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「ゆとり教育」見直しが、規範意識や「態度」とセットで説かれるわけ

 「ゆとり教育」を批判する人の多くは、学校で何を教え、またどのように学ぶべきかという内容の問題にほとんど関心を持たない(あるとすれば、歴史=国史あたりか)。せいぜい、「量が減った」「今の若い者はそんなことも知らないのか」的な些末な指摘でしかない。
 主に、〈彼ら〉が説くのは「勉強に向かう態度が重要」だという、素朴で態度主義的・規範的な主張である。これは以前のエントリー(注1)でも触れたことだが、「知育が重要」と言いながら、実際のところ、その中身は「知育に向かう態度」の重要性を青少年に説くという論議―かつては「知育偏重」論と結びついていた、ステレオ化された「徳育重視」の叫び―は、これまで幾度となくなされてきた。そして、「態度」の強調は、秩序・厳粛性の維持を重視する管理主義とも親和的になっていく…。


 〈「ゆとり教育」批判-「基礎学力重視」-態度主義-管理主義〉を志向(思考)する人たちにとって、毎日新聞社説(注2)が言うように「学力」の中身を問題にすることは、あまり意味がない。なぜ〈彼ら〉はそのような思考に至らないか。
 私は以前、大学院の先輩(教育史研究者ではない)から次のような助言を頂いたことがある。学校儀式などの教科外活動や修身教育で子どもを徳目に直接染め付ける前に、「教科教育」という場において間接的にその下地を作っておく(いわば媒染としての教科教育)という、「二段構えの計算式」で戦前の道徳教育を読む方法があるのではないか、と(注3)
 その場合の「教科教育」とは、「知識蓄積型」(注4)の人間を作ることを目的としている。「知識蓄積型」の「教科教育」は、例えば「英単語のスペルを勉強していれば、単語を綴る力のほかに、記憶力や注意力といった一般的能力もが形成され、その能力は他のあらゆる場面でも使用可能となる」といった形式陶冶論のもとに、知識(情報)の付加や反復練習を強制する。そこでは、知識は、探究の手段として使われることのない、それ自体「蓄積」すべき単一の刺激体でしかない。だから、その知識を未知の社会変化の場面において「機能」させるといった発想には至らない(この点で、「知識蓄積型」の教育形態は、変化のない静的な社会形態を志向していることになる)。このように「知識の記録が探求の結果であり、さらに進んだ探求の手段であるという位置とは関係なく、知識の記録そのものが知識“である”」(注5)という知識観に基づいて「教科教育」を受けるとき、我々は他人の言説に安易に染めつけられる人間となる。


 この先輩の助言から、なぜ〈彼ら〉は「学力」の中身を問題としないか、その理由をよく理解することができる。自覚しているか否かは別として、〈彼ら〉がいかなる社会形態や人間類型を望んでいるのか。そのことを、「ゆとり教育」見直しにはじまる一連の教育論議はよく物語っている。


(注1)「『ゆとり教育』批判の真意がみえた」、1月12日。
(注2)社説「教育再生会議 目指す『学力』とは何かを示せ」『毎日新聞』、1月20日。
(注3)http://ci.nii.ac.jp/naid/40007031460/ 
(注4)「知識蓄積型」と対極的なのが「知識機能型」の人間類型となる。
(注5)J.デューイ『民主主義と教育』上(松野安男訳)、岩波文庫、295頁。

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水ログ

〈最近の教育トピック〉


教育再生会議 第1次報告@首相官邸
※「社会総がかり」だそうで、「総動員」という言葉が目に付きます。学校を拠点とした国民総動員による社会教化を狙うというわけですね。
 「優秀教員の表彰」は、まさに戦前に行われていた施策ですね。これで教員の出世心を擽り、体制内に取り込んでいくわけですね。
 ところで、「教員免許更新制」は現職研修にとって、いったいどのような意味をもつのでしょうか。「メリハリのある講習」だそうですが、既存のさまざまな現職研修とどう異なるのでしょうか。
「不適格教員排除」は「教員免許更新制」とは直接はつながらないと思うのですが。「不適格教員」の中身も気になります。危険な臭いがします。教員免許更新システムをめぐってむしろ新たな利権の回路が生まれ、余計なコストがかかる結果に陥らないことを願います。
やれやれ。


