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杞憂ないし誤解であればいいが

はじめに:(※)の部分は無視してください。

 今週の日曜日、××方法学会に参加してきた。しばらくこの学会には出ていなかった。
(※他の学会と大会開催日が重なっていたということもあるが、最も大きな理由は、抽象的でよく内容を理解できない研究発表が多く、魅力を感じないからである。)

 今回は開催地が近く、自分の研究関心にヒットする教育史的研究発表が何本かあったので行ってみた。(※しかし、それ以外に、大きな収穫はなかった。使用する意味がわからないジャーゴン(隠語、学者語)や、何とでも理解できる形容詞が羅列された発表は正直聴く気にはなれない。前者はおもに大学の研究者、後者はおもに現場の教員が陥るケースである。合併症となっているケースもある。)
 とくに、午後の〈教育実践の理論化〉をテーマとした課題研究は少し期待していた。
 しかし(※期待は裏切られた。)残念ながら、その抽象的で崇高な内容を理解することが自分にはできなかった。自分の研究不足ということはもちろんだが、もう少し聞き手が理解しやすいような、配慮がほしかった。
 実践の理論化を考えるうえで最も根本的な課題は、実践を鮮やかに切り取る研究の視点であり、またその視点を一般化し、共有できることば(概念)をどう創り出すかということであるはずだ。教育の理論(概念装置)がことばによって「動く」(=研究者・教師が理論を具体的場面で使用する、それによって実践が見えてくる)以上、その検討は避けられないはずである。だから、実際に発表者が実践の事実(あるいは実践記録)から何を切り取り、それをいかにことばを通して意味づける作業をしているのか、「具体的に」説明してほしかった。
 だが、その点への言及は一切といってよいほどなかった(※ 「つなぎ(ボンド)」って具体的に何ですか、「のりしろ」って何ですか。そんな比喩を使うことにどのような理論的意味があるのですか、「質的研究」って具体的にどんなことをするのですか、等々疑問は絶えなかった)。
 内容が抽象的でわからない、もっと具体的に説明してほしい、というS.Yさんの素朴な指摘に激しく同意した。すでに一線を退いた研究者からこのような指摘を受ける事態には危機感を覚える。

 自分は以前、見田宗介さんの本を取り上げながら、教育の実践家が固有の状況のなかで生み落としたことば(実践記録)も、その固有の文脈を離れることで、単なる美辞麗句へと転換してしまう(「生き生きとした活動の展開」とか「子どもたちの輝いた眼」とか「確かな学力」など)ことに言及し、教育実践を研究する困難さについて書いたことがある。
 この困難を前に、書き手(研究者・教育者)は何を考えなければならないのか。
 それをめぐって、過去にどのような論争があり、どのような研究が蓄積されてきたかについては、多くの情報を得ることができた。それは収穫だった。それにまず学んでみるとしよう。

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