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学校現場で「直観」を学ぶ

 学校ボランティアを通して、今年はいくつかの授業に自らも参加することができた。
これは、かつて子どもであった「自分」が、今度は大人の立場で、もう一度基礎的な学習・思考のすじみちを追体験する機会を得たことを意味する。
 その大人の「自分」からみて、最も刺激的であった算数の授業例を紹介する。

   ◆    ◆

「小学三年生算数-大きな数のしくみ」

その授業概要は、正方形、長方形を使い、視覚的なイメージを通して、大きな数を理解する、というものである。
 授業には、方眼紙を使う。教師はB5サイズの方眼紙を用意し、子どもたち一人一人に配る。
 この方眼紙を使い、目に見えるかたちで数字を理解する(視覚的処理を通して、抽象的な概念を理解する=直観)のが授業のねらいである。
 方眼紙には、1平方ミリメートルのマス=正方形がいくつも並んでいる。
この一辺が1㎜の正方形([1mm×1mm])を数字の[1]とするとき、

①[10]は[1]が縦に[10]繋がった長方形[1㎜×10㎜(1㎝)]
②[100]は[10]が横に[10]繋がった正方形[10㎜(1㎝)×10㎜]
③[1000]は[100]が縦に[10]繋がった長方形[10㎜×100㎜(10㎝)]
④[10000]は[1000]が横に[10]繋がった正方形[100mm(10㎝)×100㎜]
⑤[100000]は[10000]が縦に[10]繋がった長方形[100㎜×1000㎜(1m)]
⑥[1000000]は[100000]が横に[10]繋がった正方形[1000mm(1m)×1000㎜]
⑦[10000000]は[1000000]が縦に[10]繋がった長方形[1000mm×10000mm(10m)]

といった順に、教師は子どもたちに「次はどうなるか」と問いを発しながら、方眼紙に書かせていく(⑤以降は書けないので、教師が別途用意しておく。⑦は出来たらスゴイけど、あえてそこまでする必要はない。子どもたちは、そこまでくれば自らの頭の中にその映像を作り上げ、イメージ処理できる)。
 このようにして、視覚的なイメージの処理を通して、数の大きさを子どもたちは知ることとなる。
子どもたちは、小さな数から大きな数への視覚的な理解を通して、世界が広がってゆくイメージを感じ取っていた。しかもちゃんと、図形の面積にもなっている点がいい。

 この数の視覚的理解のすばらしさは、二桁以上の数の計算を考える上でも活用できる点にある(むしろ、正確な教育段階としては、二桁の計算でこの視覚的理解を行った後で、上の大きな数の理解に進む)。
 例えば、23+18=311と書いてしまう子どもがいたとする。
 あなたが教師だとして、子どもが納得できるようにするためには、どう教えるか。

 数学教育研究会が編み出した有名かつ有効な方法によるなら、十の位は、「本」(正方形のタイルを縦に10枚並べたまとまり。上の授業例につなげれば長方形)、一の位は「個」(正方形のタイル1枚、上の例につなげれば、1平方ミリメートルのマス目)と教える。
 そうすると、一の位からの「繰り上がり」は、「3個と8個を1本と1個にする」思考の展開ということになる。十の位は、2本たす1本で3本。それに1本と1個をたすのだから、答えは、「41」(4本と1個は、タイル41個)。ボランティア先の学校では、大きな数を学ぶ前に、やはりこれも実践していた。


 算数という教科における思考の展開を単なる数字記号の機械的操作で終わらせないための具体的方法を教えられ、大人の「自分」にとっても勉強になった。このように具体的な対象の認識を通して抽象的概念(数の構造や数式)の理解に至る過程を重視する点に、「直観」(byペスタロッチ-教採対策で終わらせない)の意味があるのだと理解した。

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水ログどうでしょう

・「教育再生会議-開催状況」@首相官邸
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kyouiku/kaisai.html
※教育再生会議の議事要旨、議事録などを確認できるのだが…。
いったいどこへ向かおうとしているのだろう…。
主観の垂れ流しのように見えるこの会議に、たどり着くべきゴールはあるのだろうか…。
一連の行政改革による「審議会減らし」の皺寄せ(専門的議論の解体、寺脇さんの言葉を借りれば、「根っこの議論も先っぽの議論も丸々やってしまう」)がこのようなかたちで露呈しているのだとしたら、それはかなり危うい…。