「給食費滞納、全国で22億円超…6割は『モラル低下』」『YOMIURI ONLINE』、2007年1月24日。
「給食費滞納、全児童生徒の1% 総額22億円」『asahi.com』、2007年1月24日。
学校給食法 (1)(2)
※宮城も滞納率が高いそうです。教育再生会議の報告にもあるように、「モラルの低下」が問題の原因だそうです。沖縄は最悪だそうです。ということで、上の国民「総動員」となるわけですね。やれやれ。
 とりあえず自分としては、「児童及び生徒の心身の健全な発達に資し」、「義務教育諸学校における教育の目的を実現」するために学校給食が「義務教育」の一環としての役割を負っていると捉えれば、子どもを教育する義務をもつ親は(「義務教育」とは、学校でも子どもでもなく、あくまで親に対して向けられる言葉だから)その義務を委託している学校の方針に従い、給食費を払う必要がある、と言うしかないかなぁ。やれやれ。

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アブナイ居合道稽古法

(以下、駄文)
 新年に入って、稽古に行くことができていない。
しかも、それに加えて、この一ヶ月は県の武道館が使用できないときた。
この現実を前に、では(道場で行う形態の稽古の)ほかにどのようなかたちでの稽古法がありうるのか。それを、最近考えるようになった。
 素振り、呼吸法の鍛錬、書物で勉強、などが、ある程度場所を選ばずにできる稽古法だといえる。
 しかし、“居合とは本来、時間と場所に関係なく、自分に殺意を示し、斬りかかってきた敵への的確な対処の仕方だ”と捉えるなら、日常生活の各場面場面がすでに稽古の場になりうることになる。そして、ここから、あるアブナイ稽古法が浮かび上がってくる――。そう、以下のような「妄想劇場」が。


〈ケース1〉
街を歩いている途中、もしかしたら今自分に向かってくる人が斬りかかってくるかもしれない。
⇒袈裟切り、諸手突き、顔面当て(以上、全剣連居合)、摺袖返、受流(以上、古流奥伝)など


〈ケース2〉
街を歩いている途中、もしかしたら今自分の隣を歩いている人(々)が斬りかかってくるかもしれない。
⇒添手突き(全剣連居合)、連立(古流奥伝)など


〈ケース3〉
公衆便所で用を済ませて出ようとしたら、入り口に敵が待ち伏せていた。
⇒門入、壁添(以上、古流奥伝)など


さすがにばかばかしいのでここらで止めておく。おそらく、居合道関係者の中は、これとは違ったかたちで、想像力を働かせて日常生活の中に稽古を組み込んでいる方々がおられるはずであろう。
 上に示したような思考であまり入れ込み過ぎると、「目付」ならぬ目つきが相当にヤバくなり、想像の世界にとどまらないで、思わず実際に身体が動いてしまいかねない危険性がでてくる。そうなると変質者と間違われるので(いや十分に変質者じみている)、結局は、素振りや筋トレを少しづつでもやっておこうという結論におさまる。でも、「アブナイ稽古法」でも“多少”勉強になる部分はあることも確かである。例えば、「今自分に向かってくる人」にタイミングよく切り付けられるかというと、自分と相手の歩幅や歩く速さの違いなどから、簡単にはいかないということがよくわかる。自分のそう都合のいいように「仮想敵」は動いてくれないという現実を理解したうえで業の精度を磨くことができると思う。


