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おお、コレはスゴイWeb資源だ

 岐阜県図書館のWebサイトにおいて、「『岐阜県教育史(通史編/史料編)』目次」が公開されている。どうやら今年3月から公開されている模様。ちと気づくのが遅かった。
 『岐阜県教育史』といえば、カジヤマ先生が企画・編集に尽力した、質・量ともに各都道府県教育史本のなかで最高クラスのものであり(全30巻は前代未聞。執筆陣も充実)、ウチの三先生の天敵である(は余計か)チバ先生も絶賛している。
 目次を一瞥しただけでその中身の濃さがわかる。その時代時代において考慮すべき歴史事象が網羅されているだけでなく、決して概説の域にとどまらない詳細な内容は、最新の研究成果が詰まったものとして無視できない精度を誇っている。
 これまでの都道府県教育史にはみられなかった斬新な分析視角もみられる。とりわけカジヤマ先生が重視してきた地方教育会の活動が分析の俎上に載せられている点が、本書の大きな特徴といえよう(メディア史的着眼もおもしろい)。レファ本としてはもちろん、「(中央からの)教育政策の成立と浸透」という枠組みに回収されえない、地域における教育営為の多様な展開―「中央の支配・統治という政治的・社会的攻勢に対峙しつつ、さまざまな矛盾や課題を抱えつつも、自立した独自の生活や文化・教育を創造する」側面―を把捉するという、地域教育史研究の手法を考えていくうえでも『岐阜県教育史』は示唆に富む本といえる。自分もすでに村教育会や大正自由教育に関わる部分で勉強させてもらっている。

 加えて岐阜県図書館では、「『岐阜県教育会雑誌』目次」もWeb公開している。
 教育会といえば、「日本社会に学校教育を急速に普及定着させ、また社会教育を広範に推進した注目すべき情報回路」であり、その登場は「日本教育史上全く新たな組織・システムの造出」を意味している。「戦前の教育関係者の価値観と行動を水路付け、さらに地域住民の教育意識形成に大きな作用を及ぼした」とされる、教育会雑誌の目次公開は、これまたカジヤマ先生が中心となって史料蒐集した成果である。

 書籍にとどまらず、インターネット資源の面でも充実した成果を誇る〈岐阜県教育史〉の登場は、IT時代の地域教育史研究のあり方(研究成果の公開方法など)についても一石を投じたといえるのでは。

・『岐阜県教育史(通史編/史料編)』目次
[http://www.library.pref.gifu.jp/library/kyoikushi/mokuji_ed_top.htm]
・『岐阜県教育会雑誌』目次
[http://www.library.pref.gifu.jp/library/kyoikukai_z/mokuji_kyoiku_top.htm]
・岐阜県図書館
[http://www.library.pref.gifu.jp/]

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黎明期のこと

 すだっちが、「東北大学居合道同好会の来歴」と題して、設立の経緯や会への思いを記している。
彼のことだから、酒の力を得て書いた可能性も臭うのだけれど(笑)、書いてあることは結構重要である。現役会員のみんなも読もう。現在を規定するものとしてある過去(それも遠くない過去)を知ることは、これからの未来を考えていく上で重要な作業だからね。

 自分の意見を言わせてもらえば、
―同好会が、まさに外の大学から進学してきた一人の大学院生の発案で始動したという事実。その意味するところはとてつもなく大きいと考えている。内の人間だけでは、その(一度始まってしまえばささいに見える)一歩を踏み出すことすらおそらくできなかったであろう。事実、彼以外の誰もやらなかった。来年めでたく百周年を迎えるという歴史をもつ大学でだ。
 大学を拠点として生まれた若手会員の活動は、単なる会員数の増加にとどまらず、所属団体や流派の垣根を越えた交流を生み、各々の視野を拡大するうえで非常に有益なものになっている。そう考えると、宮城県の「会員拡充」に関する(というか、すでにそれにとどまっていない)彼の功績は大きい―
 これは決して過言ではない。同好会の会員が県大会で毎年それなりに活躍しているという事実は、裏を返せば、それだけ多くの若手会員が同好会をきっかけ(窓口)として居合道の世界に入り、稽古に励み、大会にも積極的に参加して、宮城の居合道を盛り上げていることの証左である。
 そのための土台をつくったという意味で、すだっちへの讃辞はいくら贈っても足りないのである(「宮城県居合道の今後ますますの発展を」と唱えているだけのとは訳が違う)。

