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学問と「どう生きるか」

  過去につけていた私的ノートからの抜粋。

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 阿部謹也『学問と「世間」』(岩波新書、2001年)を読む。
 阿部氏によれば、日本では、個人と社会の間にあって、個人を大きく規制している「世間」という存在を学問の対象とした研究が少ないという。
 各個人は、それぞれの「世間」に属し(例:学会)、そのことに自覚的ではない。そのため、例えば、「個人」や「公共性」などの欧米由来の概念が、自国の現実とのちがいについての十分な検討を経ずに、適用されることに気を払わないという事態が起こる。いまだにわが国の「個人」の観念がヨーロッパの個人の観念と一緒だと思っている。
 戦後日本で重要視されてきた諸概念の多くが空洞化しつつあるという現実があるのは、この世間=〈生活世界〉を捉えていないからであると著者はいう。学問を研究している間は「主観・客観の関係の世界(客観的・理念的世界が普遍的世界であり、そこでこそ真実が解明される)に関わり、日常生活においては、自然的生の中で生きる―その分断された生活が知識人や研究者の日常であった。
 著者は、日本人が社会科学的思考を長い間もてなかった背景に、「世間」を所与のものとして捉え、それを変えようという発想が見られなかったという理由があることを述べる。
 明治以降、日本の官僚機構は「近代化」された形をとってはいるが、その中での人間関係は歴史的・伝統的なシステムによっており、いわば「世間」によって営まれている。不祥事の際に仲間内の結束を守ろうとする意識がそれをよく表している。世間はまた差別的体系であるがゆえに、例えば、明治以来、被差別部落の子弟も他の子弟と並んで教育を受けることはできたが、学校教育の中で差別の問題が取り上げられることはなかった(学校の中で欧米流の個人の生き方が学ばれていたにもかかわらず)。
 では、世間=〈生活世界〉を出発点とする研究とはいかなるものか。著者は「教養」に視点を当てて、説明を行う。教養とは「自分が社会の中でどのような位置にあり、社会のために何ができるかを知っている状態、あるいはそれを知ろうと努力している状態」と定義することで、著者は教養を知識人の占有から解放する。そうすると、〈生活世界〉の中での教養とは、種々の知識を用いて生活の変化を確認・観察しながら、そこでの生き方を考えることといえるだろう。
 著者が所属した上原専禄のゼミナールでは、常に、「生きる」ということと直接に結びついている学問が主題となっていたという。
 著者は最後に、〈生活世界〉の中から学問を再構成していく手段の一つとして、生涯学習を挙げている。それは、「いかに生きるべきか」という問いを中心にして、さまざまな庶民の生き方を課題として扱う、生活現場からの発想に立った学問の再構築といえよう。(2001.7.5)

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 けっこう昔に書き留めたもので、たいした出来ではないし、本の内容をきちんと理解できているとはいえない。
 それでもこの本を思い出すのは、お前の研究生活(「生き方」)は今日の教育問題に真摯に対峙するものになりえているか、学会という「世間」に閉じこもって、自分の眼で現実を見ていないのではないか、と常に問い続けてくれるからだろう。学会のお手伝いもきっかけとなって、自分の研究姿勢をまた反省した。

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