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「人間の物差し」

月曜の夕方、大学にて。研究棟の一階にこんな掲示が出された。


Koguma_tyui














ついに大学付近でも、この問題が起こるとは(成田山なんて、アパートの前の「地獄坂」をバイクでのぼれば、5分もかからない距離だ)。くまさんも生きるのに必死なのだろう。

   ■   ■

だがおそらく、子ぐまさん程度では、いわき市民は驚かない。
いわきではかつて、ライオンが現れるという事件が起こったことがある。
もちろん、紛れもない事実である。
朝日新聞記事データベース『聞蔵』で調べたところ、ちゃんと関連記事がヒットした。
大学内のパソコンからなら、本文も読める。[いわき AND ライオン]で検索してみよう。

     □

当時の新聞記事によれば、事件の概要はこうである。


・事件発覚は、1992年9月19日午前6時。
・「92モスクワ国立ボリジョイサーカス」団が公演のためいわきを訪れ、会場となるいわき市総合運動公園に滞在(※ちなみに、総合運動公園は、自分の実家から徒歩で10分もあれば行ける距離。目と鼻の先)。
・見張りの団員が、ライオンの檻の施錠を怠る。
・ライオン、檻から出る。ライオンの名前「マスク」、オス7歳、体長2メートル。体重250-300キロ。「調教中」。「突然姿を現す」マジックショーに出演予定。
・19日早朝、公園内を散歩中の市民が発見し、警察に通報。
・警察官200人、地元猟友会会員約30人らが捜索にあたる。
・ライオン、運動公園の裏山へ逃げる。
・現場付近の学校、幼稚園、民家に注意が促される。


その後、事件はどういう結末を迎えたか。
残念ながら、ライオンは民家の近くで射殺された(午前10時40分、住民のリアルな目撃証言から、現場の生々しさが伝わってくる)。
麻酔銃など、その時いわきにはなかっただろうし、即時調達もできなかったのだろう。
また問題なことに、肝心の調教師が前の公演地、八戸に残ったままであった(いわきでの国内最終公演の後、グループに分かれて活動予定だった)。
事件後、現場では地域住民が線香を、サーカス団員が木切れで十字架を立てて供養。マスクの死骸は火葬され、団員に引き取られた。

     □

この事件は、動物愛護の観点から、物議を醸した。
安易に道徳的教訓を振りかざす気はないし、そんなものは人間の自己満足でしかないが、とはいえ、人間の都合がこの問題を招いた側面は否定できない。昨今の熊出没にしても、決して人間側の事情と無関係ではないだろう。ライオン射殺事件について言えば、あれは明らかに人為的なものだった。射殺という結論に至ったことを非難する気はないが、かといって、人間の都合に振り回される動物たちにも罪はない。


檻から逃げ出したマスクが何を求めていたのか、そのらいおんハートは人間にはわからない。
ただ、彼が射殺された場所は、「自由ヶ丘」という団地だった。


〈関連記事〉
・「サーカスのライオン逃走4時間半 裏山で発見、射殺 福島・いわき」『朝日新聞』夕刊、1992年9月19日。
・「おりの後扉、開いていた いわきのライオン射殺騒ぎ」『朝日新聞』朝刊、1992年9月20日。
・「ライオン射殺事件 「撃たなくとも」動物の心を想う人」『週刊アエラ』、1992年10月6日。
・「ライオンの死 福島県いわき支局(東西南北)」『朝日新聞』夕刊、1992年10月16日。


【追記】11月1日
・「未明の仙台 住宅地にまた子グマ 4時間半後捕獲」河北新報ニュース、2006年11月01日水曜日。
 仙台市青葉区米ケ袋1丁目で31日午後10時半ごろ、住宅の庭の木に小さなクマがいるのを通行人が発見し、仙台中央署に通報。警察や消防、市職員ら約30人が駆け付け、約4時間半に及び捕獲作業が行われた。
 仙台中央署などによると、子どものツキノワグマとみられ、体長は約40―50センチ。約8メートルの桜の木に登っていたため捕獲は難航し、木の周りに捕獲用のネットを張ったり消防車両のはしごを使ったりして1日午前3時すぎに捕獲した。

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居合漬け

  日曜日は、仙台錬武会の一日稽古会に参加する(その模様はこちらからどうぞ。写真に自分も紛れ込んでいる。総会を除けば、一月に発足した本会の初イベントといえる)。
 朝寝坊して朝食を摂る間もなく会場へスっ飛び、開会ギリギリに到着した(顔色が白いと言われる)以外は、無事に怪我もなく、充実した居合漬けの一日を過ごすことができた。午前中は、全剣連居合を、そして午後は居合道史についての師匠のレクチャーに始まり(講習会の時もそうだったけど、マメにレジュメを作成する師匠に感服)、古流をみっちり稽古、そして締めに会員による演武。おかげで今日はすごい疲労感。

 一日のうちに、かなり多くのことを学んだので、完全にキャパ・オーバー。
 もっとも一つ一つの業は一朝一夕で身につくものではないし、何度もおさらいして身体に滲み込ませていく身体知なのだから、気楽に行こう(という心構えがいけないか)。とりあえず、久々に各業の注意点を稽古日誌に記録しておくか(あれ、何を指摘されたっけ)。

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木ログ

〈猫動画編 by Youtube〉

「うまい、うまい」と言う可愛い仔猫


眠たい仔猫


言葉にできない 動物編(犬好きの方も)

言葉にできない


あまりに表情豊かな動物たちに「感動した」!

