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「教師は授業の専門家たれ」

 日向康『林竹二・天の仕事』(講談社、1986年)。だいぶ前に古本屋で購入したまま、積ん読状態だった。
  久しぶり頁をめくってみたところ、新聞記事の切り抜きが挟まっているのに気づく。
林竹二「〈論壇〉教師は授業の専門家たれ 実質そなえぬ教員養成教育」『朝日新聞』1975(昭和50)年12月21日付の記事である。
  切り抜きの痛みが激しいので、ここに掲載し、保存しておくことにする。

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■林竹二「〈論壇〉教師は授業の専門家たれ 実質そなえぬ教員養成教育」(『朝日新聞』1975年12月21日)

 教師は、その仕事の本質からいえば、医師以上に高度に、専門的な仕事に対して、責任をもたされている。子どもがもっている可能性にとりくんで、これを引き出すという仕事は、病気をなおすよりも、はるかに複雑で困難な仕事である。
 学校教育の核心は、授業である。したがって、教師は、一人一人が授業の専門家でなければならない。ところが、すこしく立ち入って学校教育の実態にふれて見ると、いわゆるベテラン教師はいても、授業の専門家はいないというのがいつわらざる実情である。だが、これは極めて当然の事態で、だいいち、大学における教員養成教育は、ほとんどその実質をそなえていない(この事にたいしては、教育学者の怠慢が声を大にして責めらるべきだろう)。
 そのうえ、致命的なのは、教師の専門家としての訓練は、現場に出てからでなければ与えられえない性質のものであるのに、学校という現場は、若い教師を授業の専門家として訓練し、育てる「場」では、およそないのである。これは、とりも直さずいま学校では、専門家としての訓練を受けない教師の手で、教育が担われているということを意味している。
 ある小学校の四年で授業をしたとき、こんな感想を書いた子どもがいた。
 「林先生のじゅぎょうの教え方はうまい。それは、大きくわけて、よく考える時間をくれるし、こまかくきりきざむ所まで心をいれ、よくわかりやすくせつ明し、よけいな所のはぶき方もうまいからです。
 この差がプロフェッショナルとふつうの先生がたのちがいです」(原文のまま)
 私は五年ほど前から各地の小学校や中学校で授業を試みている。百九十回ばかりになるが、この経験を通して私の痛感するのは、子どもが実にすばらしい力を持っているということと同時に、今の学校教育ではその力のごく一部分、しかも上っつらの部分しか引き出されていないのではないか、ということである。授業の貧しさがこの結果を生んでいる。これは単に子どもの不幸であるばかりではない。それは民族の将来を閉ざしてしまう結果をもたらしかねない。もし学校教育が未来を開く機能を失うなら、それは民族的自殺にほかならない。
 私はいろいろな機会に、現場にむかって、授業を根本から考えなおす必要を訴えているが、青森県のある町で、研究授業と話し合いをしたとき、主催者に、こういう感想をよせた小学校の校長(W氏)があった。それは、「えぐられる思い」と題されていた。W氏は会のあと、足もとが崩れ去るような異様なさびしさを感じ、だれとも顔を合わせたくないまま、裏道を家に向かうところを、O校長の車に拾われた。O氏は開口一番「おれは四十年間、いったい何をしてきたのだろう。医者だったら、とっくに廃業だ」といった。W氏はその感想をこう結んでいる。
 「落ち着いたあとで、私はくやしかった。現場の人間として、まずわれわれから高らかに言い出し、表現しなければならぬことを、事もあろうに、よそさまから突かれたのである。家に帰りついて、家内にこのことを語り、明日からは、もう俸給は返上だといったら、家内は、なんとか来年からにして下さい、といった。二人で苦笑いした」
 W氏やO氏のような校長がいることは、文字通りありがたいことだ。学校教育は、いま出直しをせまられている。この事態を直視して、根底からのとりくみがはじめられないかぎり、学校教育の起死回生はない。
 出直しの第一歩は、教師が授業の専門家としての力量をそなえる努力でなければならないが、それは教員養成教育と、教育行政(特に県レベルでの)との「回心」によって支持されないかぎり、成功の望みはない。主任の制度化もそれを阻止する戦いも、根本にある問題を解決する力はない。
               (前宮城教育大学学長=投稿)
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 今読んでも、まったく古くささを感じない。それどころか、現在の「教師教育の危機」を先取りするような主張である。
今から30年以上も前に、「臨床的な教育の学」の確立を訴えた林竹二。その主張に改めて耳を傾ける必要があると痛感する。