(さらに駄文)
 そういえば最近は、町中などで人とすれ違うとき、どちらに抜けてよいかわからずにばったりはち合ってしまう(それで「あ、すいません。あれっ」とお互いに行ったり来たりするような)ことが無くなった。ゆっくり歩くようになったということかもしれないし、あまり出歩かなくなったからかもしれない。そもそも、そんな事態になること自体、極めて珍しいということもある。だが、実は、居合の成果-遠山の目付-によるものだと思ったり(願ったり)する。
 それと、これは一度リサーチしてみたいが(いつやるのさ)、居合をやっている人は、お互いに刀がぶつからないよう、すれ違うときは左側を抜けたがるという習性があるのではないか、なんて思ったりする。ちなみに自分にそんな習性はない。右側を抜ける。ということは「行違」(古流奥伝)で斬る気満々ということか(ただ、右利きだからそうなるだけだ)。

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日ログ

〈もっと『犯罪不安社会』を知るために〉


・『芹沢一也blog 社会と権力』
http://ameblo.jp/kazuyaserizawa/


・『女子リベ 安原宏美--編集者のブログ』
http://ameblo.jp/hiromiyasuhara/


 先日(1月8日のエントリーで)紹介した『犯罪不安社会―誰もが「不審者」?―』(浜井浩一・芹沢一也著、光文社新書、2006年)の著者芹沢さんと、編集に携われた安原さんのブログ(芹沢さんからリンクを、また編集に携われた安原さんからトラックバックをいただきました。ありがとうございました)。
 われわれにとって「犯罪」はテレビなどのメディアを通して毎日のように触れる身近なトピックだが、それだけに固定観念や偏見を作り上げてしまいやすい。そんな我々が無意識に形成してきたステレオ・タイプを相対化してくれる『犯罪不安社会』は読んでいて、大いに刺激を受けた。
 さて、自分にとっての問題は、「犯罪不安社会」という概念装置を得て(理解のほどは甚だあやしいが)、これからどうそれを自分の頭で使いこなしていけるかということになる。それをしないと、読んで得た文字・記号としての知識はやがて剥落する―でも、これが難しいわけで―。自分の専攻である教育学研究にも決して無関係の問題ではない―「犯罪不安」は教育政策の根拠としても利用される問題性を孕んでいる―ので、情報をいただき、勉強していこう。

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「ゆとり教育」批判の真意がみえた

 月曜日に行われた仙台市の成人式で、市長殿が何かおっしゃったご様子。
新聞が伝えるところによると、その内容は以下のとおりである。

「「ゆとり教育の犠牲者」 成人式で“梅原節”」『河北新報』、1月9日。

 「皆さんは、ゆとり教育の犠牲者」。8日開かれた仙台市主催の成人式で、梅原克彦市長は自身の教育観を交えた強烈なメッセージで、新成人の門出を激励した。
 会場の市体育館(太白区)には、約5200人が足を運んだ。祝辞に立った梅原市長は「言いたいことはたくさんあるが、市長として一つ二つ伝えたい」と切り出した。
 日ごろ、ゆとり教育を率直に批判している市長。新成人をその「犠牲者」と表現し、「でも、人生は長い。たまにはテレビのスイッチを切って、書に親しんでほしい」と助言した。
 得意の国内外の情勢分析も披露し、「試練の時にある。いちいち例を挙げるまでもないが、社会の有り様は危機的状況だ。解決できない問題もあるが、新成人とともに、市民の幸せのために頑張りたい」と強調した。
 会場では、「梅原節」に聞き入る新成人もいれば、友人とのおしゃべりや携帯メールに夢中な人も。市長は諭すように「21世紀は、若者の努力や志が求められる時代。日本の底力が試されていることを自覚してほしい」と呼び掛けた。

「ゆとり教育」→「学力低下」(?)→「新成人は犠牲者」という思考を、上記文章から読みとることができる。「たまにはテレビのスイッチを切って、書に親しんでほしい」といっている市長自身が、テレビなどを通して流される「教育不信」のステレオ・タイプにまともに影響を受けているという皮肉な事態である。
 改めて言うまでもないことだが、「ゆとり教育」を批判する以上、
①「ゆとり教育」とは、具体的にいかなる事態を指しているのか。また、その「犠牲」とはいかなる事態か。
②「学力低下」の事実はあるのか。
③両者の間に因果関係はあるのか。
といった具合に、一つ一つの問題について慎重な検討を行わなくてはならない。そして、この問題に対し、研究者の間で一致した見解は得られておらず、教育学者となると、以上のような単純な見解はみない(※)

