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コロキウムを振り返る

 月曜日に四国から帰ってきたら、気温が5℃ほども異なるため、体調不良(ほどでもないが、身体がだるい症状)に陥ってしまった。でも、帰仙してからも飲み会(!)やバイトなどで毎日忙しい。昨日は教育(学)史の特別セミナーがあり、非常に刺激的な報告を聞くことができた(でも、それはまた別の機会に)。

 さて、ようやく確保できた時間を使い、先週末の学会報告(コロキウム)について振り返ろうと思う。
 今回のコロキウムのテーマは、「『大正新教育』への地方教育会の対応」であった。自分は、宮城県を事例として、もう一人のナガエ会員は福岡県を事例に報告を行った。
 二人の報告内容には、共通する点があった。それはナガエさんが明言していたことだが、「大正新教育」の受容をめぐっては、郡市を一つのまとまりとして動いていた傾向が強いということである。
 これは、宮城県においても基本的に変わらない。自分は及川平治の例を提示したが、明石附小への視察や講演会の開催に積極的に動いていたのは郡・市レベルでの教育会(栗原郡・宮城郡・仙台市)であり、県レベルの動きは、まったくではないにせよ、必ずしも活発とはいえなかった。
 また、大正期においては、師範学校附属小学校が県下への指導性を発揮し(もしくは発揮するよう再三にわたり文部省から要請され)、「自学自習」への教授法の具体化をめぐる研究会が開催されていく。だが、福岡県の場合には、附小主導の研究に各郡市はそれぞれの思惑で対応し「県レベルでの統一的な見解には至らなかった」との指摘がなされた。一方、宮城県師範附小の「初等教育研究会」(毎年6月中旬、県教育会総会の前二日に開催)について自分が下した評価は、「同研究会の課題は、あくまで各教科目の枠組みを前提とした教育研究にあった。そこに新教育論の影響をみるならば、それは、『自学輔導』や児童の『個性』への着眼といったスローガンを各教科目の教授法においてどう具体化していくという、方法的次元において注目されたと捉えられよう」というもの。
 県レベルにおける「新教育」の低調と、郡市レベルでの活発な「新教育」受容。これを両県における共通の受容傾向と判断できるなら、
「ではなぜ、県レベルではなく、郡市レベルでの受容になるのか」
「郡市に教員の多くが向かったとするとき、では、この時期の『県教育会』に地域教員たちはどのような存在理由を与えていたのか」
「この時期教員たちが、教育研究に求めていたのは何だったのか」。
そういった問題が次に設定できるのではないだろうか。少なくとも、地域教員が「新教育」それ自体を欲していたとは考えにくい。彼らが欲していたのは、あくまで実際的な教育問題に関する救済策であって、それが出来るのなら「大正新教育」でなくとも構わず、それと真逆の思想に飛びつくことだってありえた。それが昭和期教育実践の展開(転回?)ということではないのか。と、そのような前提に立つことで、次の昭和戦時下に向かう教育の流れを捉えることが可能になるのではないか。
 報告の後、そう考えた次第である。

 なお、断っておけば、「新教育」のほかにも県教育会雑誌上に掲載された情報は多様にあり、府県によっても議論された教育の内容は異なる。沖縄県では、宮城のように「各教科目レベル」での研究議論はみず、また、発音矯正などに関する論説が登場する、といった興味深い指摘もなされた。発音矯正について言うと、宮城県の教育会雑誌にもかなりの割合で登場することを付け加えておく(いわゆるヅーヅー弁の矯正)。その他、もしかすると「新教育」以外に眼を向けたとき、これまで見えていなかった教育会の側面が鮮明に浮かびあがってくるのかもしれない。

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