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「箱物」と名づけよう

 今回の教育再生関連3法案可決によって、導入されることになる教員免許更新制は、無駄無駄無駄…、ただそうとしか言いようがない施策である。箱物行政と変わらない。さすが、拙速な議論に強行採決というかたちで出来たものにふさわしい出来映えだ。


 教育再生会議(「第2回学校再生分科会」平成18年11月30日、再生会議副室長発言)や衆議院「教育再生に関する特別委員会」(平成19年4月18日議事録、文科相発言)において、免許更新制に「不適格教員」排除機能を持たせるかのような説明がなされている。中教審の議論ではその点、「不適格教員の排除を直接の目的とするものではなく」と慎重に避けられていたのにである(「今後の教員養成・免許制度の在り方について(答申)」平成18年7月11日)。
 しかし、少し考えれば、そのように機能するはずがないことは理解されよう。免許の更新は10年ごとになっている。「不適格教員」への対処に10年もの年月をかけるというのは制度としてどうなのよ、と問いたくなる。佐久間亜紀氏が述べるように、そもそも「不適格教員」の処遇問題は、免許制度ではなく任用制度で対処すべき問題である(佐久間亜紀「なぜ、いま教員免許更新制なのか―教育ポピュリズムにさらされる教師たち」『世界』第761号[2007年2月号])。


 すでに、「不適格教員」への研修の義務化など、処遇のための仕組みはあるのに、すべての教員(免許回復者・ペーパーティーチャーを含む)をふるいにかけるという更新制。「教育不信ここに極まる」といったところだが、根本的に教師を信頼しない制度を設けることで、学校がよくなるはずがない。現職教員や教員志望者の不安を煽るだけでしかない。団塊世代の大量退職という状況にもかかわらず、教職は魅力ある職業ではなくなり、有望な人材の獲得すらままならない状況に陥るのではないか(すでにその兆候ははじまっている。苅谷剛彦「この国の教育にいま、起きていること 第6回 免許更新制と教員受難のパラドクス」『webちくま』2007年5月18日を参照)。教員を萎縮させる施策は無駄なものでしかない。


 教員免許更新制を実施しているのは、アメリカ以外に見あたらない。それはアメリカ特有の事情(教員不足、貧弱な研修制度、そのなかでの地位の向上という課題)によるものである。また、アメリカの更新制は個々の教師の職能成長計画に位置づくものであり、免許状の(より上位のものへの)切り換えといったメリットを持っている。
 それと比較して、日本の教員免許更新制が「不適格教員」排除のためのチェックをするにとどまるのだとしたら、あまりに非効率的であり、無駄もいいところだ。


 2002年に免許更新制が見送られた際、その代替策として10年経験者研修が登場し、実施されている。現状の議論のレベルだと、免許更新制も、結局「行政研修」というポジションにおさまらざるをえないだろう。「その時々で必要な資質能力に刷新(リニューアル)する」云々と高らかに謳いながら、結局形式的なものになる可能性が高い。現職教員だけで110万人以上を越える膨大な人数に対処するのだからそうならざるを得ない。
 また、日本は現職研修制度が整いすぎているといっていいほどだが、校内研修は別として、更新講習などは学校現場から離れざるをえない。その教員が抜けた間の穴埋めはどうするのか。結局、教員の多忙化に拍車をかけるだけである(いわゆる夏期休暇期間が講習に充てられると考えられるが、まさか今どき「先生は夏休みがあっていいねぇ」などとツッこむ無知な人はいないだろう)。


