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北方教育の受難と今の教育論議に思うこと

  例によってネタがない。
以下は、思うところがあって、少し(といっても半年以上)前にノートしておいた1920-30年代を中心に展開された北方教育運動に関するメモ。教育会と絡む記述があるのでノートしておいた。

     ◇

 北方教育社では、綴方界の著名人であった峰地光重を招聘している。その経緯と実際の概要が雑誌『北方教育』で報告されている。
 『北方教育』(第1巻)第6号(1930年12月)の編集後記に、峰地光重来秋の話題が記されている。
 これによれば、峰地の招聘にあたっては秋田市教育会、および県学務課からの賛意が得られたことが読みとれる。「幸に、市教育会でも非常に賛成され、市で主催するか、共同主催するかと言ふ熱意まで示されたのであります。勿論県学務課の方々も賛成して下さいましたので……」(哲生筆)。実際には、日程の変更もあり、峰地が日帰りで秋田を訪問、附属の授業参観をするだけの日程となった。


 峰地「秋田紀行」の概要は、以下の通り(峰地光重「秋田紀行」『北方教育』(第2巻)第7号、1931年6月、17-20頁)。
・峰地は駅で北方教育者の成田(忠久)、附属の滑川(道夫)、蓮沼の出迎えを受けた。
・附属〔小学校〕を訪問。滑川の授業を参観。夜は川端の料亭できりたんぽを食している。
・「尚この旅に於て、市教育会や県学務課、北方教育社が私のために講演会の準備までして下さつたのに、私の不意な日程の変更のために、御意に添ふことの出来なかつたことを幾重にも、お詫びせなければならないと思ひます」(20頁)。


 ここで筆者が注目するのは、峰地の講演会準備のために、北方教育社だけでなく、市教育会や県学務課も協力的な意向を示していることである。教育会、県学務課が具体的にどう動いたのかは定かではないが、民間の教育団体と官側が全くの対立関係になっていたわけではないことを示す事例であるといえる。民間団体と教育会の間には、かなりの割合で教師の交錯、教育志向の共通性が見られるのではないかと推測される。
 ではそう捉えたとき、何が両者を引き離し、北方教育弾圧の引き金となっていくのだろう?
 戸田金一『真実の先生―北方教育の鬼 加藤周四郎物語』(教育史料出版会、1994年)に興味深い記述があった。同書によれば、1970年に北方教育創立40周年記念集会が開催され、北方教育同人たちによる座談会が行われている。そこでの話題に関し、戸田氏は次のように述べる。

 ところが、話題が弾圧のことに及んだとき、わたし〔戸田氏-引用者注〕の頭は混乱した。これまで理解していたこととは、まったく違っていたからである。わたしの理解は、平凡社の一九五六年版『教育学事典』のなかに国分一太郎が執筆した「生活綴方運動」の記事を鵜呑みにしている。そこには次のように書いてある。
 「ちなみにそのときの思想取締当局の弾圧の理由は、①この運動は反ファッショ、反官僚をたてまえとする、多くは貧弱な農村地帯の子どもを愛するまじめな教師たちの統一戦線の結集を目的とするものであること、②文学におけるプロレタリア・リアリズムの創作方法から学んで、この方法を綴方指導に適用し、貧しい農民の子弟たちに現実の矛盾を見させることによって階級意識を昂揚し、これを反ファッショ、反官僚、天皇制打破を含む反封建のための統一戦線にみちびきいれて、まず民主主義革命を遂行し、やがて強行的にプロレタリア革命に転化することをねらう労働者階級の同盟軍たるべきめざめた農民を育成しようと企図したものであること、③そして、これによってコミンテルンおよび日本共産党の目的遂行に資する行為をやったと思料されること―というのであった」
 そしてこの文章に続いて、主な弾圧された者の名がならび、国分をはじめ、この座談会に出席していた北方教育の加藤周四郎・佐藤忠三郎・田村修二・鈴木正之らの名を含めている。だから生活綴方運動の一翼をになった北方教育は、わたしにとって、プロレタリア革命運動のなかに位置づけられ、そのうえでの評価となっている。
 ところが、司会の花岡〔泰雲-引用者注〕が顔をまっかにして「おれたちのなかに、プロレタリア革命の教育をした者がいたか?」と、怒鳴るようにいっている。続く同人たちの発言も、異口同音「そんな教育はしなかった」というのだ。これで、わたしの頭はたちまち混乱した。これまでのわたしは、あの戦争中によくぞ革命的教育を展開したもんだと、この教師たちを英雄視し、尊敬してきた。ところが当事者たちは、みずからの栄光の座のレッテルをかなぐり捨てている。これではただの人ではないか。

戦前天皇制教育への数少ない抵抗者であったとみられる北方教育同人たちからの指摘に戸田氏は困惑している。われわれの教育実践は、そのような政治性とは無縁であったと同人たちは述べているのである。花岡が憤怒した背景には、治安維持法違反という無実の罪を着せられた彼ら自身の体験があった。北方教育同人たちが人民戦線の組織と連携した事実はない。すなわち、彼らは〈いずれ国家権力にとって国民総動員の支障になるにちがいない〉という憶測のもとに、〈あらかじめ〉不当に罪人に仕立てあげられ、排除された犠牲者たち(スケープゴート)であったといえる(奇妙なことに東京の綴方教師たちはこの受難の埒外に置かれた)。
 しかし実際の北方教育の運動は、彼らが社会変革の必要性を十分に認識していたとしても、合法的活動を重んじた、あくまで教育実践とその理論化の運動に徹したものであった。それだけに、この問題について、彼らを弁護するような学務当局や教育会からの積極的な働きかけが見られなかったことは、今日の我々から見て痛々しい。
 彼らが主催する講習会はいずれも、官製講習会にも見られぬ成功をおさめいたといわれ、それゆえに学務当局も彼ら北方教師たちの活躍をむしろ評価していたといえるのではないか。職業指導体制の整備にあたって秋田県当局が、運動で活躍した加藤周四郎を秋田県社会事業補に登用したこと(1940年1月秋田職業紹介所少年係主任→7月秋田県属学務部職業課業務係長)はその一つの傍証としてみることができるのではないか。

      ◇

 読み直して思うこと。北方教師たちを取り巻く環境が、かなり恣意的なかたちで協力から弾圧へと一転してしまう状況に思いを馳せてみて、今の現状が想起される。教員免許更新制-不適格教員排除をめぐって、ココあたりがまるで真剣に教員の思想統制的なことをいっているのをみると、北方教師たちの受難も「昔のこと」では済まされないものを感じる。

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