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「教科書を教える」と「教科書で教える」(その1)

 ココログの大規模なメンテナンスがようやく終了し、投稿が可能になった。

 さて、月曜日は、日本教育史の前期最後の演習に参加。ただ一人(正規の受講者でないにもかかわらず)出席率100%を達成してしまった。午前中の授業でこれを達成できたのも、「純情きらり」のおかげである。

 それは置いといて、授業のなかで「教科書を教える」と「教科書で教える」の文言が登場したことを受け、この問題について少しだけ考えてみた。

 教育の世界では、上の二つの言葉がよく対で用いられる。
「教科書を教える」授業ではだめで、「教科書で教える」授業へと進まなければならないという、ご存じの文脈である。授業のあり方をめぐる決まり文句として、かなり定着しているといえる。
 しかし、この二つの言葉の意味内容を問うとき、両者を明確に区別している人はどれほどいるだろうか。眼前の授業をみて、これは「教科書を教える」授業であり、「教科書で教える」授業ではないなどと明言できる人はいるのだろうか。
 「教科書で教える」―教科書で「何を」教えるのか。そのように問うとき、二つの言葉の境界線は不明確になる。「教科書で〈教科書に書かれている内容を〉教える」のであれば、それは「教科書を教える」授業と意味的に何ら変わらないと考えるからである。教科書をどう使うことで両者は明確に区別できるのだろうか。
 そんなことを授業で発言した。

  *  *  *  *  *

 「教科書を使った授業」の類型化を行った研究として、河南一氏のすぐれた研究がある。これを読んだときは、「眼から鱗」がぼろぼろ落ちた(熊本大学教育学部社会科教育方法研究室編『教科書を使った社会科授業づくり―その理論と方法』研究室紀要第1号、1994年、第一章、第二章を参照)。授業の類型化を通して、河南さんは「教科書を教える授業」と「教科書で教える授業」の意味内容を整理するとともに、教科書には、教材となる事象の説明に関して重大な誤謬が含まれている場合があることを実証している(そこがスゴイ)。
 河南さんが示した授業類型は、以下の四つである。

類型Ⅰ―教科書に掲載された資料を教材として使用し、しかも教科書に記述された内容(執筆者の解釈)を教育内容とする授業
類型Ⅱ―教科書を教材と教育内容の両側面で使用しないものであり、授業者が開発した独自の教材を使って、その検討を通して得られた独自の解釈を教育内容とする授業
類型Ⅲ―教師自身によって開発された独自の教材が使用されるが、教育内容の点では、教科書に記述されている解釈に依拠する授業
類型Ⅳ―教科書に掲載された資料・記述が教材として使用されるが、教育内容としては独自の解釈が設定される授業

 教科書には、教材と教育内容という二つのレベルの内容が記述されている。教材とは、一時間の授業で子どもに提示する内容のことを指し、教育内容とは、それを通して子どもに伝達したい内容(教科書執筆者の解釈)を意味する。(氏が研究対象とした社会科の)教科書には、この教材と教育内容の両者が記載されている(教科書が一定の授業展開を想定した形で執筆されている)ため、授業で教科書を使うと、「教科書を教える授業」(類型Ⅰ)に陥りやすいということになる。教材部分が教育内容と授業展開を前提としてその観点からのみ読まれること、「教育内容部分を中心とした読み方」になりやすいからである。
 公開研究授業などでは「教科書が消える授業」が展開されるが、しかし、それは教材部分を入れ替えながら(例えば、「地域素材の教材化」といったかたち)、所定の教育内容(教科書に記述されている解釈)を教えるという様相を呈している(類型Ⅲ)。この「事例入れ替え方式の授業」が「教科書で教える授業」であるかのように、これまでは捉えられてきたのではないか。
 本来注視すべきは、現実に厳然と存在する「教科書が消えない授業」である。では、教科書をどのように使うと「教科書を教える」から抜け出せるのか(→「教科書で教える授業」―類型Ⅳの模索)。それは、社会科においては教科書に掲載されたグラフや図表を用いて、「教育内容に直結する一つの読み方」(教科書執筆者が想定・期待する読み方)にとらわれない、多面的な検討をすることで達成されるのでははないか。実際、それら資料を自由に読みとると、そこには、教科書に記述されていない問題や記述と矛盾するような「不思議な疑問」が登場する――
 自分なりに、河南さんの問題提起を要約するとこんな感じだろうか。