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日ログ

今日のログ(リンク)というかたちで、関心をもったWebサイトなどをパソコン(フリーの日記ソフトなど)に記録しているが、このブログでもやってしまおう(忙しいので)。


・インターネット対談「まったり世代の自己探し~中島岳志 vs 藤井誠二 vs 渡辺真理~」

自分もまた「まったり世代」の一人。自分たちの世代が直面してきた時代の問題と、その影響を受ける世代がもつ心性について整理してくれており、聞いていて面白かった。


Benesse(ベネッセ)教育情報サイト

教育情報満載、情報誌『Read』の閲覧なども可能。

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教育「再生」の意味

 首相直属の諮問機関「教育再生会議」の設置が決まり、18日に初会合が開かれることとなったようである(1)。メンバーをみるかぎり、教育学者という肩書きの人は入っていない(2)。まあ、多数の教育学者が教育基本法改正反対を訴えている現状だし(3)、具合が悪いのだろう。

 夕方の某テレビ番組で民間委員の一人であるワタミ社長・渡辺氏が「『再生』ということは一度死んでいるのだ」として、戦後教育の「死」の原因追及にあたるという旨の発言をしていた。

 なるほど、「再生」とは、戦後教育の「死」を含意していたのか。
では、何をもって「死」と結論づけるのか知りたいところである(こういう単純な議論を聞くと、「それはお前の頭の中で死んでいるのだ」と、とっさにツッコんでしまう。戦後教育(学)の蓄積してきたものに真摯に学べるものはいくらでもあるとする立場からすれば、過度に単純化された意見である)。

 現在の教育が抱える問題点を徹底的に議論し、その原因を追及することは結構なことである。 
だが、それが価値観先行的なものとなって、「戦後教育」の「死」が「否定」と同義となり、何度もステレオ化された陳腐な叫びを、「再生」という言葉であたかも新鮮な感じで演出するだけに終わるのは避けてほしい―そう願う次第である。
 

〈注〉
(1)「教育再生会議が18日初会合…意見集約、難航か」YOMIURI ONLINE、2006年10月15日。http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20061015ur01.htm
(2)「教育再生会議の委員決まる 教育改革を検討」asahi.com、2006年10月10日。http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/gyousei/news/20061010k0000e010055000c.html
(3)「教育基本法改正案に反対の意見書 日本教育学会歴代会長」asahi.com、2006年10月10日。http://www.asahi.com/politics/update/1010/009.html
「教育研究者600人近く賛同」しんぶん赤旗、2006年10月11日。http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-10-11/2006101114_02_0.html

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一学期のボランティアを終えて

 今年は「学校ボランティア」に参加している。仙台市は二学期制をとっているので先週が一学期の終業だった。
 自分が訪問している先は二つ。一つは史料閲覧で大変お世話になった小学校、もう一つは、大学院での「同級生」(といってもおじさん、というのが二人の間でのネタ)が勤務している小学校である。
 参加の背景には、お世話になった学校とさらに「お近づき」になることでより貴重な情報を絞り出そうという計算もあったりする。だが、それよりもただ素朴に現場に入ってみようかと思ったことが参加のきっかけである(自分は、あまり明確なスタンスをもって何かをはじめるというタイプではない)。カッコつけるなら、定期的に現場に足を運ぶことで何が見えてくるのか、学校の現実に接することで自分の早合点や先入観がどう修正されることになるのかを実験してみることに興味があった、ということになろうか。例えば、子どもたちの「学力低下」が恒例として叫ばれるご時世だが、そのような視点は現場が抱える問題を捉える上であまりに「表皮的」であろうという問題認識はあった。

 今の「普段の」授業風景は自分の頃と変わらない、むしろ、現在のほうが恵まれていると感じる。TT制にさらにボランティア学生が加わる三人体制で授業が展開するほどである。

