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[メモ]とかく「学力向上」が叫ばれる世の中だから

 全国学力調査の結果が公表されたのは、約一ヶ月前(平成19年度全国学力・学習状況調査 調査結果資料@文部科学省)。この学力調査への私見については以前述べたとおりであり、現在もその見方は変わっていない。むしろ、いっそう思いを強くした。70億円を超える税金を毎年この学力調査に投入するくらいなら、教員の負担を軽減する施策(=人員増加)等ほかにいくらでも有効な対策が考えられそうなものである。同調査について、苅谷剛彦氏からは「精度の悪さ」「解像度の不十分さ」が指摘されている(「第12回 全国学力調査から見えてくるもの・見えてこないもの」『webちくま この国の教育にいま、起きていること』2007年11月9日)。「調査結果のポイント」をみても、まったくその通りといわざるをえない。むしろ、全国的なばらつきが少ないことに驚いたくらいだ(平均正答率±5%以内)。教科ごとの正答率も、小・中ともAが80%以上、Bが約60~70%だから、これでは子どもの「学力低下」を嘆くことすらできない(とかく青少年を謗りの対象にしたい保守派の方々にとってはとても残念なことだが)。
 問題として自分が受け止めたのは、「AよりBのほうが正答率が低い。これをどう改善していくか」という点だが、ただ、これなど別に“全国”学力調査を行わなくともわかっていたことである。知識を「学ぶ」ことが結局、日常の生活世界の文脈から切り離された空間での「蓄積・付加」に終始していて、自分が消化しやすいように「調理・加工」していく技術にまで達していない点。これは、まず地道に大人たちが「わかる」ことの大変さとおもしろさを子どもたちに示していく以外にないと思う。だから、教材研究の時間が必要であり、そのためにこそコストをかけるべきだと、何度も言っているのだが…。
 さて、それより深刻に読みとるべきは、これも「全国学力調査」をしなくてもすでに指摘されていたことだが、〈家庭の経済力と学力との相関関係〉だろう。
 Webでも見られる最近のものとして、学力格差の要因・改善の視点として指摘される「ペアレントクラシー」(耳塚寛明「学力格差と『ペアレントクラシー』の問題」『BERD』8号[2007年4月])、あるいは、学力格差をもつ学校が「力のある学校」として発展していく際のポイントとして提起される「家庭・地域との協働による教育活動」(志水宏吉「金川小学校が『力のある学校』となったのはなぜか―「学力の樹」を基にした子どもが伸びていく仕組み―」『BERD』8号[2007年4月])などが注目される。
 これらの指摘を受け、また学力調査の結果も含めて、最近自分が考えていることについて述べてみたい。
 それは〈「学力」を伸ばすことは、学校内での知識伝達といった発想だけでは困難だ〉ということである。要するに、「学力」を形成していくうえでの前提条件―文化的環境と、そこでの子どもの経験といったものが非常に重要になってくるということである。家庭や地域という「場」が備えもつ文化性や包容性といったもの―J.R.マーチンが『スクールホーム』で述べる「3C」―が、実は、子どもの「学力」(3Rs)を用意する前提になるのであり、それを無視して「学力」向上を議論することは困難だということだ(*1)
 そう考えると、新自由主義的路線の中でこの前提が失われ―家庭・地域という「場」の「崩壊」―、そしてそのような中で「競争意識を喚起する」を合い言葉に「学力」テストが行われていったとしても、教育不信ばかりが増大してあまり効果はないということになる。「学力」が伸びないばかりか、むしろ、いっそう学校内の雰囲気が殺伐としたものになる。そのような“冷たい雰囲気”のなかでの「学力」形成が果たして、ほんとうに子どものためになりうるのか、自分には甚だ疑問である。ただ「できのいい子」と「できの悪い子」のレッテル貼りを加速させるだけではないのか、という危惧がたえない。
 もし、家庭や地域に現在その準備がないとすれば、さしあたり学校が中心となって地域・家庭に働きかけ、そのような「学力」形成の前提としての子どもを包容できる環境作りを考えてみるのは一つの方法なのかもしれない(くれぐれも学校・教師に多大な負担を強いることだけは避けなければならない)。今のところ具体的なイメージはついていないが、例えば、学習発表会での演劇活動や社会科での新聞づくりなど、既定のカリキュラム内でも可能だと自分は考える。教師と子どもたちがともに「参加」し(*2)、文化的活動を実践できるような「学びの場」が用意できれば―。「総合的な学習の時間」などはそのような「場」になりうると考えるので、その安易な時間削減には反対である(教師の奮起を期待したいのだが…)。

*1 こういうふうに言うと、すぐ「食育」「親学」とかが言われるが、そう単純なことは考えていないので、あしからず。一斉教授の中で知識〔文字・記号の機械的操作でしかないもの〕を蓄積させていくといった従来の「教育観」「学校観」を、〈家庭〉や〈地域〉といった観点から書き換えていくことは可能か、そこから現状の改善策を導きだせないか、というところに自分の関心がある。「教育改革」論議における「親学」や「食育」は、既存の学校教育の補完的位置づけでしかないだろう。それは根本的解決にはなりえない。
 
*2 〈教師〉が〈子ども〉に知識を教授するという一方向の考え方ではなく、〈教師〉〈子ども〉がともに〈文化〉に対して働きかけ、学ぶという「三角形の関係」を、この場合の「参加」としてイメージしている。「三角形の関係」のなかでは、教師は援助者として子どもに働きかける。

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