 市長の挨拶から顕著に読みとれるのは、学校で何を教えるか・学ぶかは実はどうでもよく、大人の指示に従う従順な態度が重要だ、というきわめて素朴な態度主義への思惑である。「テレビを消して本を読め」という若者の学習態度の改善を促すメッセージがそれをよく表している(1月9日の会見から読みとれるように、市長が問題にしているのは一部若者の「態度」のほうであるといえよう。でも、それは「ゆとり教育」のせいなのか?)。
 この「知育が重要」と言いながら、その実「知育に向かう態度」の重要性を説くという教育論は、かつては「知育偏重」論―大雑把にいえば、青少年の規範意識の低下は知識教育に偏ってきたからだ、これに代わってこれからは「徳育重視」が必要だ、という趣旨のもの。しかし、「偏重」といわれるほど本当に知育が重視されてきたのかどうかは疑問―と結びついており、歴史的に根が深い問題傾向である。現在は「知育偏重」から「知育軽視」に関心が移ったようだが、根本にある問題意識(「愛国心の涵養」などの徳育重視への思惑)は変わっていないようである。
 また、従順な「態度」は秩序・厳粛性を保つ管理体制―その一例としての儀式、日の丸・君が代問題がよい例―とセットで説かれることが多いが、市長が公式的な行事としての成人式にこだわる(「梅原・仙台市長:成人式の秩序と厳粛性が向上/宮城」『毎日新聞』、1月10日朝刊)のも、そのように理解すると納得がいく。だが、秩序・厳粛性を保つために新成人・若者を「犠牲者」などと評価し、彼らを低く位置づけることで式の権威性や秩序の正当性を引き出そうとするのであれば、いただけない。


(※)
 ①について。「円周率はおよそ3」を例にとると、表面的な文字に踊らされて、どのような思考のプロセスを通して円周率を理解させるか、といった実践の事実には眼を向けない短絡的な批判は避けたほうがよい。実際、子どもたちに教えてみればわかると思うが、「円周率は3.14」と“覚えさせる”ことはできても、「円周率は3.14」と“理解させる”ことは困難を伴うはずである。そして、“覚えさせてはいけない”とはどこの誰も言っていないはずである。
 ②について。よく国際的な学力テストであるPISAやTIMSSでの日本の順位低下が指摘されるが、これをめぐる評価については以前のエントリ(「『ゆとり教育』見直し、そのビジョンは」、2005年4月8日)を参照。点数が上がったか下がったで一喜一憂するような安易な評価は避けたほうがよい。それより、テストの結果を通して、今後どのような展望の下に知識教育を展開していく必要があるのかを考えたほうがよい(何が学ばれていなかったのかの検証、そしてどのような知識をどのような方法で教えていく必要があるのかの構想)。
 なお、管見の限り、問題となっているのは「学力低下」ではなく、「学力の二極化」と言われる事態である。

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『犯罪不安社会』を読む

 浜井浩一・芹沢一也『犯罪不安社会―誰もが「不審者」?―』(光文社新書、2006年)。「おすすめ」(小田中先生風)。大晦日、帰省中の列車のなかで読み始めたら、これが面白く、(乗り物のなかで本を読むのは苦手なのだけど)一気に読んでしまった。
 
 「治安悪化」の「常識」に基づいて厳罰化や監視強化が進む現状に対し、本書は統計・思想の両面からの分析を通して、その神話生成の要因、治安悪化神話と監視強化や厳罰化がつくり出している「現実」を提示している。
 治安悪化は神話であるという見方は、教育学の分野でも「青少年の凶悪化」神話というかたちで、主に教育社会学的観点から指摘がなされてきた。そして、私自身はそのような「青少年の凶悪化」(本書の言葉で言えば、「少年の怪物化」)言説が、くり返される「教育改革」政策の自己総括を回避し、「改革」の根拠とするかたちで機能してきたと理解してきた(今もそれは変わらない)。
 この本では、そのような「青少年の凶悪化」言説も含めて、凶悪犯罪がどのように語られてきたか、その言説変容のプロセスが詳細に論じられている(2章)。簡単に表にすると、以下のような感じか。