 来年、同好会は発足五周年。そろそろ展開期といってよい時期に入る。
自分の記憶としては、同好会発足時は、「会員拡充」という表向きの目標よりも、「若手交流の輪を広げる」というところに活動の重点があったと心得ている(だからあんなに飲んだんだ)。そして現在、活動はその方向でも加速度を増している(さながら、回を重ねるごとにエスカレートしていく『北斗の拳』の次回予告のように)。これからの会員には、黎明期の理念を汲み取って、さらに自由な発展を遂げてもらいたい。自分はただそう唱えることしか能のない人間である。酒を飲みつつ、その様子を脇から頼もしげに眺めていることにする。

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女が刀を求めるとき

 中村きい子『女と刀』(講談社文庫、1976年)を読む。名作である。
前から読みたがっていたのだが、なかなか見つけることができなかった(確か絶版である)。
つい最近古本屋で見つけ、ようやく眼を通すことができた。
 COEのRAをやっていたときに読んでいれば、なおよかった。
 鶴見俊輔はこの本の「解説」で次のように述べている。
「この本には、明治以後の百年を、この本一冊によって見かえすほどの力がある。明治百年が日本の男が表にたって指導した歴史であったことを考えあわせるならば、明治以後の日本の男たち全体を見かえす力がある」(鶴見俊輔「解説」、同上書、335ページ)。

―鹿児島・霧島連峰の麓、外城士族の家に生まれたキヲは、父権領司直左衛門から、「郷士」の娘としての誇り―気高い士族意識―、「おのれを侵されるな」「血を汚すな」「おのれに意向をもて」との教えをたたきこまれる。しかし、「士族の娘の結婚」となったとき、ほかでもない父によって、その誇りは裏切られることになる。
 キヲは伊原兵衛門と結婚したものの、情(こころ)が通わない「血固め」の結婚に、そして家長制という立場によりかかることでおのれの男であるという権威を保とうとする夫に反発し、世の習慣に侵されない自身の生き方というものを模索していく。
 そのなかで、キヲの思いはいつしか実家に置いてある刀へと向かっていく―

話のおおよその流れは以上のようなものだが、キヲが刀に魅せられていく思いが記された以下の文章を、自分はとても気に入っている。

 このひとふりにつながる多くの刀が、かつて明治の御代以前の歴史をいかに揺り動かし、突き崩し、また創ってきたことであろう。(184頁)

 武士のたましい、あるいは精神の鏡などと申しても、とどのつまり刀自体は斬るということにしか、その本命はないのである。
 刀ひとふりのため、いくつかの権力が倒され、そしてまたいくつかの権力が生まれた。
 それゆえ、これまでに刀は世の仕置きにたずさわる男たちのみに、その所有は許されてきた。
―権力と刀、これは表裏一体をなしていることで、「刀」と存在する―
   (中略)
 たとえ、世がかわり、武器に飛道具が用いられる時代となって、刀にかわる火縄銃が生まれ、火縄銃につぐさまざまの銃がつくられたにしても、その時の権力をのみこみ、権力の威力という重さを、ずしりと突きつけるものは刀よりほかにあるまいと、わたしは考えている。(184-185頁)

 刀には刀であるがゆえに刀がもたねばならぬ美というものを、わたしは知っている。それは、このように床の間などに飾りとして、愛でられることで終わってしまう刀のことではない。
 ―おのれの意向をうちたてるため、いやさらに言うならば、「権力」というものを、おのれの手に握らねばならぬとしている人間の、その理念こそが、このひとふりとしてある―と構えたところで、敵を斬り倒す、その一瞬の刀のきらめきこそ、わたしはおのれの思念に映ゆる真の美というものをえがく。
 ―おのれ、というものを通すことで、生命を賭して刀と刀が向きあう。そのむきあう刀には、これをもつものの姿勢、心、目これらの動きが、闘う、あるいは敵を倒すために存在しているという精神で満ちている。その厳しさに見いだされる美を、射てばあたるという操作だのみの近代(はやり)の銃には、わたしは見いだすことはできないのである。
 生命を賭して生きる人間の魂、あるいはその裸像ともうつる、この刀と向きあうことで、日々わたしはいささかの弾みをもった。(185頁)

