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「自己責任」としての教員免許更新制

 年の瀬というのに、教育には暗い話ばかりが続く。
 一年前の教育基本法改悪にはじまる安倍晋三の行った愚行に、教育は翻弄され続けている(本人は性懲りもなく、最近またテレビに出演していた。その言い訳がましさは「男子の本懐」に悖る)。

 教員免許更新制という愚策をめぐっては、すでに所見を述べてきた。
その後もまったくもって、こんな無謀なことができるのかという疑念が解消されない。
 大学の中にいると、更新講習実施に向けた調査の動向が耳に入ってくる。
それを聞くと、この制度実施をめぐる混乱ぶりがよく伝わってくる。
膨大な教員人口に対処するために、大学が翻弄されることは必至である。
更新のためにやらなければならない作業が膨大なものになる(講習:1人あたり30時間、試験、評価報告書…)。
一年を通して、大学教員の休む暇というものがなくなる。だって、更新講習は長期休暇期間にやらざるを得ないのだから。
大学は、国の政策の外注を請け負うことになるわけである(国はそれを外側から監視する)。
果たして、本来の〈研究〉から切り離されて、そんな実務に振り回されていいのだろうか。
大学の意義がわからなくなってくる。
 しかも、更新講習は、教員の自己負担である(30000円程度)。
国がめざす教員の質保証が、教員の「自己責任」でまかなわれる――端的に言って、国の責任の放棄ではないか。
結局、国は、さんざん「教育再生」を喧伝しておきながら、することといえば、個人を「不安」にさらし、「監視」をするだけでしかないのである。
 もし、この制度をプラスに評価するとすれば、それは(教員養成系)大学にとって、新たなドル箱産業になるという意味でしかない(教員の過労と引き換えに)。

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インド式計算から二位数のかけ算を直観

 今日はクリスマスなのか。もうすっかり、頭からそういう感覚が抜け落ちている。
 「そんなの関係ねぇ」といったところだ。
 
 さて、最近テレビによく流れる「インド式計算」。
「学力」についてうるさく扇動される国内状況が、国内発展著しいインドの高度な算数・数学教育へと、われわれの眼を向けさせるのだろう。
 でも、テレビで解説を聞いてもすぐに忘れてしまうというのが正直なところである。
それぐらい、興味関心としては薄い。
さまざまな計算方法が紹介されるのだけど、各々がある限定されたケースにしかあてはまらないのだと思うと、果たしてそれらを覚えることが効率的なのかどうかも微妙である。
むしろ、一般的な(われわれ日本人が学校で習ってきた)筆算に精通していればそれで十分なのではないかと思ってしまう。
筆算は、それだけ一般性を持っているのだから。

 ただ、以下の計算方法だけはしっかりと覚えることができた。

【問】78×62=?

【解答】
78=70+8
62=70-8
70×70=4900
8×8=64
4900-64=4836
 答 4836

なぜ、このような計算方法になるのかは、以下の手書きの図を参照してもらいたい。
ちょっとわかりづらいかもしれないけど。
単なる計算上の操作(儀式)としてのみならず、図のイメージによって理解することで、この計算の意味を理解できた。
だから、脳裡から剥落せずに済んだのだろう。

Scan3_2

 このように考えた後、次のことに気が付いた。
これって、中学生の時に因数分解で習った「あれ」じゃないかと。

Scan1_4   

まさか、インド式計算をきっかけとしてあの多項式の展開を「直観」するとは!
これは、一つ賢くなった。
と同時に、数学の授業実践において、図形のイメージ操作と合わせて、文字式・計算を考えさせていくことの意義を実感した。

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実践指向と言うけれど

 ウチの大学院でも、実践指向の教員養成(正確には教育専門職養成)を行うと言い出した。来年からは新専攻(教育を設計し評価するという)も発足する。
大学院教育支援GPにも採用された。
中心にいるのは、あの先生。
 このたび発行されたニューズレターで、次のようにおっしゃっている。
「これまでの教育学は、原理原則の追究が中心で、その現場適用についてはあまり力を入れないできましたが、プロフェッショナルな知識・技術の開発研究は、今後画期的な影響を教育学にもたらすものと思います。」
今までさんざん「原理原則」と口癖のように言ってきたのはあんたじゃないのか―そう、即座にツッコんでしまった(まあ、いいけど)。

