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教育学を学ぶためのメモ~学問的体系が自分に代わって物を見てくれるわけではない~

 書きたいことはたくさんあるのだけど、ここ数日、情報の洪水に圧倒され(ヒデが引退を表明し、ドイツが敗け、北がミサイルを発射、などなど)今は力が絞り出てこないので、以前メモ帖に記していたことを書きおこしてみる(ブログをはじめる前は、メモ帖に書き込むことが多かった)。
 テーマは「教育学」だというのに、取り上げるのは、内田義彦「経済学をどう学ぶか」(『生きること学ぶこと』内田義彦セレクション1、藤原書店、2000年)。だが、一読に値する。
 これは内田が学生向けに書いた経済学の学び方に関する論考(初出は1966年)である。経済学のみならず、広く社会科学の学び方について論じたものとしても受け取れ、教育学を学ぶ自分にとっても非常に示唆に富む内容となっている。
 自分が同論考をとくに気に入っているのは、自然科学と比較した、社会科学独自の研究手法、難しさに言及している(と自分自身受け取った)からである。比率的に圧倒的多数の自然科学分野の学生や教員と関わることが不可避である総合大学の文科系学生として、理科系とのカリキュラムの顕著な違いに昔から疑問を持っていた自分にとって、この論考は一つの答えを示してくれている。
 例えば、次のような記述がある。

たとえば、医学や工学を専攻する学生は、大学のコースについてゆけば、細分されたテーマについての実験という操作を中核にもっていることで、(中略)少なくとも自分の専攻する分野についての主体的な研究能力を自然的につけざるを得ない。(中略)能動的・主体的に勉強する(自分で実験をすすめる)という困難な仕事すらが、ここではカリキュラムの進行それ自体の中に「組みこまれ」、いわば強制的に自主的にたらざるをえない形になっている。(195ページ)

 ところが、社会科学の場合は、一般に言ってそうなってはいない。創造的な学問を生み出す能動的な学習態度は、カリキュラムの進行それ自体の中に「組みこまれ」いや応なしに作り出されるという形にはなっていない。「どうしても、大学という真理の探求の場所に参加するという行為が、学生諸君の主体的な決断において要求されるのである」(196ページ)(*)。
*「参加」は、日本語では無責任な意味合いを帯びているといわれてもおかしくないほど、軽い意味で扱われるケースが多い(「参加することに意義がある」が、「参加しときゃいいんだろう」、あるいは「参加するだけじゃだめだ」というような文脈で受け取られてしまうといった具合)。それに対し、内田は「参加」を、(真理の創造において)ある部署を、責任をもって果たす(take part)ことと捉えなおす。

 さらに、経済学(社会科学)は積み重ね方式で学問を進めながら順次専門をきわめてゆくことが出来るようなものではないという。

テーマの設定や研究の進め方は、学界という土俵の上ではなく、現実の世界という広い土俵の上であるということ。真理は(出来上がったものではなく)探求されつつあるものであり、安心してもたれかかる既存の知識や体系はないということを一度心にきざんだ上、学界で現に問題となっていることを見渡しながら、自分としてはどこにどう土俵をとり、どこに真理へのはしごをどうかけて、どういう手順で何を明らかにしてゆくかを、自分の責任においてきめてゆく覚悟をもたねばならぬ。(199ページ)

 つまり、最終的には学問的体系に媒介されながらも、やはり〈自分の眼〉でものを見なければならない、ということである。自分の眼が体系によって深まってくる過程と、体系が自分の眼によって媒介されて深まってくる過程とが循環する、無限の過程が経済学(さらには、広く社会科学)の研究作業の内実だということである。そして、「過去の蓄積にもたれかかることをやめて経済そのものについての自主的な研究を始める決意をするとき、過去の蓄積は〈初めて〉蓄積としての意味をもって自分にせまってくる」(199ページ)。
 実は、自分がブログのタイトルに「タカの眼」(=自分の眼)と括弧付きで記すのも、この内田の文章に触発されたことが大きい。「経済」の部分を「教育」に置き換えても、何ら問題なく意味が通じてしまう。

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