« とらえどころなき教育会 | トップページ | 貧困な精神主義的発想からの脱却 »

知識観の矮小化と空疎な「徳育」

 教育再生会議については、すでに方々から的確な批判が蓄積されている。ついには自民党内からも批判が展開されるようになった。衆議院議員有志による「マネジメントの観点からの教育再生研究会」の批判と提言は、至極真っ当なものだ(マネジメントの観点からの教育再生研究会「教育改革の改革を―教育再生会議への七つの疑問」『世界』2007年6月号〔no.766〕。)。

 先日出された第二次報告『社会総がかりで教育再生を~公教育再生に向けた更なる一歩と「教育新時代」のための基盤の再構築~』(2007年6月1日)もまた、それらの批判を克服し得たとは到底いえない代物となっている。(必ず批判を展開するであろう邪魔な)教育学者をあえて避けて組織された「結論ありき」の会議(客観的・具体的な議論など最初から念頭にない)なのだろうから、このような結果は当然といえば当然である。

 自分は「徳育」の教科化には反対の意思(というより、道徳教科の実効性のなさ)をすでに示している(『朝日新聞』「声」欄、2007年4月4日、当ブログ「道徳教科、効果は疑問」、2007年4月5日)。
 率直に言えば、自分自身、「徳育」の教科化に反対しているとはいえ、道徳教科という枠組み自体にそれほど問題性を感じているわけではない。しかし、戦前の修身科にしろ、特設「道徳」にしろ、それが結局のところ社会(科学的)認識を経ない〈心情主義〉という実際的帰結に陥っているから問題なのだ。
 〈心情主義徳育〉への志向は、今回の第二次報告でも、知識(「学力」)と「規範意識」が、それぞれ別々に論じられていることなどから容易に読みとることができる。たとえば、以下の記述。「私たちは、全ての子供たちが、高い学力と規範意識を身につけ、知・情・意・体、すなわち、学力、情操、意欲、体力の調和の取れた徳のある人間に成長すること、一人ひとりが夢や希望を持ち、社会で自立して生きていくために必要な基礎的な力をしっかり身につけた人になることを望んでいます」(1-2頁)。非常に「美しい」全人教育の理想である。もちろん、「知・情・意・体」といったように「全人的」諸要素を便宜上設定し、それらの調和的発達の具体的方法をめぐって議論することは大いに結構なことである。だが、再生会議での議論の現状からいえば、このような区分を設けることで、かえって知識と道徳(情意)とが切り離されて捉えられてしまい、もっぱら道徳は個々人の「心」(いかに秩序に順応的であるべきか)の問題に還元されてしまっている。このような知識観の矮小化は、教育論議にとってきわめて非建設的である。「心」がどうにかなれば自然と道徳的行為へ至るなどと考えたり、あるいは「自然体験や職業体験を行うことで、子供たちは、命の尊さや自己・他者の理解、自己肯定感、働くことの意義、さらには社会の中での自分の役割を実感できるようになります」(6頁)などと捉えるのは、あまりに短絡的で、俗悪である(なぜ「自然体験や職業体験を行うことで」「子供たちは……実感できるようにな」るのかがまったく説明されていない。明らかに「論理の飛躍」である)。

 今から二か月近く前になろうか、特急列車内で女性が男にレイプされるという犯罪が起こっていたにもかからわず、同じ車両に乗り合わせた乗客約40人が何もアクションを起こさなかったことが事件として取り上げられ、乗客の「沈黙」などと報道された。自分はこのようなケシカラニズムに染まった報道の仕方にかなりの嫌悪感を感じた。そもそもその場に居合わせた乗客がどれほどその事件性の高さを「認識」できたのか、疑問である(私が乗客であったら、夫婦もしくは愛人関係にある男女のいざこざと認識するかもしれない)。仮に事件性が認識できたとして、そのうえで重要なのは「勇気」などという「心」や徳目ではなく、効果的なアクションの取り方である。「非常用ブザーを押す」「車掌に連絡する」…、それは知識に属する問題であろう。そのような知識・認識を基盤として道徳的といえる(=望ましいと社会的に評価される)行為に至ることができると、自分は考える(無鉄砲な行動もそれはそれで好きだが、小心者の自分には無理だ)。

 モラルの問題を個々人の内面に閉じこめるのは、道徳的行為の観点からすれば何の問題解決にもならない。かえって独善的な発想に流れやすい。また、エピソード主義(「ふるさと、日本、世界の偉人伝や古典などを通じ」云々)に走り、感傷に浸ったところで、さほど大きな効果は得られないだろう。
 子どもたちに「規範意識」を身につけさせたいのなら、モラルが求められる問題的な場面を通して、そこから心理的意味ではなく、社会的意味を引き出さなければならないはずである。ちょうど『すだ公民館』において、素敵な授業実践が報告されている。ぜひ、読んで頂きたい。

 いかに所与の秩序(ルール)に服従させるかではなく、どのような意思決定を自ら行うことが社会的に望ましいのかを教えることが、意義のある徳育というものではないだろうか。(了)

|

« とらえどころなき教育会 | トップページ | 貧困な精神主義的発想からの脱却 »

教育」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/69457/15349007

この記事へのトラックバック一覧です: 知識観の矮小化と空疎な「徳育」:

« とらえどころなき教育会 | トップページ | 貧困な精神主義的発想からの脱却 »