 はやい話が、税金と労力の無駄である。そもそも教員免許更新制は、教育内在的な論理から登場したものではない(義務教育費国庫負担金制度を堅持するための代償・生け贄。藤田英典『教育改革のゆくえ―格差社会か共生社会か―』岩波ブックレットNo.668、2006年、43-44頁を参照)。
 「教育不信」(いじめや未履修問題)も強く作用していることは確かだが、制度改革をすれば問題は解決するかのような安易な発想からは、そろそろ脱却しなければならない。

…ほかにもたくさん言いたいことがあるのだが、とりあえずこの程度にしておく。書くたびに、ため息が出るから。

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貧困な精神主義的発想からの脱却

 前回の記事では、知識と道徳の乖離問題について、教育再生会議第二次報告から読みとった。道徳を個々人の「心」に閉じこめ、内面的・心理的な問題に還元する議論の非生産性について論じ、改めて「徳育」教科化(もはや教化化に近い)への疑問を示した。

 このような問題の枠組みは、学校教育の問題におさまらない。自分が勤しんでいる武道についても十分に当てはまることである。
 武道の世界ではその目的が「人間形成」に置かれている。だが、武道の実質たる稽古の要点が「人間形成」ではなく、「わざを学ぶ」点にあることくらい、常識で考えれば、すぐに理解できよう。
 だが、とりわけ武道の世界に縁のない人ほど、「人間形成」の魅力を武道に見出してしまうようである。
 大きな居合道大会の開会式で地元代議士の先生方が挨拶されることがあるが、その内容は次のように定型化されているケースが多い。①まず、最近の国民におけるモラルの低下や(体感)凶悪犯罪の悪化を憂う、②次に、武(士)道の精神(「心」、この場合は情操を意味するだろう)の「素晴らしさ」「美しさ」を賛美する、ときにそこから「国家の品格」や「愛国心」の重要性にまで話題を振る、③最後に、そんな素晴らしい武道の修行に励む「選手の皆さんの健闘を祈る」というエールで締める。これに④ご当地の宣伝が加われば、立派な開会式挨拶定型が出来上がる(だから正直言って、聞く側かるすればつまらない)。
 しかし、何も居合道家は「心」一点張りの、精神論一辺倒で日々稽古しているわけではない。それだけでは「わざ」は上達しない。一つ一つの所作を不断にチェックし、「わざ」の実践を繰り返しながらその「わざ」の意味を身体を通して知り取っていく、というように、認識・思考と切り離したかたちでは、そもそも日々の稽古は成り立ちえないのである。
 居合道に関していえば、その素晴らしさは「心」云々以前に、それが先人たちによって洗練され、考え抜かれた「わざ」の体系(門外不出の奥義)だという点にあると考える。かつて確かに存在した剣豪たちと同じ「わざ」の稽古をし、彼らが「わざ」の精度を高めていくうえで辿ったであろう思考の一端を現代において共有することは、自分にとっては大きな魅力である。その「わざ」自体に発する居合の魅力を、安易に個々人の「心」に結びつけて道徳臭くしてほしくはない(右臭くもしてほしくない)。
 世間的にも評価を得ている「わざ」の世界の深みにはまってしまえば、ほかの悪いことに手を染めたりはしない。武道による「人間形成」など、その程度に語りえれば十分だと思う。道徳はあとからついてくる。

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知識観の矮小化と空疎な「徳育」

 教育再生会議については、すでに方々から的確な批判が蓄積されている。ついには自民党内からも批判が展開されるようになった。衆議院議員有志による「マネジメントの観点からの教育再生研究会」の批判と提言は、至極真っ当なものだ(マネジメントの観点からの教育再生研究会「教育改革の改革を―教育再生会議への七つの疑問」『世界』2007年6月号〔no.766〕。)。

 先日出された第二次報告『社会総がかりで教育再生を~公教育再生に向けた更なる一歩と「教育新時代」のための基盤の再構築~』(2007年6月1日)もまた、それらの批判を克服し得たとは到底いえない代物となっている。(必ず批判を展開するであろう邪魔な)教育学者をあえて避けて組織された「結論ありき」の会議(客観的・具体的な議論など最初から念頭にない)なのだろうから、このような結果は当然といえば当然である。

