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「教育の『いま』を読み解くために」

 『リーディングス 日本の教育と社会』(第Ⅰ期全10巻、日本図書センター、2006年-)。
 昨年夏、日本教育学会が本学で行われたとき、受付業務の合間に各出版社のブースを回っていた際に日本図書センターの社員の方からチラシを頂いて、刊行の情報を得た。全巻欲しいところだけど(M原先生の本一冊買うよりはお得だろう)、さすがに今は余裕がない。早く図書館に入らないかなぁ。
 社会科学的な観点で教育問題を扱った研究論文を集めたという、このリーディングスの刊行を機に、『週刊読書人』で広田照幸さんと浅野智彦さんの対談が組まれている(「対談=広田照幸・浅野智彦 教育の『いま』を読み解くために」『週刊読書人』、2007年1月26日。浅野さんが広田さんにインタビューする形式での対談)。図書センターから郵送されてきた広告にこの対談記事のコピーも付いていたので、読んでみた。
 対談で広田さんは、『リーディングス』刊行の背景にある教育学研究の現状への問題意識、すなわち現状の研究では納得しない意識について、次のように語っている。

教育研究の専門分化が進む中で一種のタコツボ化が生じていて、心理学的な視点から教育問題を扱っている人と政治学的な視点から扱っている人には共通した言葉がない。教育学内部でも、下位分野が違うと議論がかみ合わない。そういう時に、社会科学的な視点から共通の言葉が持てるようになればいいと思うんですね。
     (中略)
むしろ教育学という狭いアイデンティティを壊したいという思いが私にはあります。一つは教育学内部の細分化を超えたい。教育○○学という形でどんどん細分化してきたのが教育学のこの間の展開で、その狭いアイデンティティを揺るがさないといけないと思うんですね。いろいろなアプローチを社会科学的に取りまとめることで、共通な「広場」を作りたい。
     (中略)
戦後の教育学には、学的自立性を強めながら独自の概念や理論を作ってきた歴史があります。教育諸学が他の社会科学や人文科学と共有するものを持たなくなった大きな問題点の一つがそこにあります。(中略)
 それと現場の先生方に対して何を提供できるかという問題ですが、戦後の教育学は教育実践や教育運動と密接に関わりながら展開してきた側面があります。オーディエンスの主たる集団が先生であって、そのことが日本の教育の方向を大きく左右してきた。現場で何ができるか、何をすべきかといった実践的関心が教育学の方向を形作ってきたわけです。それがある種の隘路になっていて、現場でできることの範囲をものを考えるから、かえって問題全体の構造が見えなくなったり、新しい観点からの分析視角が発展しなかったりしてきた。むしろ現場から一歩引いたところでさまざまな教育問題をまとめ直すことで、これまでになかった視点を現場の先生方に伝えたい。現場の先生には「すぐには役に立たないが、じっくり教育について考えようとすると役に立つ」企画だと思います。

このような問題意識は、教育問題の世間的な論じ方―問題の単純化や過度の一般化―への批判にも関わってくる(「子どものバーチャル・リアリティを問題にする前に、大人たちが抱く青少年像や教育問題像のバーチャル・リアリティを問題にしろと私は言っているのですが」)。
 広田さんはすでに『教育には何ができないか』(春秋社、2003年。ストレートなタイトル!)など一連の著書において、わかりやすい処方箋を書いてすべてを教育に還元しようとする議論のやり口を批判しているが(教育神話の解体)、今後教育問題を論じていくうえで必要な視点は、次のようなものになるだろうと述べる。これは、教授学習科学といった講座に所属する私にとっては、痛い指摘である。

一つはマクロなレベルで、教育問題を取り巻く制度や条件をどうしていくのかといった議論に発展させることが必要です。もう一つ、ミクロなレベルで考えた時に、ある種の理念の実現のような形ではなく、実際の効果をきちんと考えて、できることとできないこと、すべきこととすべきでないことを考えていく必要があります。すべてを教え方の改善・工夫の問題に還元しようとする発想からどう脱却するかを考えないといけない。
    (中略)
日本の教育界は、当面うまくいけばいいという形で教育現場の実践知を組み立てることで、自己閉塞的な発想に陥ってきた部分がある。むしろそれをいったん相対化したところに、長期的に見ると実効性のある解決策が見えてくるような気がします。それをやっていかない限り、夢の中で苦しみ続けるような状況からはなかなか抜けられないのではないかと思います。

自分も教育万能主義的思考を批判してきた手前、すべてを現場での「教え方の改善・工夫の問題に還元しようとする発想」からの脱却をとく広田さんの指摘には共感するところがある(※)
 また、「社会科学者が考えなければいけないのは、波や繰り返しの指摘に留まるのではなく、今この時代を新しい極面としてどう説明できるかということです」という広田さんの指摘にも、説得力を感じる。「そんな問題は昔からあった」「まったく問題の捉え方が進歩していない」というかたちで教育論議の状況を批判するだけでは、話は先に進まないだろうからである。この指摘もまた、教育史研究をする自分にとっては実に痛い。ブログでネタが書きにくくなる。加えて、いくら証拠や実証データをきちんと示しても、「オーディエンスの側のニーズと違えば簡単に無視されてしまう(中略)多くの人は自分が読みたい物語を探していくだけ」という現状がある(これは教育問題にとどまらない)。そんな状況に少しでも「待った」をかけるうえで、「社会的視点から掘り下げる」教育学研究の重要性は今後ますます高まっていくと考えるし、そこにこそ(あちこちの大学から「教育学部」が消えている切実な状況下だからこそ)「教育学」再生の足がかりもあるのかもしれない。ただ、「教育」を相対化するためには「教育(学)」の外側に出ないといけないのだとすると、その道のりは、じつに「しんどい」。

[注]
(※)ただ、だからといって、教科教育学のように教育現場の実践と直接切り結ぶ研究、研究と実践とが相互に鍛えあう緊張関係が不要だとも思わない。現場と関わりをもつ教育内容・方法の研究領域においては、従来以上に「その研究は、学校現場の実践とどこで、どのように関わるのか」という問題意識を持ち続けていくことが、一方で必要になると考えている。
 むしろ、これらの研究領域に対して「社会科学的な視点」を問う場合には、〈「社会科学的アプローチ」などと称して、他の諸科学の用語・概念、研究成果を日曜大工的に貼り付けて彩るだけの研究〉に堕する危険性に注意する必要があるだろう。

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