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一学期のボランティアを終えて

 今年は「学校ボランティア」に参加している。仙台市は二学期制をとっているので先週が一学期の終業だった。
 自分が訪問している先は二つ。一つは史料閲覧で大変お世話になった小学校、もう一つは、大学院での「同級生」(といってもおじさん、というのが二人の間でのネタ)が勤務している小学校である。
 参加の背景には、お世話になった学校とさらに「お近づき」になることでより貴重な情報を絞り出そうという計算もあったりする。だが、それよりもただ素朴に現場に入ってみようかと思ったことが参加のきっかけである(自分は、あまり明確なスタンスをもって何かをはじめるというタイプではない)。カッコつけるなら、定期的に現場に足を運ぶことで何が見えてくるのか、学校の現実に接することで自分の早合点や先入観がどう修正されることになるのかを実験してみることに興味があった、ということになろうか。例えば、子どもたちの「学力低下」が恒例として叫ばれるご時世だが、そのような視点は現場が抱える問題を捉える上であまりに「表皮的」であろうという問題認識はあった。

 今の「普段の」授業風景は自分の頃と変わらない、むしろ、現在のほうが恵まれていると感じる。TT制にさらにボランティア学生が加わる三人体制で授業が展開するほどである。

 自分がみた「普段の」授業(小学三年生)でおもに展開されているのは「〈所与のものとしての〉知識の個人的蓄積(≒貯蔵)」の一斉作業とでもいえるものである(表現が下手ですみません)。それはプリント学習の形態であっても、一斉授業であっても、(子どもが個々別々に知識を頭に入れていく点では)同じである。
 算数の授業を例にとると、まず、先生が〈教えたい知識〉について教材を用いながら問いを発し子どもが答えるという展開がなされる。その後、先生から問題が指示され、子どもたちはそれを個別に解いていく(ここでボランティアが関わっていく)、という流れで授業は進む。
 当然、そこには個人差が出てくる。どんどん次の問題に進む子もいれば、一つ目の問題に手こずる子も出てくる。さっきまで先生が教えていたのに、直後のテストになるとそれが見事に反映されていない現象を目の当たりにできる(いったい何が、何ゆえに学ばれなかったのか、改めて確認してみたい問題である。この前は「直角三角形」という概念が学ばれていなかった)。
 だが、子ども一人一人の認識・思考―誤答がどのような思考によるものか―について即座に判断し、的確に子どもにアドバイスすることはボランティア学生には至難の業であった。しかも、そのアドバイスも個別になされるしかない(担任の先生との事前打ち合わせも、結局は「今日はこれやります」という簡単な連絡が直前に行われるだけとなってしまう。授業外でも現場の先生方は子どもの面倒で忙しい)。
 これは、(自分のころにはなかった)パソコンを使った「総合」の授業でも基本的に変わらない。何を調べ、何を学ぶかということが、結局は個人レベルでの知識の蓄積、あるいは決められた作業の実行という次元にとどまっている。パソコンに向かうとき子どもは基本的に一人になるから、子どもの学習はますます個別的な次元に陥りやすい(何人かの子どもたちは作業を終えて、キーボードの練習をしていたり、お絵描きソフトで遊んだり)。

 そのため、各児童の個別の進み具合を漏れなく確認する作業に教師とボランティア学生は翻弄される(パソコンに不具合などが発生すると厄介である。子どもの作業成果がパーになることがある)。やがて、「落ちこぼし」が出てくるようになる――。

 半年間「普段の」授業に接する経験を振り返り、「学び(の共同体)」論などが流行る理由がわかるというのは早合点だろうか。ただ、「学力低下」だといって「表皮的」な部分で学校を批判しても、それが「〈所与のものとしての〉知識の個人的蓄積」という授業形態、あるいは教育内容・教材に踏み込んだところで議論されない限りは意味をなさない、とは自信を持っていえそうである。

―こんなこと、活動報告書には書けんなぁ。

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