 自分は「徳育」の教科化には反対の意思(というより、道徳教科の実効性のなさ)をすでに示している(『朝日新聞』「声」欄、2007年4月4日、当ブログ「道徳教科、効果は疑問」、2007年4月5日)。
 率直に言えば、自分自身、「徳育」の教科化に反対しているとはいえ、道徳教科という枠組み自体にそれほど問題性を感じているわけではない。しかし、戦前の修身科にしろ、特設「道徳」にしろ、それが結局のところ社会(科学的)認識を経ない〈心情主義〉という実際的帰結に陥っているから問題なのだ。
 〈心情主義徳育〉への志向は、今回の第二次報告でも、知識(「学力」)と「規範意識」が、それぞれ別々に論じられていることなどから容易に読みとることができる。たとえば、以下の記述。「私たちは、全ての子供たちが、高い学力と規範意識を身につけ、知・情・意・体、すなわち、学力、情操、意欲、体力の調和の取れた徳のある人間に成長すること、一人ひとりが夢や希望を持ち、社会で自立して生きていくために必要な基礎的な力をしっかり身につけた人になることを望んでいます」(1-2頁)。非常に「美しい」全人教育の理想である。もちろん、「知・情・意・体」といったように「全人的」諸要素を便宜上設定し、それらの調和的発達の具体的方法をめぐって議論することは大いに結構なことである。だが、再生会議での議論の現状からいえば、このような区分を設けることで、かえって知識と道徳(情意)とが切り離されて捉えられてしまい、もっぱら道徳は個々人の「心」(いかに秩序に順応的であるべきか)の問題に還元されてしまっている。このような知識観の矮小化は、教育論議にとってきわめて非建設的である。「心」がどうにかなれば自然と道徳的行為へ至るなどと考えたり、あるいは「自然体験や職業体験を行うことで、子供たちは、命の尊さや自己・他者の理解、自己肯定感、働くことの意義、さらには社会の中での自分の役割を実感できるようになります」(6頁)などと捉えるのは、あまりに短絡的で、俗悪である(なぜ「自然体験や職業体験を行うことで」「子供たちは……実感できるようにな」るのかがまったく説明されていない。明らかに「論理の飛躍」である)。

 今から二か月近く前になろうか、特急列車内で女性が男にレイプされるという犯罪が起こっていたにもかからわず、同じ車両に乗り合わせた乗客約40人が何もアクションを起こさなかったことが事件として取り上げられ、乗客の「沈黙」などと報道された。自分はこのようなケシカラニズムに染まった報道の仕方にかなりの嫌悪感を感じた。そもそもその場に居合わせた乗客がどれほどその事件性の高さを「認識」できたのか、疑問である(私が乗客であったら、夫婦もしくは愛人関係にある男女のいざこざと認識するかもしれない)。仮に事件性が認識できたとして、そのうえで重要なのは「勇気」などという「心」や徳目ではなく、効果的なアクションの取り方である。「非常用ブザーを押す」「車掌に連絡する」…、それは知識に属する問題であろう。そのような知識・認識を基盤として道徳的といえる(=望ましいと社会的に評価される)行為に至ることができると、自分は考える(無鉄砲な行動もそれはそれで好きだが、小心者の自分には無理だ)。

 モラルの問題を個々人の内面に閉じこめるのは、道徳的行為の観点からすれば何の問題解決にもならない。かえって独善的な発想に流れやすい。また、エピソード主義(「ふるさと、日本、世界の偉人伝や古典などを通じ」云々)に走り、感傷に浸ったところで、さほど大きな効果は得られないだろう。
 子どもたちに「規範意識」を身につけさせたいのなら、モラルが求められる問題的な場面を通して、そこから心理的意味ではなく、社会的意味を引き出さなければならないはずである。ちょうど『すだ公民館』において、素敵な授業実践が報告されている。ぜひ、読んで頂きたい。

 いかに所与の秩序(ルール)に服従させるかではなく、どのような意思決定を自ら行うことが社会的に望ましいのかを教えることが、意義のある徳育というものではないだろうか。(了)

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