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一日稽古会

 昨土曜日は、仙台錬武会の一日稽古会の日。昨年に続いて、二回目である(事務局長殿ご苦労)。
雨の中、ずぶ濡れになりながらバイクで会場に向かう(わが辞書に「電車」という文字はない。嘘)。
 参加者の顔ぶれをみると、若い人(10代、20代)が多い。もともと若手が多数を占める、宮城県では珍しい会だが、今回の稽古会も若手で占められた。自分が年長者に入ってしまう。
 稽古は10時前から16時過ぎまで。みっちり稽古して、HEROHEROになってきた。
 皆の稽古ぶりも真剣そのもの(でも、休み時間にまで学校の勉強をするのはやりすぎです)。
 「わざ」は、身体から切り離して存在することはできない。学校で学ぶ(科学的)知識のように抽象的な「言語」や「記号」としてはありえない。言語化できたとしても、それは「わざに関する知識」であって、「わざ」自体ではない。
 個々の身体を通してのみ具現する、普遍化・一般化が困難なもの、それが「わざ」の特徴である。だから、「わざ」の習得は、師匠の言葉に耳を傾けつつも、それだけではなしえない。「わざ」を学ぶ者が、自らの身体に主体的に働きかける作業を通して、はじめて達成できる。
 だから、皆真剣である。自分の身体との内なる対話を通さないと、それは習得できないのだから。五体を使って多様な対話を試み、非日常的な身体感覚を高めていく。その繰り返しを通して、いつしか身体が「あまってくる」ようになり、さらにその「わざ」の意味にまで思考を深めていくことができるのだろう。
 自分はもうそろそろ、その深みに入っていかなければければならないのだが、まだまだ思考が浅いようだ。「『信夫』(=夜の敵)では、暗闇の中でなぜ相手が敵だとわかるのか」との師匠の問いかけは、今まで自問したことがないものだった。まだまだ形だけの居合であり、敵対行為としての武術にまでは至っていない。これからも幾度となく、そのような事態に陥るのだろう。
 その世界の深さに想いを馳せつつ、行きと同じように、ずぶ濡れになりながら自宅に帰るのでありました。とほほー。

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教育の社会科学的研究の〈失敗〉とは

 苅谷剛彦「教育の社会科学的研究の〈失敗〉」(『日本教育行政学会年報』第33号、2007年)。その率直なタイトルと明快な文体に惹かれて、目を通してみた。

 「教育研究の現状は、学会や研究者の数に見合うだけの生産性や影響力を増しているようには見えない」、「教育の社会科学的研究は、現実の社会に対して影響力を失いつつある」。教育研究の現状をこのように厳しく評価する苅谷氏は、その原因を、大学変革の影響を含めた「研究者養成の失敗」と、「学問としての感度の悪さ」との複合的な現象として捉えていく。
 「研究者養成の失敗」とはどのような問題状況なのだろうか。
 誕生当初「ポツダム学部」と呼ばれた教育学部は、アメリカの強い影響を受けて設立されたものの、講座制というドイツ型組織編成を残したまま発足した。そして、それがその後の教育研究と研究者養成のあり方に影響を与えることとなった(細分化の原理での組織拡大)。加えて、政治的スタンスの違いや、旧帝大系・旧高等師範系など大学院の間における色分けなどもあり、戦後教育学は、もともと研究の専門分化=「たこつぼ化」しやすい構造を備えていたといえる。
 そのような構造を基本的に残したまま、教育学系の大学院は90年代以後の大学改革の波に飲み込まれ、教育研究のさらなる「たこつぼ化」が促進された。
 大学改革は業績主義をよび、業績主義は「たこつぼ化」を促進したわけである。そして、この後の苅谷氏の筆致が、何とも生々しい…。

「業績主義といえば、聞こえはいいが、オリジナルな論文を書くこととは、言い換えれば、いかに他者と差異化するかである。しかも以前よりスピードが求められるから、大きなテーマにじっくり取り組んでいる余裕はなくなる。……〔その結果〕同じ学会の中でもせいぜい数十人にとどまるような、『専門的』な論文が増えていく。」(102頁)

「幸運にも、こうした大学改革の時代より前に職を得た『中堅』層は、大学改革で派生した、研究以外の仕事に忙殺されている。大学評価にさらされるために、研究業績の『点数』は稼がなければならないが、じっくり大きなテーマに取り組むわけでもない。若い世代が博士号をとっても、自分たちの職は保証されているから、中堅世代は大論文を仕上げる必要もない。また、それより上の世代ともなると、今度は改革の中心的な担い手としての仕事が増えていく。外部資金獲得のために申請書を書き、獲得した研究費の意義を外部に見せるための派手なシンポジウムや国際会議の準備に忙しくなり、口頭発表を集めただけの報告書が増えていく。」(103頁)

