
http://www.kahoku.co.jp/spe/sciencecafe/index.html

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狭い世界に閉じこもらないための試みとして

 本日は夕方から、サイエンスカフェ*1の打ち合わせ。
アルバイト学生(ファシリテーター)は何とか安定数確保できた。
とはいえ、やらなければならない仕事はまだまだある。やれやれ。

講師はさらに頭を痛めるはずである。
想定される参加者は中高生から年輩者に至るまで、幅が広い。
こちら(講演)に求めている内容も、世代によって異なるだろう。
そのような多様な参加者に対して、「教育を『科学』する」するおもしろさや意義を、どう参加者に伝えるのか。こちら側の問題は、おそらくそこに行き着くと思う。個人の「好み」の枠にとどまらない、「科学」や「研究」のおもしろさが身につまされる(ものごとを見る眼が変わる)ような、そんなかたちで聴く側に知らしめること、これは話す側が「おもしろい」「これは驚いた」といった体験をしていなければ困難である。正直自分は体験できた試しがない。T先生は伝えられるか。

             ◇

参加者のほとんどは教育学部の学生ではないだろうから、難しい専門的な事柄(用語や法則など)を「ご存じですね」と言わんばかりに、簡単に素通りして済ますわけには行かない。
 例えば、今日の日本教育史の授業(Tさんの検討論文は明治期教科書検定制度成立前夜がテーマ)。自分やI橋さんらドクター学生の反応とは対照的に、教授学習研究コースから受講しているM1の学生は、今日の内容について、専門用語(史実・人名)だらけで、さっぱりわからなかったと感想をもらしていた。史実を丹念に掘り起こし、複雑な制度的実態を明らかにしていくことは重要な作業ではある。そのためにはどうしても地道な作業と専門語・学術語の使用は避けられない。しかし、一方でそれが専門学者内で消化されるにとどまるだけでは、その学生たちの心を打つことは難しいのではないか、「細かすぎて伝わらない」(だからつまらない、モノマネだったらおもしろいけど*2)などと言われてしまうのではないか(もちろん、学生たちも安易・早急によりかかるべき結論を求めるべきではないが)。

カフェの参加者は、さらにこちらの言葉が通じない方々である。一部専門家だけの狭い世界に閉じこもることを避ける試みとしてサイエンスカフェを捉えるならば、これは大学の研究者・学生はかなり鍛えられる。
 参加者の方々には、ぜひ講演者・ファシリテーターにどんどんツッコまれることを熱望する。

*1 サイエンスカフェのホームページに前回(第9回)の風景を写した写真がUPされている。自分も紛れ込んでいる。
*2 細かすぎて伝わらないモノマネ選手権Ⅷ(YouTube) 
その1 その2 その3 その4 

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「心の教育」についてのメモ

 本日の日本教育史の講義は、(教育史だけど)「心の教育」(道徳教育)がテーマであった(この授業、受講者・聴講者の6人中4人=3分の2が教授学習の人間で占められている。人数が少ない上に、肝心の人間形成論からの受講者が、お馴染みの顔ぶれ二人を除いて全くいない。それってどうなのよ)。
 自分の関心に重なるテーマでもあったので、授業中いろいろ発言したが、さらに書き留めて自分の思考を整理をしておこうと思う。

■「心の教育」は、種々の問題を子どもの内面に閉じこめる。「自己責任」への還元として「心」の問題が安易に捉えられてしまう。種々の問題を個々人の心理状態、精神病理の問題へと収斂させてしまうことは、教育を社会問題のゴミ捨て場にするような思考、あるいは教育万能主義と結びつく可能性をもつ点でも問題である。

■子どもが起こす一切の事件を、大人の管理によって調整できると思う教育万能主義によって、教育論議はますます管理主義・厳罰主義へと向かう。だがおそらく問題解決には至らない。それどころか、子どもたちの行為を日常的に監視するというシステムの徹底化をとめどく進行させてしまいかねない。施策の自己評価という視点はかき消され、たえず子どもが誹謗・中傷の対象とされる。

■「心の教育」では、目標達成・問題解決のための具体的な方法というものが示されない。ただ心がけと立派な目標(義務感)だけが示される。子どもを、「むねをはって」「ニコニコ」といった画一的な態度や、既存の秩序への従順さ(「この学校が好き」)へと誘導するだけである。

■学力だけでなく、「心」の忠誠の面でも子どもたちは競争を強いられる。そのような息苦しい「学校適応過剰」の状態の中で、子どもたちは学校適応不足という強迫観念に駆られ、やがてその苦悩をいじめ・暴力というかたちで表現するようになっていく。