○1989年、宮崎勤の連続幼女殺害事件~事件に、時代や社会を読む言説の隆盛
○1997年、酒鬼薔薇事件の衝撃~少年Aをめぐる解釈合戦。議論は教育制度批判へ
○1998年、栃木黒磯事件~怪物化する少年たち
○犯罪被害者遺族への注目
―社会の共感は加害者から被害者へ―
○2000年、少年法の改正~「加害者と教育」パラダイムから、「被害者と厳罰」パラダイムへの移行
○2001年、宅間守の大阪池田小事件~転換点―法制度の批判、異常者という眼差し、セキュリティの強化―
○2004年、小林薫の奈良女児殺害事件(第二の宮崎勤)~「犯罪被害は、何の前触れもなく突然襲ってくるもの」という「不安」


 そのほか、犯罪統計の読み方(1章)という基礎的な考察を含め、実態なき犯罪不安に駆り立てられた地域住民たちの防犯活動が、コミュニティの再生という運動に参加している喜びと結びつくという、「快楽と不安の共存」。しかし、現実に生み出されているのは地域の連帯どころか、子どもに声をかけたら不審者扱いされるという「相互不信社会」であるという皮肉な現実(3章)、さらに、科学的根拠(エビデンス)に基づかない、信仰に基づく犯罪対策がもたらしている現実の一断面として刑務所の実態―「福祉の最後の砦」になりつつある塀の中―という刺激的な分析へと続く(4章)。
 監視や管理の強化という犯罪対策によって、我々は何を得、何を失っているのか。それを考えるうえで勉強させられた。セキュリティも重要だが、それだけでなく、社会保障を含めた広い視野から犯罪問題を捉えていく必要性を痛感した。少なくとも、自分の安全が脅かされない限りでの「自由」の享受―得体の知れない他者を排除し、均一化された生活空間で「自由」に振る舞う=自分もその立場に置かれるかもしれない社会的弱者への無関心、ないしは非寛容―という発想では、事態は閉塞するだけではないか。


〈リンク〉
・少年犯罪データベースhttp://kangaeru.s59.xrea.com/
 少年犯罪データベースドアhttp://blog.livedoor.jp/kangaeru2001/
・キャンベル共同計画http://fuji.u-shizuoka-ken.ac.jp/~campbell/index.html

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木ログ

 後れ馳せながら、新年のお慶びを申し上げます。本年もよろしくお願いいたします。

   ■

 本日のリンクは、朝日新聞の社説「教育の明日 速効を求むべからず」(2006年1月4日)。
教育史的視点からの記述がある。明治期の「教学聖旨」-「教育議」論争、「小学校教員心得」といった動向が最近の教育動向とが似ていると述べている。

 以下、文中からの引用。

 この明治の時代と、教育基本法の改正が進められた近年はよく似ている。日本教育学会会長を務めた寺崎昌男・東大名誉教授はそう指摘し、次のように語る。

 「社会に問題が起これば、教育のせいにされ、最後は教師が責任を押しつけられる。明治に起きたことがまた繰り返されるだろうと、私は教師たちに話してきました」

 教育基本法の改正論議では、教師が厳しく批判された。安倍首相の肝いりの教育再生会議でも、「ダメ教師」がやり玉に挙げられている。

 明治期を引き合いに出した如上の文章は、教育万能主義がもたらすであろう思考の危険性を示唆していると読める。
 教育論・教師論の展開が、「教師に問題がある」「学校・家庭でこんなヒドイ問題が起こっている」といったかたちで不安を煽るだけ煽り、特定の「理想」の枠組みから現状はそれに適っていないとして、「取り締まり」の強化(=強制、禁止、排除)を強調するだけに終始する――それは、あまり生産的ではない。

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