 自分がみた「普段の」授業(小学三年生)でおもに展開されているのは「〈所与のものとしての〉知識の個人的蓄積(≒貯蔵)」の一斉作業とでもいえるものである(表現が下手ですみません)。それはプリント学習の形態であっても、一斉授業であっても、(子どもが個々別々に知識を頭に入れていく点では)同じである。
 算数の授業を例にとると、まず、先生が〈教えたい知識〉について教材を用いながら問いを発し子どもが答えるという展開がなされる。その後、先生から問題が指示され、子どもたちはそれを個別に解いていく(ここでボランティアが関わっていく)、という流れで授業は進む。
 当然、そこには個人差が出てくる。どんどん次の問題に進む子もいれば、一つ目の問題に手こずる子も出てくる。さっきまで先生が教えていたのに、直後のテストになるとそれが見事に反映されていない現象を目の当たりにできる(いったい何が、何ゆえに学ばれなかったのか、改めて確認してみたい問題である。この前は「直角三角形」という概念が学ばれていなかった)。
 だが、子ども一人一人の認識・思考―誤答がどのような思考によるものか―について即座に判断し、的確に子どもにアドバイスすることはボランティア学生には至難の業であった。しかも、そのアドバイスも個別になされるしかない(担任の先生との事前打ち合わせも、結局は「今日はこれやります」という簡単な連絡が直前に行われるだけとなってしまう。授業外でも現場の先生方は子どもの面倒で忙しい)。
 これは、(自分のころにはなかった)パソコンを使った「総合」の授業でも基本的に変わらない。何を調べ、何を学ぶかということが、結局は個人レベルでの知識の蓄積、あるいは決められた作業の実行という次元にとどまっている。パソコンに向かうとき子どもは基本的に一人になるから、子どもの学習はますます個別的な次元に陥りやすい(何人かの子どもたちは作業を終えて、キーボードの練習をしていたり、お絵描きソフトで遊んだり)。

 そのため、各児童の個別の進み具合を漏れなく確認する作業に教師とボランティア学生は翻弄される(パソコンに不具合などが発生すると厄介である。子どもの作業成果がパーになることがある)。やがて、「落ちこぼし」が出てくるようになる――。

 半年間「普段の」授業に接する経験を振り返り、「学び(の共同体)」論などが流行る理由がわかるというのは早合点だろうか。ただ、「学力低下」だといって「表皮的」な部分で学校を批判しても、それが「〈所与のものとしての〉知識の個人的蓄積」という授業形態、あるいは教育内容・教材に踏み込んだところで議論されない限りは意味をなさない、とは自信を持っていえそうである。

―こんなこと、活動報告書には書けんなぁ。

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教基法「改正」継続審議を前に(リンク)

  とりあえず、リンクだけ。「教育の秋」、要チェックです。

・日本教育学会歴代会長
「教育基本法改正継続審議に向けての見解と要望」に対する
教育学研究者賛同署名のお願い
※賛同署名の第一次集約日は10月9日。

教育基本法改正継続審議に向けての見解と要望

教育基本法「改正」情報センター

教育基本法改正問題関連文献一覧(PDF)

教育基本法資料室-文部科学省

教育基本法Q&A

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杞憂ないし誤解であればいいが

はじめに:(※)の部分は無視してください。

 今週の日曜日、××方法学会に参加してきた。しばらくこの学会には出ていなかった。
(※他の学会と大会開催日が重なっていたということもあるが、最も大きな理由は、抽象的でよく内容を理解できない研究発表が多く、魅力を感じないからである。)

 今回は開催地が近く、自分の研究関心にヒットする教育史的研究発表が何本かあったので行ってみた。(※しかし、それ以外に、大きな収穫はなかった。使用する意味がわからないジャーゴン(隠語、学者語)や、何とでも理解できる形容詞が羅列された発表は正直聴く気にはなれない。前者はおもに大学の研究者、後者はおもに現場の教員が陥るケースである。合併症となっているケースもある。)
 とくに、午後の〈教育実践の理論化〉をテーマとした課題研究は少し期待していた。
 しかし(※期待は裏切られた。)残念ながら、その抽象的で崇高な内容を理解することが自分にはできなかった。自分の研究不足ということはもちろんだが、もう少し聞き手が理解しやすいような、配慮がほしかった。
 実践の理論化を考えるうえで最も根本的な課題は、実践を鮮やかに切り取る研究の視点であり、またその視点を一般化し、共有できることば(概念)をどう創り出すかということであるはずだ。教育の理論(概念装置)がことばによって「動く」(=研究者・教師が理論を具体的場面で使用する、それによって実践が見えてくる)以上、その検討は避けられないはずである。だから、実際に発表者が実践の事実(あるいは実践記録)から何を切り取り、それをいかにことばを通して意味づける作業をしているのか、「具体的に」説明してほしかった。
 だが、その点への言及は一切といってよいほどなかった(※ 「つなぎ(ボンド)」って具体的に何ですか、「のりしろ」って何ですか。そんな比喩を使うことにどのような理論的意味があるのですか、「質的研究」って具体的にどんなことをするのですか、等々疑問は絶えなかった)。
 内容が抽象的でわからない、もっと具体的に説明してほしい、というS.Yさんの素朴な指摘に激しく同意した。すでに一線を退いた研究者からこのような指摘を受ける事態には危機感を覚える。

 自分は以前、見田宗介さんの本を取り上げながら、教育の実践家が固有の状況のなかで生み落としたことば(実践記録)も、その固有の文脈を離れることで、単なる美辞麗句へと転換してしまう(「生き生きとした活動の展開」とか「子どもたちの輝いた眼」とか「確かな学力」など)ことに言及し、教育実践を研究する困難さについて書いたことがある。
 この困難を前に、書き手(研究者・教育者)は何を考えなければならないのか。
 それをめぐって、過去にどのような論争があり、どのような研究が蓄積されてきたかについては、多くの情報を得ることができた。それは収穫だった。それにまず学んでみるとしよう。

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