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貧困な精神主義的発想からの脱却

 前回の記事では、知識と道徳の乖離問題について、教育再生会議第二次報告から読みとった。道徳を個々人の「心」に閉じこめ、内面的・心理的な問題に還元する議論の非生産性について論じ、改めて「徳育」教科化(もはや教化化に近い)への疑問を示した。

 このような問題の枠組みは、学校教育の問題におさまらない。自分が勤しんでいる武道についても十分に当てはまることである。
 武道の世界ではその目的が「人間形成」に置かれている。だが、武道の実質たる稽古の要点が「人間形成」ではなく、「わざを学ぶ」点にあることくらい、常識で考えれば、すぐに理解できよう。
 だが、とりわけ武道の世界に縁のない人ほど、「人間形成」の魅力を武道に見出してしまうようである。
 大きな居合道大会の開会式で地元代議士の先生方が挨拶されることがあるが、その内容は次のように定型化されているケースが多い。①まず、最近の国民におけるモラルの低下や(体感)凶悪犯罪の悪化を憂う、②次に、武(士)道の精神(「心」、この場合は情操を意味するだろう)の「素晴らしさ」「美しさ」を賛美する、ときにそこから「国家の品格」や「愛国心」の重要性にまで話題を振る、③最後に、そんな素晴らしい武道の修行に励む「選手の皆さんの健闘を祈る」というエールで締める。これに④ご当地の宣伝が加われば、立派な開会式挨拶定型が出来上がる(だから正直言って、聞く側かるすればつまらない)。
 しかし、何も居合道家は「心」一点張りの、精神論一辺倒で日々稽古しているわけではない。それだけでは「わざ」は上達しない。一つ一つの所作を不断にチェックし、「わざ」の実践を繰り返しながらその「わざ」の意味を身体を通して知り取っていく、というように、認識・思考と切り離したかたちでは、そもそも日々の稽古は成り立ちえないのである。
 居合道に関していえば、その素晴らしさは「心」云々以前に、それが先人たちによって洗練され、考え抜かれた「わざ」の体系(門外不出の奥義)だという点にあると考える。かつて確かに存在した剣豪たちと同じ「わざ」の稽古をし、彼らが「わざ」の精度を高めていくうえで辿ったであろう思考の一端を現代において共有することは、自分にとっては大きな魅力である。その「わざ」自体に発する居合の魅力を、安易に個々人の「心」に結びつけて道徳臭くしてほしくはない(右臭くもしてほしくない)。
 世間的にも評価を得ている「わざ」の世界の深みにはまってしまえば、ほかの悪いことに手を染めたりはしない。武道による「人間形成」など、その程度に語りえれば十分だと思う。道徳はあとからついてくる。

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