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やっぱり、でしたか

 『価値の社会学』、『恥の文化再考』などで知られる社会学者・作田啓一さんが、次のようなコラムを自身のブログで発表している(1922年生まれの作田さんが、現在も積極的に言論活動を展開されているその「超人」ぶりには感服する)。


「朝まで生テレ(ママ)における『いじめ』もどき」『激高老人のぶろぐ』、2006年11月26日。


 自分もあの番組をみていて、作田さんとまったく同じ感想を持った(「途中でスイッチを切った」という〈行為〉まで一緒だ。もっとも自分はほかにやらなければならない作業があったのだけど。むしろ、少しでもみてしまった時間をもったいなく感じた。番組サイドにやられたな、そこは)。「これこそがいじめだよ、皮肉だね」と。「いじめ」を議論する大人の側が「いじめ」の手本(複数の多数者がある一人も・少数者を標的として特定し、その特定人物に根拠薄弱な言いがかり・当てつけ・レッテル貼りの集中攻撃を行う)を自ら示してしまうようでは、どうしようもない。あんなのは(建設的な)議論と呼べる代物ではない。

 同番組で、教師=聖職という意見が何人かのパネリストから出されていたが、そのような教育言説は戦前からの教師像をひきずっているにすぎない。歴史を顧みたとき、教師=聖職論は、戦前、教師の国家権力への隷従を強いる一手段として利用されてきた経緯がある(例えば、大正期以降、社会主義運動、労働運動の昂揚といった体制的危機の進行過程で重視されていった「教育者精神」の強調)。だから、そのような教育に介入する国家のあり方をめぐって、保守派と日教組との激しい対立がイデオロギー問題に特化するかたちで展開されてきたのではなかったか。
 昨今の(あいかわらずの?)日教組批判=教育再生という言説は、結局のところ、教育問題ではなく歴史観・イデオロギーの問題であり、その言説は何ら教育の現実に対する説得力を持ち得てはいない。論点をすりかえずに具体的に議論する筋道をつくってもらいたい。

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日ログ

《教育会リンク》
今日は一部を除いて、たいていの人々は関心をもなたいであろう、リンク集。現存する地方教育会のウェブサイトを探してみた。関連サイトは、以下の通りである。


・社団法人 信濃教育会
http://www.shinkyo.or.jp/

〈郡市教育会〉
・佐久教育会
http://w2.avis.ne.jp/~saku-kyo/
・諏訪教育会
http://www.suwa-ngn.ed.jp/www/suwa-edu/
・安曇野市教育会
http://homepage3.nifty.com/nanan-kyo/index.htm
・上高井教育会
http://www.kamitakaikyo.sakura.ne.jp/
・上伊那教育会
http://www.kamiina.jp/
・小県上田教育会
http://www.school.umic.jp/josho/
・上水内教育会
http://www.kminochi-edu.or.jp/HP/
・松本市教育会
http://www.mcci.or.jp/www/mkyoiku/
ここまで「教育会」が張り巡らされている地域は他にはないと思う。


・東京都教育会
http://www.geocities.jp/rengoukyouikukai/tokyo/


・社団法人 茨城県教育会
http://www.kyouikukai08.com/


・栃木県連合教育会
http://www.tochigikenrengokyoikukai.com/trk/


・社団法人 富山県教育会
http://homepage3.nifty.com/toyamaken-kyouikukai/top.html


・財団法人 愛知県教育振興会
http://www.kpweb.jp/sinkoukai/


・社団法人 広島県教育会
http://www.k5.dion.ne.jp/~hjeo34/


・社団法人 徳島県教育会
http://www.tk2.nmt.ne.jp/~kyouikukai/


・財団法人 愛媛県教育会
http://www.ehime-kyouikukai.jp/


・財団法人 山口県教育会
http://www3.ocn.ne.jp/~ykyoikuk/


・財団法人 北村山教育会
http://www1.kavec.murayama.yamagata.jp/kyouikukai/kyouikukai.htm
※山形県村山市。北村山視聴覚教育センターのサイトから。


・日本連合教育会
http://www.geocities.jp/rengoukyouikukai/main.html
※支部教育会、各地校長会へのリンクが貼られている。