 キヲは、「子どもしか産めぬ女と、おのれの生涯を閉じることのなきよう、そのため絶えずわたしを激しく突きゆさぶる相手として向きあえるものは、このひとふりの刀にあらずしてほかになにがあろう」(187頁)と、おのれの意向をたてねばならぬとする自分の肌が向きあえる唯一のものとして刀を求めていく。
 掌を伝わって、ずしりとこたえるそのひとふりの重量(おもさ)が突きつける、時の権力者たちの強い意志。刀とその重量(おもさ)と向きあって生きていかねばならぬとするキヲの意向は、現代に生きるわれわれの軽さを思い知らせる(実際に居合の稽古で刀を持っても、そんなことを考えたことはなかったな)。

 齢七十の老齢になって夫と離婚するキヲが、兵衛門に吐き捨てた言葉は、
ひとふりの刀の重さほどにも値しない男よ」。
〈刀をもつ女〉を妻にもっていたりする旦那様は、こんなことを言われないよう、「おのれの意向」を確と立てなければならない(T橋さん、がんばってください)。

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ノウミツ

 昨日から二日間、鳴子にて、K山先生を研究代表とする科研の第一回全体研究会が開催された(先生の悲願が実現。これで教育会研究の対象は時期も地域も一気に拡大し、「総合的」に展開されることになった)。
 全国の錚々たる研究メンバーが一堂に会し缶詰状態で勉強するというその濃密な空間に、自分も雑用等お手伝いを兼ねるかたちで参加させてもらう。
 当然だが、各先生方によるあまりにぜいたくな報告と議論は、未熟な自分にはとても消化しきれなかった。知識の洪水に襲われるとともに、研究の緻密さへの羨望がどんどん膨らんでいく。何とかついていこうというだけで只々必死の二日間だったが、充実感は一入だった。明日からまた出直しである。
 
 それにしても、K山先生のモチベーションと体力には、いつものことだが、感服する。定年を控えながらも、毎日夜遅くまで大学で「研究」するという生活スタイルを貫いているの見るをにつけ、ウチの講座のあの先生にも見習ってほしいと思ってしまう。「次の全体研究会は新年早々に。○○先生、△△先生ぜひご報告を」―はやくも次回を見据えたその発言(笑顔で控えめに語るその裏には、先生のしたたかな計算がある。自分やI橋さんもそれで何度かやられている)には、名だたる先生方もさすがに「勘弁してくれ」というご様子だった。

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「教科書を教える」と「教科書で教える」(その2)

 そもそも「教科書を教える」と「教科書で教える」をめぐる議論は、いつ頃から展開されはじめたのだろうか。
 カジヤマ先生が授業で示してくださったのは、文部事務官木田宏著『新教育と教科書制度』(1949年)の存在。故・木田氏は、後に国立教育研究所所長や日本教育情報学会会長などを歴任している。
 戦後改革のなかで若き文部事務官が著したこの本は、先生曰く、「戦後検定制度への改革の意味、新制度の基本的枠組み、具体的課題と問題状況、そのあるべき処方について平明に解説したもので、戦後教科書制度のレールを敷いたきわめて重要な文献である」と。
 この中に、すでに次のような記述がある。

「教師中心から児童生徒中心へと切りかえられた新教育にあっては、教育は、教科書を教えるのではなく、教科書で教えるのであるから、教科書は学習を行うための一つの手段である。教科書は決して、学習の目的ではない。」(100頁)