■内面的感情や態度に訴える心情主義的道徳教育をどう乗り越えるか、我々はそこでもっと「格闘する必要がある」。人生いかに生きるべきかという問題が、社会(科学的)認識や思考の方法と切り離せないかたちで展開する道徳教育のあり方を模索する必要がある。例えば、『心のノート』を子どもの(『ノート』のアドバイス通りにはいかない切実な)現実と照らし合わせて、批判的に読み解くという方法があり得る。

■もちろん、国家権力が個人の内面に干渉すること(インドクトリネーション、価値の押しつけ)は問題で、教師が自主裁量のもとで同様の事を行うのは良いというのではない。具体的な社会的事実を豊富に認識させることが保証され、子どもの自由な価値判断の機会が確保されているか否かがポイントである。そのために子どもの生活経験に密接に関わる必要がある。だから、道徳教育は「心」だけを独立して扱うことは難しい。

…どうも飛躍があるが、疲れたのでこれくらいにしておこう(今月の忙しさと来たら…)。
それにしても、『心のノート』に関しては、いつの間にか予算が下りていて、すんなり現場に下ろされてしまった感が否めない(さらにはその存在感すら薄かったわけだが)。この経緯(なぜそうすんなり配布にまで至ってしまったのか)については、もう少し詳細にみていく必要がある。

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こどもをみる眼

 昨夜のニュース23で、筑紫哲也さんと宮崎駿さんの対談が放送されていた(筑紫録「宮崎駿さん」+金曜深夜便)。10年ぶりだという。
 こどもの日に放送されたこの対談では、教育のことにも話が及んで、興味深く視聴できた。
宮崎さんは、10年前の対談で「個性をのばすとか何とかいろいろ言うけれども、そういうことはやめて、こどもを一度大人の監視下から解放すれば、遊ばせなくてもこどもは遊ぶ」と発言している。「こどもの凶悪化」や「しつけがなっていない」といった言説に傾きがちな世間の「常識」と比較すると、宮崎さんは、子どもが学校的秩序に過度に隷従している実態を鋭く捉える眼をもっていると推察する。子どもの「学校適応過剰」(一元的な学力・人格基準に基づく学力・忠誠競争の深化)こそが、いじめ・迫害などの問題を引き起こしているという見解は、教育学の領域でもすでに提示されてきた(例えば、竹内常一『子どもの自分くずしと自分つくり』東京大学出版会、1987年)。

 宮崎さんは、以前ご自身が「教育の内容が重すぎる。もっと薄い教科書でいい」といった旨、述べていたことに触れた。
 ところが実際、文部科学省がそれを実行したところ、違う問題(学力低下のことだろう)へと発展してしまった。
 この現状に対し、宮崎さんは「何か一つ問題を取り上げて解決すればいいというようなものではない」、「格闘する必要がある」と語った。以前「『学力』対『ゆとり』という振り子」というエントリを書いている自分としても、この宮崎さんの指摘には共感できる。

 宮崎さんの指摘には、子どもをただ単に囲うだけで良しとする管理主義的傾向への批判が含意されていると考える。
 対談の冒頭、「世の中この10年で何が変わりましたか」という筑紫さんの質問に対し、宮崎さんは「みんなが不安を意識するようになったことは確か」と述べた。バブルがはじけて皆がくたびれてしまい、もう変化しないでくれという願望が強くなり、不安ばかりが募ってしまった―、そんな意識が子どもたちをみる眼差しにも反映している可能性を、大人たちは考える必要があるのではないか。(対談の内容は、過疎化や少子化、さらには企業保育園をつくりたいという話など多岐にわたったが)自分はそんなメッセージを受け取った。

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加速度的上達

 日曜日は同好会の稽古に参加する。
 ゴールデン・ウィークに入ったし、人はそんなにいないだろうなぁと思っていたら、かなりの盛況だったので驚いた。(正確に数えていなかったが)新入生7人ほどが見学に来ており、居合を実体験していた。
 当然ながら、皆、居合固有の特異な動作に苦戦していた。
 礼法一つとってみても、そこにはいくつもの細かい決まり事=型が定められている。それを一度に頭にたたき込んで行おうとしても無理がある。何度も稽古を重ね、一つ一つの細かい動作を意図的に自分の身体に滲み込ませていくことで、徐々にそれらの動作が無意識にも行えるようになる。
 一見してシンプルな動作に秘められた「出来事」の多さを指摘され、その通りに行う難しさを見学者たちは味わってくれたはずである。

 稽古の最後に演武を行った。最後の演武は二年生たちである。
 彼らの上達ぶりは日頃からみて認識しているが、今回の見学者と比較すると、改めてその加速度的変化に驚かされる。彼らが一年前ぎこちなく刀を振っていた風景は、間違いなく今回の見学者たちがみせたそれと同じであった。
 同様のことが自分自身についても言える。自分が居合をはじめた頃。
そのころの自分の居合がどんなものであったかは、もはや思い出せない―。

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