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常識的判決と倒錯の時代

 入学式や卒業式における日の丸・君が代への起立・斉唱の義務を否定し、違反者の処分を違憲・違法とする東京地裁判決(9月21日)は、時期が時期だけにやはり注目されるものである。判決をうけて尾木直樹氏は「常識的で妥当な判決」とコメントし(『朝日新聞』2006年9月22日、34面)、藤田英典氏は、「強制と処分は憲法と教育基本法に定められた教職の専門性と自立性、教育の独立性を揺るがす」と指摘した(同上)。

 まったくその通りだと思うのだが、現実に起こっているのは、その判決とは異なる転倒した事態―日の丸・君が代の強制―である。「『逆さ』の世界」という、丸山眞男がチャップリンの映画(『独裁者』など)に読みとったメッセージが浮かぶ。原告側から発せられた「意外」「夢のよう」というコメントからは、自らの思想・信念(常識)にしたがって行動した人間がいかに「逆さ」のイメージによって侵蝕されつつあったかという、その危機の深さを窺い知ることができる。

 判決に対し石原東京都知事は、裁判官は現場を見ていない、規律ある統一的な行動によらないと学校の荒廃は改善されない、といった旨のコメントを記者会見でしていた(『朝日新聞』、9月23日、38面)が、これには首をかしげざるを得ない。そもそも現場を知らない・見ていないということから、正しい判断ができないという結論を論理的に導くことはできない。また、学校の荒廃が事実だとして、なぜ日の丸・君が代の強制になるのかがよくわからない(むしろ、強制によって荒廃に拍車がかかっている可能性さえ想定される)。何でもかんでも愛国心の欠如や戦後教育悪玉論→特定理想の(スパルタ)教育像に短絡的に帰結させる思考では、かえって問題の原因と対処を見誤る可能性が高い。

 ところが、現状がこの倒錯に向かって突き進んでいることを考えると、ナショナリズムによる煽動について厳しく、注意深く見極めていく〈眼〉を確立しておかねばと痛感する。この種の問題は、むしろ「気づかぬうちに忍びよるもの」と想定するから。

●東京地裁判決要旨(PDF) @「日の丸・君が代による人権侵害」市民オンブズパーソン

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