それまでの国定教科書制度から、いくつもの教科書が発行される事態となることで、「使用する者の側においては、当然選択権を持つことになり、教師に自主性が与えられる。教師は、地方の実状に照らし、児童生徒の個性特徴をも考慮して、教科書を選択するわけである」(31頁)。また、「教科書は一教材として、授業計画遂行の具となるわけであつて、教科書によつて教育内容が決められるのではなくなるはずである。以前は、教科書をいかに教えるかが問題であつたのであるが、今度は教科書でもつて、いかに所期の教育内容を教えるかということが教育の中心問題でなければならない。教科書は目的ではなく手段となる」(31頁)。
 木田が問題にしていたのは、それまでの国定教科書制度下における教師の自主性、主体性のなさ、ただ教科書記述(特定の解釈)の伝達者でしかありえなかった教師の不自由さである。修身科を例にとれば、「倹約」といえば二宮金次郎、という定型化されたかたちでしか授業展開ができない、柔軟性のなさである。従来のように、教科書が授業において絶対的な位置をもつのではなく、教科書に足りない部分があればそれを別の教材で補充し、またときには教科書の内容と対立する教材を提示して子どもの思考を促すといった、実践の場での力量がこれからの教師には必要とされる―、そのような問題認識が上記の「教科書を教えるのではなく、教科書で教える」という指摘に反映されていると考える(さすがに河南氏が論じたような、「教科書を使った」授業の具体的ありようにまでは議論は及んでいないけれども)。
 戦後まもなくの時点で、文部官僚が、「教科書は絶対的なものではなく、学習のための一つの手段・道具にすぎない」と明確に述べていることは注目に値する。今日の我々からすればあたりまえに聞こえる主張だが、それまでの制度が教材も教育内容も国定化され、統制的なものであった当時からすれば、木田の主張はとてつもなく画期的なものであったにちがいない。

  *  *  * 

 だが、「教科書を教える」と「教科書で教える」をめぐる問題は、捉え方によっては(文言にとらわれなければ)もっとさかのぼることができそうである。 
 今セメの演習で自分は〈明治の森文政期の修身科における口授法採用〉に関して報告し、このブログでも書いたのだが、口授法にはまさに教科書を学習の一つの手段・道具とみなす教科書観が一部採用されていたといえる。それ以前の儒教主義に基づく教科書教授では、教科書の地位は絶対的なものであり、そこに記述された内容こそが学習の「目的」、「教育内容」であった。口授法はまさにそのような「教科書を教える」教授法への批判を含んで展開されたのではないか。森文政期、修身教育の方針をめぐっては、教師が模範となるという以外に、徳の根本方針=教育内容についての大きな展開はなかった。だから一方で、徳育をめぐって論争が展開されることとなった。そして教育勅語の発布へと向かっていく……。そう考えると、改正教育令期から森文政期に至る教授実践(教科書教授から口授法へ)の変化が、うっすらとは整理できる気がする。

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「教科書を教える」と「教科書で教える」(その1)

 ココログの大規模なメンテナンスがようやく終了し、投稿が可能になった。

 さて、月曜日は、日本教育史の前期最後の演習に参加。ただ一人(正規の受講者でないにもかかわらず)出席率100%を達成してしまった。午前中の授業でこれを達成できたのも、「純情きらり」のおかげである。

 それは置いといて、授業のなかで「教科書を教える」と「教科書で教える」の文言が登場したことを受け、この問題について少しだけ考えてみた。

 教育の世界では、上の二つの言葉がよく対で用いられる。
「教科書を教える」授業ではだめで、「教科書で教える」授業へと進まなければならないという、ご存じの文脈である。授業のあり方をめぐる決まり文句として、かなり定着しているといえる。
 しかし、この二つの言葉の意味内容を問うとき、両者を明確に区別している人はどれほどいるだろうか。眼前の授業をみて、これは「教科書を教える」授業であり、「教科書で教える」授業ではないなどと明言できる人はいるのだろうか。
 「教科書で教える」―教科書で「何を」教えるのか。そのように問うとき、二つの言葉の境界線は不明確になる。「教科書で〈教科書に書かれている内容を〉教える」のであれば、それは「教科書を教える」授業と意味的に何ら変わらないと考えるからである。教科書をどう使うことで両者は明確に区別できるのだろうか。
 そんなことを授業で発言した。

  *  *  *  *  *

 「教科書を使った授業」の類型化を行った研究として、河南一氏のすぐれた研究がある。これを読んだときは、「眼から鱗」がぼろぼろ落ちた(熊本大学教育学部社会科教育方法研究室編『教科書を使った社会科授業づくり―その理論と方法』研究室紀要第1号、1994年、第一章、第二章を参照)。授業の類型化を通して、河南さんは「教科書を教える授業」と「教科書で教える授業」の意味内容を整理するとともに、教科書には、教材となる事象の説明に関して重大な誤謬が含まれている場合があることを実証している(そこがスゴイ)。
 河南さんが示した授業類型は、以下の四つである。