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「ニセ科学」の力を借りた徳目主義

視点・論点「まん延するニセ科学」
※菊池誠さん(大阪大学教授)の提言。「ニセ科学に限らず、良いのか悪いのかといった二分法的思考で、結論だけを求める風潮が、社会に蔓延しつつあるように思います。そうではなく、私たちは、合理的な思考のプロセス、それを大事にするべきなのです」という旨の指摘には激しく同意。
関連して「しゃべらなかったけど大事なこと」(『kikulog』、2006年12月20日)も。


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 ウェブ上で話題になっているので、自分もリンクした。
 番組で菊池さんは、ニセ科学をしつけや道徳と短絡的に結びつけた教育言説、および授業への批判を展開した。問題の一例として、『水からの伝言』に基づいた授業実践事例への指摘がなされた。ソースはすでにウェブ上にはないようなので、自分はその授業の概要を知ることができないのだが、「言葉使いをきちんとしよう」という徳目への自覚を促す(昔ながらの)徳目主義授業の一例だろうと推測する。


 徳目主義は、徳目(学習目標)として設定された(特定の価値的観点から抽象した)言葉や概念について、
①ある特定の事象・事態を提示し(例、水の結晶の出来具合)、
②それを特定の仕方で解釈し、児童生徒に指し示すことで意味を付与する(例、言葉の善し悪しが水の結晶の出来具合に影響する)
事態を指す。その際、その事態をより詳細に把握する作業や、その事態以外の状況と徳目との関連などについては考慮がなされないという特徴がある。あくまで徳目として設定された言葉や概念を、特定の事態の特定の解釈方法から出発して児童生徒に指し示すという事態が徳目主義である(と自分は捉えている)。このような授業では、子どもの思考は思弁的、観念的になりやすい。それだけでなく、ある事象・事態を恣意的に解釈するため、事実との間に齟齬を来す。道徳に科学的根拠を求めれば、当然、その非科学性が批判される。


 『水からの伝言』授業をめぐって展開されている諸々の批判は、道徳の根拠を自然科学、それも「ニセ科学」に求める思考停止への批判といえるが、さらに(上述の推測を前提にすると)、結論ありきの徳目主義に陥っている点を、問題としてあげることができる。「ニセ科学の力を借りた徳目主義」である。
 徳目主義の授業は、子どもにとって、結論が予測できるためつまらない。だから、授業の効果は薄い。が、ともすると、「ニセ科学」による脚色は、子どもの興味を少なからず惹きつけ、非合理的な思考へと向かわせる危険性が想定される。それだけに、『水からの伝言』授業を「授業目標を達成する効果的な教育技術」などと評価するのには、問題がある。


 学校の先生の中には、道徳を個人の「心」の問題に還元し、徳目主義形式の授業を熱心に展開される「善意あふれる」方が、少なからずおられる(『水からの伝言』授業も、そんな熱心な先生方による問題の現れと自分はみている)。同形式授業の問題点を指摘しても、こちらの意図が通じない方々である。この打開方法について、自分は為す術を見つけられていないのが「悩ましい」ところである。


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〈「ニセ科学」問題関連リンク〉

・ニセ科学入門
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/nisekagaku/nisekagaku_nyumon.html
菊池誠さんによる「ニセ科学」への考察。


・疑似科学・トンデモについて知るためのリンク集
http://homepage3.nifty.com/boumurou/tondemo/link.html


・水からの伝言を信じないでください
http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/fs/

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日ログ

〈教育基本法改正後の展望〉


・「識者に聞く 教基法『改正』がもたらすものは」『東京新聞』
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20061215/mng_____tokuho__000.shtml


・苅谷剛彦「この国の教育にいま、起きていること 第1回 教育バッシングの思わざる効果(2006.12.8更新)」『webちくま』
http://www.chikumashobo.co.jp/new_chikuma/kariya/01_1.html


 2006年12月15日は、日本の教育にとって歴史的な転換点になることは間違いない。
 この改正を「政治家が教育を主導していくという、自己満足にすぎない」(「社説:教育基本法改正 議論は尽くされたのか」『さきがけon The Web』、2006年12月17日)と評価し、今後の教育の方向性に厳しい眼を向ける必要があろう。「教育の混乱は教育基本法の理念の不徹底によるものだ」という口実での恣意的な政策運用に悪用されないために。