・日本教育会
http://www1.biz.biglobe.ne.jp/~kyouikuk/index.html


・長崎県教育会立 長崎高等予備校
http://www12.ocn.ne.jp/~nagayobi/


こんなところだろうか。もし他に見つけられたら、その都度追加していこう(四国で最も勢力があるという香川県教育会については、サイトは見つからなかった)。
検索の途上、ひっかかってきた関連Webサイトとして以下のものも挙げておく。


・全国連合小学校長会
http://www.zenrensho.jp/index.htm


・各都道府県校長会
http://www.zenrensho.jp/7.htm


・全国教育研究所・センター等のホームページ
http://www.nier.go.jp/saito/kuro/link.html

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木ログ

〈最近のニュースから〉
「いじめ:加害者からの相談も急増」『毎日インタラクティブ』、2006年11月21日。

「いじめ:傍観した子も心に傷『何もしてあげられなかった』」同上、2006年11月18日。


「『いじめ学』内藤朝雄氏に聞く、問題の深層と対策(1)」『原宿新聞』、2006年11月13日。
「『いじめ学』内藤朝雄氏に聞く、問題の深層と対策(2)」同上、2006年11月14日。
『いじめの社会理論』(柏書房、2001年)などで知られる内藤朝雄氏(明治大学助教授)からの提言。


「灰谷健次郎さんが死去 社会派の児童文学作家(共同通信)」NEWS@nifty』、2006年11月23日。
心からご冥福をお祈りいたします。



「性行動調査:携帯メール多用する若者ほど性体験早い」『毎日インタラクティブ』、2006年11月21日。


「男女平等度:日本はG7で最下位 スイスの民間機関公表」同上、2006年11月21日。

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いじめ・自殺問題に関するメモ

■1985年9月――福島県いわき市での中学生いじめ自殺事件
おそらく、「いじめ自殺」の例としては早期の例である(*)。
この当時の教育を取り巻く政策動向といえば、中曽根内閣-臨時教育審議会(1984年)があった。
法務省なども、いじめ問題について積極的に取り組むよう各法務局、地方法務局長に通達を出している(1985年3月)。 
事件は、このように教育改善への取り組みがなされはじめたときに起きた。


■2006年10月――福岡県筑前町での中学生いじめ自殺事件
教育を取り巻く現在の状況はといえば、安倍内閣-教育再生会議という体制が組織されている。
事件が起こったのは、会議発足直後のことだ。そして、現在教育について特集したテレビ番組が各局で放送されるなど、教育論議が高まっている。

 まるで、政府の教育政策を通して教育への世間の注目が高まることにより(あるいは高めるために)、それら事件があぶり出されてきたかのようである。さらに掘り下げていけば、何かしら共通の問題構造が見えてくるのではないか。
 現実として問題なのは、事件はすでに起こってしまっているということであり、その逆ではないということである。そのような中で、とにかく教育の現状を憂うという世論がいっそう喚起されていくわけだが、大人たちによる感情的・規範的な議論で、問題が解決することはないだろう。歴史がそれを示している。そして、子どもたちもまたそれをよく知っているがためにいっそう懐疑的になり、自殺予告などを通して、せめてもの悲痛な叫びを世間に発信しているのではないか。
 いじめが、同質・同等、形式的平等の原則を過度に重視し、強迫的な忠誠・同調競争を誘導する学校秩序や社会構造に起因するものであり、それゆえに簡単に解決するものではない(「所与の」社会秩序のもとで、自分はいじめられてもしょうがないと不当ないじめを自分で正当化してしまう)ことを子どもたちは肉体的に実感しているはずである。

(*)ただし、このことは、この事件以前に少年のいじめ自殺という現象がなかったことを意味するのではない。「いじめ」という概念自体が1980年代頃に登場した新しいものであるため、その概念を適用するかたちで自殺が捉えられた早期の例ということである。少年の自殺は、それ以前から問題視されていた。警察庁が発表した『少年の自殺白書』(昭和52年度)によれば、当該年度の自殺少年784件、高校生242人、中学生103人などが指摘されている。その原因が何なのかはまだ確認していないが、「いじめ」によるものも含まれていると推測される。

        ■   ■

 「いじめを根絶する」。立派な信念である。当然、異論はない。ただ、この問題はそう簡単に解決できるものではない。福岡のいじめ自殺事件における担任教師の「加担」がそれをよく示している。担任教師にはおそらく、自身の言動が「いじめへの加担」につながっているといった認識などなかったのだろう。
 
