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「心の教育」についてのメモ

 本日の日本教育史の講義は、(教育史だけど)「心の教育」(道徳教育)がテーマであった(この授業、受講者・聴講者の6人中4人=3分の2が教授学習の人間で占められている。人数が少ない上に、肝心の人間形成論からの受講者が、お馴染みの顔ぶれ二人を除いて全くいない。それってどうなのよ)。
 自分の関心に重なるテーマでもあったので、授業中いろいろ発言したが、さらに書き留めて自分の思考を整理をしておこうと思う。

■「心の教育」は、種々の問題を子どもの内面に閉じこめる。「自己責任」への還元として「心」の問題が安易に捉えられてしまう。種々の問題を個々人の心理状態、精神病理の問題へと収斂させてしまうことは、教育を社会問題のゴミ捨て場にするような思考、あるいは教育万能主義と結びつく可能性をもつ点でも問題である。

■子どもが起こす一切の事件を、大人の管理によって調整できると思う教育万能主義によって、教育論議はますます管理主義・厳罰主義へと向かう。だがおそらく問題解決には至らない。それどころか、子どもたちの行為を日常的に監視するというシステムの徹底化をとめどく進行させてしまいかねない。施策の自己評価という視点はかき消され、たえず子どもが誹謗・中傷の対象とされる。

■「心の教育」では、目標達成・問題解決のための具体的な方法というものが示されない。ただ心がけと立派な目標(義務感)だけが示される。子どもを、「むねをはって」「ニコニコ」といった画一的な態度や、既存の秩序への従順さ(「この学校が好き」)へと誘導するだけである。

■学力だけでなく、「心」の忠誠の面でも子どもたちは競争を強いられる。そのような息苦しい「学校適応過剰」の状態の中で、子どもたちは学校適応不足という強迫観念に駆られ、やがてその苦悩をいじめ・暴力というかたちで表現するようになっていく。

■内面的感情や態度に訴える心情主義的道徳教育をどう乗り越えるか、我々はそこでもっと「格闘する必要がある」。人生いかに生きるべきかという問題が、社会(科学的)認識や思考の方法と切り離せないかたちで展開する道徳教育のあり方を模索する必要がある。例えば、『心のノート』を子どもの(『ノート』のアドバイス通りにはいかない切実な)現実と照らし合わせて、批判的に読み解くという方法があり得る。

■もちろん、国家権力が個人の内面に干渉すること(インドクトリネーション、価値の押しつけ)は問題で、教師が自主裁量のもとで同様の事を行うのは良いというのではない。具体的な社会的事実を豊富に認識させることが保証され、子どもの自由な価値判断の機会が確保されているか否かがポイントである。そのために子どもの生活経験に密接に関わる必要がある。だから、道徳教育は「心」だけを独立して扱うことは難しい。

…どうも飛躍があるが、疲れたのでこれくらいにしておこう(今月の忙しさと来たら…)。
それにしても、『心のノート』に関しては、いつの間にか予算が下りていて、すんなり現場に下ろされてしまった感が否めない(さらにはその存在感すら薄かったわけだが)。この経緯(なぜそうすんなり配布にまで至ってしまったのか)については、もう少し詳細にみていく必要がある。

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