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教育変動期をどう生き抜くのか

 寺脇研さんの講演会が研究科主催で開かれ、参加してきた。寺脇さんは、先月文部科学省を退職され(「『ゆとり教育』の旗振り役 寺脇研さん、文科省を辞職へ」『asahi.com-アサヒ・ドット・コム-』、2006年10月18日)、現在はNPO 教育支援協会のチーフコーディネーターを務めている。退官の背景については、寺脇研「さらば文科省」(『Yahoo!みんなの政治 政事記事読みくらべ』、2006年11月20日)などを参照されたい。


 行政改革が引き起こした問題と教育再生会議の危うさ、臨教審、教育改革国民会議の裏話、高校の未履修問題、大学入試をめぐる錯覚、教育委員会制度など、講演の話題は多方面にわたった。
 「教育変動期における大学の役割」という題目と絡めて、自分が関心を持ったのは、寺脇さんが文部省に入省した1975(昭和50)年からの10年間についての話であった。 寺脇さんはこの年(75年)を「高等教育にとっての分水嶺」と位置づけ、文部省における「75―85年の迷走」の時期だと捉える。
 当時文部省では、大学への進学率が右肩上がりに上昇を続けるとの予測を立てていた。ところが、76年にそれがはじめて横ばいとなる。85年には入学率50%に到達するであろうという省内の予測は外れることとなった(大学等進学率の推移については、『データからみる日本の教育 2005』、および『我が国の高等教育の将来像(答申)』中のこちらを参照)。これは単に所得格差などで片づけられる問題ではなく、大学以外(専門学校、専修学校、就職)に積極的に進路を求めようとする中学生や高校生の存在に注意を向ける必要があるという。
 大学側が陥っている妄信、すなわち、「大学」をつくれば(自動的に)学生は入ってくるだろうという思惑がいかにもろい幻想であるかということが、すでにこの時点において認識されつつあった点は興味深い。
 では、2007年問題も間近に控える大学「定員割れ」の時代になった今、大学側はどのような教育・経営をなすべきなのか(定員を削減しても入学者の学力水準を維持すべきなのか、定員はいじらずに教育・経営のあり方を変えていくべきなのか、それとも日本の大学・研究者は滅びの美学を考えはじめる時期なのか)。そこまでの言及はなく、尋ねてみたかったが止した。それはやはり、大学側が自主的に考えていく問題であろう(個人的には、考えるのが憂鬱な問題である。ただ、大学は入学者を選べる権限を持つのだから、定員の弾力化などさまざまな対応ができるはずなのに―「分数ができない」ならなぜ落とさないのか―、あたかも学習指導要領通りに入試する義務があるかのように初等・中等教育の現状を批判するという大学側への指摘は、たしかに妥当的なものだといえる。中教審答申「初等中等教育と高等教育との接続の改善について」をもう一度読む必要がありそうだ)。


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 また今になって思い出したが、「ゆとり教育」の旗振り役としてみられることへの感想を聞いてみたかった。
 今回の講演を聴いた限り、寺脇さんの文部官僚としての教育(政策)論の根本は、「ゆとり」というより「自己責任」である。「自己責任」だからこそ、上からの画一性の押しつけはおかしいということになり、「個性」や「生きる力」や「総合的な学習」といった方向へと向かったといえる。そして、よくよく考えればあたりまえだが、それは臨教審からの新自由主義-「小さな政府」路線と一方で符合しており、大いに議論する余地のある問題である(しかし、この観点からの「ゆとり教育」批判はあまり見かけない。知識量が減っただのどうのという批判に終始しているものが多い)。そう捉えるなら、新自由主義路線に基づく「自己責任」論の、文科省的表現(教育の充実を図るという文脈での表現)が「ゆとり」であったということになる。しかし、それは実感的・非論理的で、国民には理解しにくい表現であったことは否めない。そして、本当にそれでこれからの「格差時代」を生き抜けるのかどうか、自分には不安が残る。