「さらに近年では、国立大学の法人化に伴い、ポストも予算も削られ、とくに教育研究者の主たる就職先であった教員養成課程のポストも充足にまったがかけられたりするところから、若手の教育研究者の就職先もどんどん先細っている。それを食い止めようとするポスト増の要求は、アカデミックなポストより(あるいはそのポストを削って)、役立ち感=実践性が外に見えやすい、「専門職」養成のプログラムに集中する。……たしかに実践家の養成も重要ではあるが、それが学問体系の先細りとトレードオフの関係になってしまうとすれば、問題である。」(103頁)

教育学の渦中で閉塞感・切迫感を肌身で感じている若手としては、「おっしゃる通り」としか言い様がない。
 「たこつぼ化」に関して自分の経験で言えば、とくに実践研究領域で次々に展開される目新しい理論や手法に接するたびに陰鬱な気持ちになってきたことが挙げられる。新しい用語(ジャーゴン)が飛び交うために議論にまったくついていけない、という状況に何度も見舞われてきた。これは、「自分の怠慢」だけが原因とはいえないだろう。
 研究各領域の専門分化という状況が相互交流の不在、言語不通を引き起こし、かえって低迷、混迷、「まとまり感のなさ」を拡大させているとすれば、教育学は危機的状況を乗り越えられないだろう。他の領域との連帯性を組織するような思考とテクニック(「たこつぼ」ではなく「ササラ」)が、今こそ教育研究者に求められているといえる。丸山眞男の言葉を拝借してみよう。「ちょうど犯人をさがすときに、犯人を見たという人々の印象からモンタージュ写真を作成するような操作が学問の方法の上でも考えられなければならない。原理原則から天降るのでなしに、いわば映画の手法のように、現実にある多様なイメージを素材として、それを積み重ねながら観客に一つの論理なりアィデアなどを感得させる方法を、もっと研究することが大事ではないかと思います」(丸山眞男『日本の思想』岩波新書、1961年、151頁)。

 さて、一方の「学問としての感度の悪さ」とはどのような問題状況なのだろうか。これについては、11月の読書合宿で触れたいと思う(「あんこの会」会員の方は読んでみて)。

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金が出せないなら口も出さないでくれ

「財政審:教員の定数増を求める文科省に批判的意見が相次ぐ」『毎日jp』2007年10月12日。

「教育に対する日本の『公的支出』は高い?低い?」『Benesse教育情報サイト 教育ニュース』2007年10月12日。

 教育予算の増減をめぐって文部科学省と財務省との駆け引きが今後予想される――そんなニュースが今朝のテレビでも流れていた。財政審の姿勢については、すでに前から分かっていたことだから、今さら何も感じることはない(彼らがどの程度、教育現状について正確な事実認識を持っているのかは不明であるが。予算をめぐっては、例えば、「輝ける『団塊』に暗澹たる『教員大量退職時代』」2005年11月10日で指摘した問題が挙げられる)。
 そもそも最近の教育改革は、基本的に「行政改革の一環」としての教育改革、外在的な理由に基づくものなのであって、教育内在的な理由に基づいた議論によっては動いていないのである。従来の各種審議会はほとんど中教審へと一元化され、その結果として、教育改革論の劣化が目に余る事態に陥っていることは、すでに方々から指摘されていることではないか。教育再生会議のように俗悪な議論がまかり通ってしまうとすれば、さすがに国民総脱力してしまうというものだ。昨年暮れ、寺脇研さんが本学研究科にいらして講演したとき、今の若手文部科学官僚はほとんど志気を失っている旨のことを話されたのを思い出す。今ほんとうに求められているのは、「教育改革論の改革」(=我々大人が教育をみる「まなざし」の高度化)なのである。ポピュリズムが蔓延する状況下でいくら教育改革をしても、よい結果を得られるはずがない。とかく、「教育再生」(このネーミング自体に俗悪さを感じる)を唱える論者たちは市場原理を教育に導入したがるが、他国における市場原理主義の帰結がどれほど惨憺たるものになったか。「教育再生」論者たちは、単なる好みや信条の発露にとどまらず、そのことにもう少しは配慮してもいいのではないか。
 もちろん、財政的見地からすれば予算の増額はできるだけしたくないのが本音だろうし、教育内部での改善の余地もまだまだあろう。その点にはある程度共感できる。だが、「教育改革」が本音として教育内在的な理由には根ざしていないのだから、そのことに少しでも自覚的であるならば、異論者に発言機会も与えないほど大きな声で持説をがなり立てることだけは避けてもらいたい。それが私の「教育改革」論者への要望である。
 これまでの「教育改革」論はあまりに欲張りすぎだった。「金は出さないが口は出す」レベルの、現場からすればたまらないものであった。「金が出せないから口も極力出さない」(だから、学習指導要領による縛りも極力避けるというのが、「ゆとり教育」の本旨だったと私は思っているが)。せめてそれぐらい自重もしくは苦悩が透けてみえる教育改革論の展開を見たい。