 「いじめの根絶」の問題を考えていくうえで、私が出発点とする認識は「いじめをなくすことはできない」という逆説的なものである。そう認識しておくからこそ、「何がいじめ(の要因)になってしまうのか」と自らの言動が加害に転じる危険性について不断にチェックし、「いじめが起きた(起こした)ときにどうするか」という、問題に備える習慣を(自分のなかで)整えることができる。「自分がいじめをするなど絶対にありえない」「いじめとは無縁の立派な大人」などと思っていると、そのチェック機能は働かなくなる。
 いじめに関するマスコミの報道に接してそのたびに違和感を感じるのは、おそらく「教師・学校への非難」だけに特化して、自らを「いじめとは無縁の正義の世界」に置いている彼らの傲慢な姿勢に起因すると考える(だから、自分自身も、この種の問題についてはあまり大きな声で「正論」を発したくないというのが、正直なところである)。


 いじめが起きないための対策を講じることは必要だろう。
 だが、それは教師が生徒に「いじめはいけない」という空虚な言辞を送るといった、個人の心理的側面に訴える徳目主義的なものでも、大人がたえず子どもの一挙手一投足に眼を光らせ、秩序に服従させる管理主義でもないはずだ。教師や保護者の管理体制がしっかりしていれば子どものいじめはなくなるというのは、大人の思いあがりでしかない(当事者であるはずの「子どもが登場しない」、大人主導のいじめ問題解決の議論というのも、滑稽な構図である)。いじめが起きない無菌空間がありうるなどと考えられるだろうか。仮にあるとして、そのような無菌空間のなかで、子どもは人間として成長していくことができるのだろうか。いじめを臭わせる事件が起きたときに、大人の価値観で一方的に取り締まるのではなく、それを子どもたち自身の手に返し、子どもたち自身による解決を支援するような方法はないのだろうか。子どもの心理ではなく、いじめ(暴力・迫害)の社会的意味に注目し、そこから問題を民主的・平和的に解決するための手だてを大人たちは考え、自ら実行してきたのだろうか。

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近視眼な敵探し

 教育基本法改正論議に触れるたびに腹立たしいのは、自ら行ってきた教育改革政策の自己点検も総括もせずに、現行教育が抱える問題を教育基本法自体あるいは日教組のせいにするそのやり口である。今まで教育基本法を見向きもしていなかったくせに、まるで使い古したかのように棄てるときはあっさりと棄てる。
 改正が叶ったのちも、「彼ら」は亡霊に取り憑かれ、問題が打開されない要因をそれら自らが作り上げた「外敵」のせいにしていくのだろうか(喩えるなら、「天下無双」の言葉にとらわれて敵との勝負にこだわり、「無敵」の境地に立てない剣士の状況といえるか)。森喜朗氏は、日教組の「壊滅」を次期参院選の争点にしているようである(「森元首相に聞く 参院選争点は『日教組壊滅できるか』」『Sankei Web』、2006年10月31日)。「壊滅」を唱えるあたりで相当程度スゴイわけだが、仮にこれを認めるとして、では「壊滅」が達成された後はどうするのだろう(それで教育の現状がよくなるとでも思っているのだろうか。間違いなく、その可能性はゼロに等しい。そのような発想は、現場の抱える問題と何ら切り結んでいない。何と単純な「国家による国家のための教育」観の発露であるか)。相変わらずどこかに「敵」を作り上げ、その蜃気楼(はたまた未確認生物か?)のせいにでもするつもりだろうか。
 そのような最近の一部教育論議にふれると、一昔流行ったオカルト番組をみる気分になる。正直言って笑える感すらあるが、所詮ネタにしかならない。

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木ログ

〈教育基本法改正「やらせ質問」問題関連リンク〉


「内閣府「やらせFAX」の全文を読む」『保坂展人のどこどこ日記』、2006年11月3日。

「内閣府『やらせ質問経過メモ』(資料)  」同上、2006年11月7日。

・「市教委経由でも政府寄り質問依頼 教育改革ミーティング」『asahi.com』、2006年11月07日。

「<やらせ質問>タウンミーティングの半数弱で疑い」『Yahooニュース(毎日新聞)』、2006年11月8日。

こんなんで改正されてもなぁ……。せめて歴史に立脚した意見がほしい。高橋哲哉氏のように。

「高橋哲哉氏意見陳述(教基特名古屋地方公聴会)」前掲『保坂展人のどこどこ日記』、2006年11月9日。

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「お釜」は火口湖? カルデラ湖?(承前)