類型Ⅰ―教科書に掲載された資料を教材として使用し、しかも教科書に記述された内容(執筆者の解釈)を教育内容とする授業
類型Ⅱ―教科書を教材と教育内容の両側面で使用しないものであり、授業者が開発した独自の教材を使って、その検討を通して得られた独自の解釈を教育内容とする授業
類型Ⅲ―教師自身によって開発された独自の教材が使用されるが、教育内容の点では、教科書に記述されている解釈に依拠する授業
類型Ⅳ―教科書に掲載された資料・記述が教材として使用されるが、教育内容としては独自の解釈が設定される授業

 教科書には、教材と教育内容という二つのレベルの内容が記述されている。教材とは、一時間の授業で子どもに提示する内容のことを指し、教育内容とは、それを通して子どもに伝達したい内容(教科書執筆者の解釈)を意味する。(氏が研究対象とした社会科の)教科書には、この教材と教育内容の両者が記載されている(教科書が一定の授業展開を想定した形で執筆されている)ため、授業で教科書を使うと、「教科書を教える授業」(類型Ⅰ)に陥りやすいということになる。教材部分が教育内容と授業展開を前提としてその観点からのみ読まれること、「教育内容部分を中心とした読み方」になりやすいからである。
 公開研究授業などでは「教科書が消える授業」が展開されるが、しかし、それは教材部分を入れ替えながら(例えば、「地域素材の教材化」といったかたち)、所定の教育内容(教科書に記述されている解釈)を教えるという様相を呈している(類型Ⅲ)。この「事例入れ替え方式の授業」が「教科書で教える授業」であるかのように、これまでは捉えられてきたのではないか。
 本来注視すべきは、現実に厳然と存在する「教科書が消えない授業」である。では、教科書をどのように使うと「教科書を教える」から抜け出せるのか(→「教科書で教える授業」―類型Ⅳの模索)。それは、社会科においては教科書に掲載されたグラフや図表を用いて、「教育内容に直結する一つの読み方」(教科書執筆者が想定・期待する読み方)にとらわれない、多面的な検討をすることで達成されるのでははないか。実際、それら資料を自由に読みとると、そこには、教科書に記述されていない問題や記述と矛盾するような「不思議な疑問」が登場する――
 自分なりに、河南さんの問題提起を要約するとこんな感じだろうか。

  *  *  *  *  *

 ここで、教育史らしく、じゃあ、「教科書を教える」と「教科書で教える」をめぐる主張は、いつ頃から、どんな文脈で展開されてきたのか、という方向へと自分のなかでは問題が向かっていくのだけど、長くなったので、つづきは(その2)で。

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教育学を学ぶためのメモ~学問的体系が自分に代わって物を見てくれるわけではない~

 書きたいことはたくさんあるのだけど、ここ数日、情報の洪水に圧倒され(ヒデが引退を表明し、ドイツが敗け、北がミサイルを発射、などなど)今は力が絞り出てこないので、以前メモ帖に記していたことを書きおこしてみる(ブログをはじめる前は、メモ帖に書き込むことが多かった)。
 テーマは「教育学」だというのに、取り上げるのは、内田義彦「経済学をどう学ぶか」(『生きること学ぶこと』内田義彦セレクション1、藤原書店、2000年)。だが、一読に値する。
 これは内田が学生向けに書いた経済学の学び方に関する論考(初出は1966年)である。経済学のみならず、広く社会科学の学び方について論じたものとしても受け取れ、教育学を学ぶ自分にとっても非常に示唆に富む内容となっている。
 自分が同論考をとくに気に入っているのは、自然科学と比較した、社会科学独自の研究手法、難しさに言及している(と自分自身受け取った)からである。比率的に圧倒的多数の自然科学分野の学生や教員と関わることが不可避である総合大学の文科系学生として、理科系とのカリキュラムの顕著な違いに昔から疑問を持っていた自分にとって、この論考は一つの答えを示してくれている。
 例えば、次のような記述がある。

