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食べ物と同じ―出版の責務―

 東北大学出版会10周年記念講演会―読書と人生、そして文化―に参加してきた。
 ちょうど講師の新田義之先生の著書『澤柳政太郎』(ミネルヴァ書房、2006年)を読んでいた最中であり(いい予習になった。新田先生を講師に選んだのは、やはり水原先生だった)、それと関連して本学のさらなる歴史を聞けると期待し、参加した。また、出版会から出されている本を一冊無料でもらえるという大盤振舞な企画も、この講演会に参加する大きな動機になった(現金な自分。でも、あれは間違いなく好評だった。自分が執筆者に名を連ねているCOE叢書の人気は…、まあ、そこはあまり触れないでおこう)。
 新田先生の、出版界およびそれとの絆を不可欠とする研究者へむけたメッセージは重要であったと思う。自分なりにまとめると、以下のようになる。

 東北大の先達=「学風を創った人々」の共通性、それは、いずれも質の高い著作をもつ一流の専門家でありながら、その専門性を支えて余りある幅広い文化的関心をもっていたこと(医学部教授でありながら、詩人・作家でもあり、『日本吉利支丹史鈔』などの研究をのこした木下杢太郎など)。これは、大学(University)における研究者のあり方を教えている。そして、そのような研究者による質の高い研究を本というかたちでを世に知らしめるのが、出版界とくにUniversity Pressの責務ではないか。
 本は食い物と同じ。読者(お客)が読む(食う)のにたえうるものを出版してほしい。

前掲『澤柳政太郎』によれば、澤柳は、「大学」は総合大学(university)であるべきだという持論を持っており、高等教育においても、その専門性が一面性と同義にならないよう徳性の淘冶を保障するような一般教育をも重視していた。そのような澤柳の意向は、その後招聘された教授たちの多彩な人生に如実に現れているといえ、東北大学の学風を形作ったといえよう。
 もう一人の講師、自称「本の虫」「活字中毒」の大隅典子先生が言及された、ラスコーの洞窟壁画と自閉症者の絵の類似性(ハンフリー『喪失と獲得』で論じられた画期的な見解―元来文化の高度性の証左として捉えられた壁画だが、むしろクロマニョン人は言語能力を獲得していなかったがゆえに、あのように写実的に書いたのだ―)も、本(言語)から離れ、画像に頼りすぎている我々の視覚優位の現状と関連して、印象に残るものであった。
 その後の対談については、進行に不満なところもあったのだけど、それも含めて、いろいろと思考を触発された有意義な時間を過ごせた。バイト学生のみなさんは、ほんとご苦労様でした。

  ■  ■

 ベネディクト・アンダーソンは、『想像の共同体』において、近代国家のナショナリズム形成に、プリント・キャピタリズム(出版資本主義)が関与していたとの指摘を行っている。教育基本法改正案が来週にも可決される可能性があり、「愛国心」を盛り込まれようとしている切実な問題状況下にあってこの講演会が開かれたことは、学問・出版の責務とも絡めて、どこかマッチしたものであったと考えながら、帰路につく。
 途中、自分がかつてバイトしていた老舗茶舗で休憩、出版会の理事長さんと知り合いだという(ホンマかい)若旦那さん(といっても還暦を過ぎている)に近況を報告して、無事帰宅。久々に長い距離を歩いて疲れた。

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