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[土ログ]兵庫のおじさん(黒笑)

 最近ハマッている“兵庫のおじさん”。
Webサイト(「ヤングシィジィ」)ブログ(「愛のブランデー日記」)のほか、mixiのコミュもある。
 とはいえ、おじさんといえば、やはり動画(Youtube、無料垂れ流し)での活躍がすばらしく、参院選時の政見放送は一見の価値がある。教育問題をめぐる公約にはぶっとぶ。テロ特措法をめぐる「お政治セミナー」でも、すさまじい発想の転換を我々に提示してくれる(「テロと糞法」問題)。不安要素がごろごろおるこの現代社会の中で、自分を見つめなおしたいという人なら「自己啓発セミナー」がおすすめ。
 どの動画にしても、おじさんの「愛」にあふれる想いが伝わってくる。最後は(黒笑)になるんだけど。
 現代社会にメスを入れ、切れ味鋭く風刺するおじさんを要チェックやで。

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体育の日、稽古三昧

 今日は、居合道の伝達講習会に参加。
疲れたよ。まぁ、でも今回もいろいろな意味で勉強になった。居合道家は卓越した指導技術を兼ね備える必要があるんだなとか。
 業の面でいえば、全剣連居合の一本目(前)や二本目(後ろ)で、袈裟に血振りし、その後に足を揃える、その合理的な理由がわかったような気がした。H郷先生に感謝です。でも、三本目(受け流し)をご指導いただいたときは、昔のあの名取での記憶が思い出されて……、こらえるのが大変でした(深く詮索しないでください)。 
 それにしても不満だったのは、講習会終了後の後片づけ。おい若手共(あ、オレも若手か)、なぜ誰も手伝わない。オレやウエ様といった30代が中心でどうする。アップアップなんだよ、こっちは。終わったら、錬武会の人は誰もおらんし。何ともいえない徒労感に襲われたよ。火曜日が来ないでほしい…、もうなってるけど。

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刀に嫌われた

 久々に居合の稽古に行く。
学会発表の準備やバイトと重なったりとで、しばらく刀を握っていなかった。
なので、「鈍っとるのぅ」という感じだ。
刀がそれを教えてくれるのである。
刀を振っていても、どうもしっくり来ない。以前体感していた感覚に到達しない。かといって、無理に振り回したところで勘が戻るわけでもない。最近テレビによく流れる「あなたと合体したい」(音量注意!)ではないが、居合も刀との感応、共鳴がなければ、「気持ちいい」切り下ろしはできない。そして、その「気持ちいい」感覚は、たえざる業の鍛錬(≠肉体運動)によって獲得できるものである。

 昨日の稽古では、強引に刀を振ったせいか、右手が痛くなってしまった。掌のちょうど人差し指の付け根あたりだろうか、そのあたりが今も痛む。柄を強引に握っていたのだろう。柄巻の凸凹が掌の負担になったにちがいない。先週の残暑気払いで「茶巾絞り」と言われたばかりなのに。変な操作をされて、刀も嫌がったにちがいない。右手の痛みは、その結果だ。稽古から遠ざかったせいで、ずいぶんと身体感覚が鈍ってしまったようだ。
 また一から出直しかのう。

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本が出ました

■梶山雅史編著『近代日本教育会史研究』(学術出版会、2007年。定価3,990円)

中央・地方教育会の具体的活動内容とその歴史的役割を鮮明に浮かび上がらせる!
 明治10年代に全国各地に登場した教育会は、行政担当者、師範学校スタッフ、現場教員、地域名望家を構成メンバーとし、各地域の教育事業振興に極めて大きな作用を及ぼした。日本教育会史上、教育会は全く新たな組織・システムであり、強力な教育情報回路を形成し、多様な行事・事業を繰り広げ、時事案件の処理にあたり、戦前の教員、教育関係者の価値観と行動様式を水路づけ、さらに地域住民の教育意識形成に深く関わった。教育会の本格的研究である本書は、日本教育会史像の点検と再構築を提起する。(広告より)

 学術出版会から発売されている(ここで宣伝だ!)。
Shiraさんすだ公民館長ら若手による執筆が多く、一部私も何頁かを汚している(汗) ブロガー率が高い(?)という意味でも画期的な教育史研究書である(笑)
 「序章 教育会史研究へのいざない」を読むと、何かカジヤマ先生の教育会史研究に賭ける熱い想いが伝わってくる。「教育会の実態解明なくしては、近代日本の教育実態の構造的解明は、その深部の核心を把握し損ねるといっても過言ではない」(32頁)なんて文章を読むと特に。
 また、「序章」では教育会史研究に関する重要な先行研究にしっかり言及しているので、教育会史研究の論点整理をする上でありがたい。
 以上、ご紹介まで。

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