たとえば、医学や工学を専攻する学生は、大学のコースについてゆけば、細分されたテーマについての実験という操作を中核にもっていることで、(中略)少なくとも自分の専攻する分野についての主体的な研究能力を自然的につけざるを得ない。(中略)能動的・主体的に勉強する(自分で実験をすすめる)という困難な仕事すらが、ここではカリキュラムの進行それ自体の中に「組みこまれ」、いわば強制的に自主的にたらざるをえない形になっている。(195ページ)

 ところが、社会科学の場合は、一般に言ってそうなってはいない。創造的な学問を生み出す能動的な学習態度は、カリキュラムの進行それ自体の中に「組みこまれ」いや応なしに作り出されるという形にはなっていない。「どうしても、大学という真理の探求の場所に参加するという行為が、学生諸君の主体的な決断において要求されるのである」(196ページ)(*)。
*「参加」は、日本語では無責任な意味合いを帯びているといわれてもおかしくないほど、軽い意味で扱われるケースが多い(「参加することに意義がある」が、「参加しときゃいいんだろう」、あるいは「参加するだけじゃだめだ」というような文脈で受け取られてしまうといった具合)。それに対し、内田は「参加」を、(真理の創造において)ある部署を、責任をもって果たす(take part)ことと捉えなおす。

 さらに、経済学(社会科学)は積み重ね方式で学問を進めながら順次専門をきわめてゆくことが出来るようなものではないという。

テーマの設定や研究の進め方は、学界という土俵の上ではなく、現実の世界という広い土俵の上であるということ。真理は(出来上がったものではなく)探求されつつあるものであり、安心してもたれかかる既存の知識や体系はないということを一度心にきざんだ上、学界で現に問題となっていることを見渡しながら、自分としてはどこにどう土俵をとり、どこに真理へのはしごをどうかけて、どういう手順で何を明らかにしてゆくかを、自分の責任においてきめてゆく覚悟をもたねばならぬ。(199ページ)

 つまり、最終的には学問的体系に媒介されながらも、やはり〈自分の眼〉でものを見なければならない、ということである。自分の眼が体系によって深まってくる過程と、体系が自分の眼によって媒介されて深まってくる過程とが循環する、無限の過程が経済学(さらには、広く社会科学)の研究作業の内実だということである。そして、「過去の蓄積にもたれかかることをやめて経済そのものについての自主的な研究を始める決意をするとき、過去の蓄積は〈初めて〉蓄積としての意味をもって自分にせまってくる」(199ページ)。
 実は、自分がブログのタイトルに「タカの眼」(=自分の眼)と括弧付きで記すのも、この内田の文章に触発されたことが大きい。「経済」の部分を「教育」に置き換えても、何ら問題なく意味が通じてしまう。

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大会参加補遺

―やっぱり、とうとう書いてしまったのか。

 錬武会のブログには書かないでおいたが、山形での各流居合道「さくらんぼ」大会に対する、自分の「ガッカリ」をやっぱり書かざるを得ない。自分の試合結果についてとかいうことではなく。

 自分の周囲からも問題視する発言が噴出していた、大会名に漂う商業主義的思惑については、何も言うまい。大会を運営するためには、それなりの財政事情への配慮が必要なのだろうから。

 だが、"1th"はないだろう。
校正の段階で誰も気づかなかったのが信じられない。
補助役員をしていた地元中学生たちに笑われてもおかしくない。
子どもの学力低下を非難する「大人たちの学力低下」の現状を、モロに見せつけられた。

 今回の大会は(形式的には「第一回」だが、実質的に引き継いだ)昨年、一昨年の大会と比べると、試合参加者数、模範演武者数の少ない、静かな大会となった。さまざまな流派の演武が見られることを期待していた自分としては、残念な結果だった。大会名(とそれに伴う大会の位置づけ)の変更がこの参加者数減という結果に影響しているとすれば、皮肉というほかはない。

 来年は、今年以上に盛り上がってほしいと心から願う(せめて、"2th"はやめてね)。何しろ東北の人間にとって、他流の居合を見る機会というのは、こういった大きな大会に限られているのだから。

Program

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