  *  *  *  *  *

 ここで、教育史らしく、じゃあ、「教科書を教える」と「教科書で教える」をめぐる主張は、いつ頃から、どんな文脈で展開されてきたのか、という方向へと自分のなかでは問題が向かっていくのだけど、長くなったので、つづきは(その2)で。

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コメント

興味深く読ませてもらったよ!小学校の現場に建つものの大雑把な感想を少し。
教科書はどの教室でも,誰でも使用可能な教育メディアです。そして授業とは様々な情報・認識・発達段階を抱えた多数の子どもに対して一人の教師が学びの場を提示する,多対1のカオス的世界。まずは「共通体験」を踏ませてそのカオスを一つの土俵に集めたい。だから学びの導入で教科書はよく使われるし,その先の展開もある程度書かれているので,そのまま学びが進んでも使われ続けてしまう。
しかし,教科書同様,どの教室にも存在するのが教員。教科書と教員は,双方とも子どもの学びに不可欠な教育メディア。その意味で教員自身が教材解釈し,自ら「教科書」足る教育メディアであるかどうか,これも子どもの学びの質を左右する大切な要素なんだよね。
教科書をどのように使うかは,言い換えれば教材研究をいかに深めるか。河南さんの類型Ⅰ~Ⅳって,そのまま「教材研究レベル」みたいに感じました。
だけど,類型Ⅳ=教員自身の教材解釈を獲得するには努力・時間・経験が必要。実際には時間に追われる教員。僕もそうです。だから類型Ⅳのように教材を多面的・多角的に研究して授業に臨むことがなかなか出来ていない(汗)。そんな中で最近,校内研究の場で「年に一度のフランス料理よりも,毎日食べれるお惣菜のような授業を」が合言葉に出されてきました。独自教材・場の設定などが成された「二度と出来ない授業」よりも,「だれでも実現できそうな,工夫された授業」を作ろう,という意味です。これはこじつければ,「なかなかできない類型Ⅳよりも,達成可能な類型Ⅲまでを目指そう」と言い換えられるのかな。これは反面,類型Ⅳへの道を自ら閉ざすようにも思えるけれど,否,「その中で教員の力量形成を目指し,類型Ⅳもできる力をつけていこう」のような志向性も含んでいます。
ともあれ,忙しさにかまけて忘れかけていた「教材研究」の意味・意義を再認識しました。興味深い書き込み,ありがとう!

投稿: すだ公民館長 | 2006/07/14 06:12

前述の〔こじつければ,「なかなかできない類型Ⅳよりも,達成可能な類型Ⅲまでを目指そう」~「その中で教員の力量形成を目指し,類型Ⅳもできる力をつけていこう」のような志向性も含んでいます。〕はちょっと間違っていました。

訂正:
「下手に教材にこだわり,再現不可能な類型Ⅲを目指すよりも,類型Ⅳができるような力をつけていこう」という言い方になるかな。

さぁて,今日は子どもを守ろうデー。早めの出勤です。いってきまぁす。

投稿: すだ公民館長 | 2006/07/14 06:22

 教科書にとらわれないというのは難しいかもしれませんね。
 今日は一日、明日からの研究会のための買出しをイタバシさんとしていましたけど、車中、ラジオで教育関連のニュースを聞きました。
 内容はたしか、算数の学習を具体的・日常的な文脈に置き換えて学ばせるよう、文科省が現場に働きかけるといったもの(もし、webに掲載されてたら、確認してください。誤解があるかもしれないので)。
 小五の子どもに、「8+0.5×2=」の計算をさせたところ、正当率が6割程度だったが、
「8ℓの水に、さらに0.5ℓの水をコップ2杯加えると、合計で何リットルか」、という問題にしたら、正答率は8割を超えたとか。
 でそれを聞いたイタバシさんと自分の感想は、「教科書にその程度の具体性は反映されているんじゃないか?」 
 教科書研究以前にまず、所与の教科書を使いこなせる教師の力量を問題にしなければならないのかなぁ、と思ってしまいました。「年に一度のフランス料理よりも,毎日食べれるお惣菜のような授業を」展開できる教師の力量をね。

投稿: タカキ | 2006/07/14 23:37

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