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時間云々ではなく、中身の濃い議論を求める

 西原博史さんや広田 照幸さん、藤田 英典さんが呼びかけ人となって、市民による緊急賛同署名を受付ています(12月13日午前10時まで)。


【アピール】公述人・参考人として教育基本法案の徹底審議を求めます
http://www.fleic.dyndns.org/appeal1206/appeal1206.html


署名受付ページ:
「【アピール】公述人・参考人として教育基本法案の徹底審議を求めます」への市民緊急賛同署名」
http://www.fleic.dyndns.org/cgi-bin/appeal1206.cgi


ものすごい勢いで、賛同者数が増えています。昨日10日(日)お昼段階では2300名程度だったのに、今日11日(月)夜には、9000名を超えています。

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食べ物と同じ―出版の責務―

 東北大学出版会10周年記念講演会―読書と人生、そして文化―に参加してきた。
 ちょうど講師の新田義之先生の著書『澤柳政太郎』(ミネルヴァ書房、2006年)を読んでいた最中であり(いい予習になった。新田先生を講師に選んだのは、やはり水原先生だった)、それと関連して本学のさらなる歴史を聞けると期待し、参加した。また、出版会から出されている本を一冊無料でもらえるという大盤振舞な企画も、この講演会に参加する大きな動機になった(現金な自分。でも、あれは間違いなく好評だった。自分が執筆者に名を連ねているCOE叢書の人気は…、まあ、そこはあまり触れないでおこう)。
 新田先生の、出版界およびそれとの絆を不可欠とする研究者へむけたメッセージは重要であったと思う。自分なりにまとめると、以下のようになる。

 東北大の先達=「学風を創った人々」の共通性、それは、いずれも質の高い著作をもつ一流の専門家でありながら、その専門性を支えて余りある幅広い文化的関心をもっていたこと(医学部教授でありながら、詩人・作家でもあり、『日本吉利支丹史鈔』などの研究をのこした木下杢太郎など)。これは、大学(University)における研究者のあり方を教えている。そして、そのような研究者による質の高い研究を本というかたちでを世に知らしめるのが、出版界とくにUniversity Pressの責務ではないか。
 本は食い物と同じ。読者(お客)が読む(食う)のにたえうるものを出版してほしい。

前掲『澤柳政太郎』によれば、澤柳は、「大学」は総合大学(university)であるべきだという持論を持っており、高等教育においても、その専門性が一面性と同義にならないよう徳性の淘冶を保障するような一般教育をも重視していた。そのような澤柳の意向は、その後招聘された教授たちの多彩な人生に如実に現れているといえ、東北大学の学風を形作ったといえよう。
 もう一人の講師、自称「本の虫」「活字中毒」の大隅典子先生が言及された、ラスコーの洞窟壁画と自閉症者の絵の類似性(ハンフリー『喪失と獲得』で論じられた画期的な見解―元来文化の高度性の証左として捉えられた壁画だが、むしろクロマニョン人は言語能力を獲得していなかったがゆえに、あのように写実的に書いたのだ―)も、本(言語)から離れ、画像に頼りすぎている我々の視覚優位の現状と関連して、印象に残るものであった。
 その後の対談については、進行に不満なところもあったのだけど、それも含めて、いろいろと思考を触発された有意義な時間を過ごせた。バイト学生のみなさんは、ほんとご苦労様でした。

  ■  ■

 ベネディクト・アンダーソンは、『想像の共同体』において、近代国家のナショナリズム形成に、プリント・キャピタリズム(出版資本主義)が関与していたとの指摘を行っている。教育基本法改正案が来週にも可決される可能性があり、「愛国心」を盛り込まれようとしている切実な問題状況下にあってこの講演会が開かれたことは、学問・出版の責務とも絡めて、どこかマッチしたものであったと考えながら、帰路につく。
 途中、自分がかつてバイトしていた老舗茶舗で休憩、出版会の理事長さんと知り合いだという(ホンマかい)若旦那さん(といっても還暦を過ぎている)に近況を報告して、無事帰宅。久々に長い距離を歩いて疲れた。

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木ログ

〈あの名作マンガに学ぶ~〉
孫一家に学ぶ「就職氷河期」問題

フリーザ様に学ぶフリーター問題

セルゲームに学ぶ「再チャレンジ支援税制」

三井寿に学ぶ派遣社員問題

戸愚呂面接官に学ぶ中途採用基準

うまいこと出来ているなー、しかし。

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