やっぱり「間」だな
今日(水曜日)の稽古の際、すだっちから、県大会の演武を録画したデー・ブイ・デーをもらう。
改めて自分の演武を自己分析。
敗因はやっぱり「間」だな。緊張からくる焦りからか、一つ一つの技が淡白に見える。
一つ一つの動作のつながり(=かたち)にはなっても、一つの業としては表現されていない。
切り下ろしから血振りへの移行にしろ、血振りから納刀への移行にしろ、油断のない慎重さ―「残心」を示す必要があると感じた。倒した敵の生存を慎重に確認せず、また次の襲いかかってくる仮想敵の動きを見極めることもなくして、次の動作に移るとしたら、それは軽率である。
とりあえず、もっとじっくりやらねば。
とは言っても、ただゆっくりやれということではないから、難しい。
「間」は字義通りに言えば「形」として表現されたものの間隙にある沈黙、空白の部分を指している。しかし、業(「わざ」)における「間」とは、単なる空白でも沈黙でもなく、それなくしては業が成り立たないほどの構成要素である。単に時間的要素としてではなく、状況全体のなかでの必然性という観点から自らの呼吸のリズムや動作の間隔を決定することが、「間」の体得ということに他ならない(だから、業(「わざ」)の深い認識に至っていないと体得できない代物なのである)。
その成果として、業として表現された部分と表現されない部分との間に、抜き差しならぬ緊張関係があるとき、演武者の業は映えるし、周囲からも評価される。
とりあえず、地道にやっていくしかない。まずは、先に述べたような「残心」―自分的には「細心」と言いたい―を意識することから始めよう。
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