 蔵王の「お釜」は火口湖か、それともカルデラ湖なのか。それともどちらも正しいのか。
その後、自分も少しだけだが、調べてみた。

専門家ではない自分が出した結論は、「どちらも正しいけど、(円形)火口湖という説明が主流」というもの。「火口湖(カルデラ湖)」という両方併記がウェブ上で見られるとおり、この問題は微妙なところがあるが、とりあえず火口湖として頭にとどめておく。また、「お釜」は、火口湖であるとともに、湖面標高が1560㍍であるため、いわゆる高地湖に属するという説明もできることがわかった。

図書館にあった山形県総合学術調査会編『蔵王連峰』(1985年)では、お釜について次のように説明している。
蔵王火山の熊野岳(1840m)と刈田岳(1758m)を結ぶ山稜『馬の骨』の東側が馬蹄形の爆裂火口をなし、この中にできた中央火口丘『五色岳』の西斜面に形成された火口湖が御釜である。」(114ページ)

衛星写真などで確認してもらえればわかるが(今は、Google Earthもあるしね)、蔵王火山は、刈田岳と熊野岳をつらねる「馬の骨」(そういえば、藤沢周平の小説に『秘太刀 馬の骨』というのがあったけど、関係はないのかな?)を外輪山とし、五色岳を中央火口丘とする二重式火山のかたちをしている。つまりは、カルデラの地形である(馬蹄形カルデラ)。
そして、お釜はカルデラの地形の中にできた中央火口丘である五色岳に形成された火口湖ということになる。「カルデラの中にある湖はすべてカルデラ湖」とするのならば、お釜はカルデラ湖とも言えるが、一般的なイメージとしての(カルデラの窪地全面に水が浸っているような)カルデラ湖からは少し外れていると考え、火口湖という答えに行き着いた。受験用語として覚えてきたカルデラだけど、その知識を「使う」となると、本格的に疲れるわ。

 これについて、専門家の意見が聞きたいところだけど、国土地理院なんかに尋ねたら回答してもらえるだろうか。

各地の火山地形画像@国土地理院

カルデラ-Wikipedia-

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「お釜」は火口湖? カルデラ湖?

この連休は、福島の飯坂温泉にて、読書会の学生有志と合宿を行ってきた。テーマは「戦後教育(史)」。各自個別の研究を掘り下げていく一方で、「戦後」をトータルに捉え、昨今の教育の現状にも鋭く問題提起できるような認識枠組みを創りあげていけるかどうか。いじめ自殺や履修単位不足問題に乗じて展開される「戦後教育悪玉論」(教育基本法改正)のリフレイン、その一方で、憲法・教育基本法のすばらしさを根拠とした「戦後教育」の立場から教育に関する政策状況を規範的に批判するという対立状況のなかで(そう捉えるべきかも異論があると思うが)、教育にとって「戦後」という概念が持つ重要な意味を模索しつつ、楽しい休日を夜中まで存分に過ごしてきた。気が付いたら、テレビも明かりもつけたまま、朝まで爆睡していた。


〈本題は、ここから〉 
 飯坂の翌日は、蔵王の「お釜」へ。天気もよく、見事な壮観。
ところで、向かう途中、あれは「火口湖」なのか、「カルデラ湖」なのかという話になった。
結局「お釜」に行っても、決着はつかなかったので、ウェブで調べてみた。

「お釜・五色沼・蔵王温泉」
「湖-Wikipedia-」
以上のサイトでは、火口湖の事例としてお釜が記されている。

ところが、多くの観光情報サイトでは、「火口湖(カルデラ湖)」と両方が併記されていることが、Google検索してわかった(ココとかココとか)。
いったい火口湖なのかカルデラ湖なのか。どちらなのだろう(それともどちらも正しい?)。
結局、わからず。地理に不勉強な自分としては、最初カルデラ湖と考えていたが、火口湖として捉えるほうがいいかのもと考えた。「お釜」をカルデラと捉えるとすると、他の例(阿蘇山とか摩周湖とか)と比べてかなり規模が小さく、(大噴火は起こしているけど)「山頂部の陥没または爆発」として捉えにくいのではないかと考えた。といっても素人発想なので、誰かわかる人は教えてください。

Okama1_1 Okama2_1

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