 「あなたの理論はわかった。では、その理論にしたがって、具体的な実践例をつくってみてくれ。実践例をつくることで理論を説明してくれ」という教育学批判への応答というならばその姿勢は評価できる。教育学の教師が、自ら小学校・中学校・高校の教育内容を加工・生産する過程を通して教育学を作ることができていない実情、“具体的事例を熟考する中で”理論を検証しつつ受容できない実情、理論(研究)と実践とが相互に批判し、修正し合う緊張関係の欠如、といった問題は確かにあったと思われるからである。例えば、生徒の主体的な「学び」を訴える教育学の大学教員が、自分自身の教育実践への自覚を欠いたまま、教育(学)についての「知識」を「記憶」させるだけの粗雑な「教員養成」を展開していたおそれというのも十分に考えられる。

 「実践指向」ということが、「研究と実践の相互批判・相互修正」、「実践の形にまで具体化された理論-理論に支えられた実践」という明確な関わりへの指向を意味しているのならば、進むべき方向はまちがってはいないだろう。「ある内容を教えるときにどうするか。授業をしなくてもいいから、自分の教育学理論と噛み合わせて教材をつくってみろ」。そう言われたとき、すぐに応えられるだけの地力を持つことが、「実践指向」の教員養成を行う教育学者に求められるだろう。難しい。教科教育学をやってきた人たちならともかく、ウチの大学院でそれをやってきた人はいるのか(えっ、T先生? 新専攻にもGPにも入ってないぞ)。

 ただ一方で、次のような問題への配慮が必要となってくるのではないか。
 およそ学問は――少なくとも社会科学は、特定の角度から現実を単純化して(特定の視点で切り取って)見る思考の技法であり、フィクションである。だから、現実問題すべてをカバーできるものではない。単純化しているのを忘れて、「例えば、PDCAモデルだとこうなるから、現実の政策・実践もそうすべきだ」と何の躊躇もなく短絡することは果たしてできるのか。「教育学は役に立たないといけない」という強迫観念のもとで、役に立つところを見せなければと思い込んでいる学問・学者ほど、自分の使うモデルと現実を混同し、煽動的になりやすくなるのではないか。そんな問題がどうしても浮かんでくる。

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アジアの高校がめざす「学力向上」

 先週15日(土)は、国際シンポジウム「学力向上を目指すアジアの高校教育」に参加してきた。
日本の教育論議の現状に照らして、非常にタイムリーな企画であった。
お招きしたのは、韓国・台湾・シンガポールの三か国の高校の先生方(高校教育関係者を招いての国際シンポジウムというのは、かなり独自)。
いずれも(形式的・順位的な意味で)日本より「学力」が高いとみられている国々である(PISAでは韓国との比較しかできない。TIMSS2003で順位を把握していただきたい)。
そして、教育面での共通性がみられながら(テスト中心、大学入試、高学力)、グローバリゼーションの下、共通の問題(就職難、学力向上へのプレッシャーなど)にそれぞれ異なる戦略で立ち向かっている。
 自分は会場係でシンポジウムの内容を集中して聞くことはできなかったが、O川先生の基調報告を拝借すると、各国の特徴(の変遷)は「ナショナリズムと学力向上」を共通の前提として次のように区別される。

・シンガポール 
  国民教育→幅広い学力観(脱点数至上主義)
・台湾
  「台湾人」形成→多文化への配慮(底上げ)    
・韓国
  国家の威信→世界トップ(上位層の上昇)

「どの国も、日本の教育論議に突き刺さってくる問題を提示してくれている」。
それが、自分の第一の感想である。
シンガポールについては「日本が目指し、そして挫折しかけている教育の行方」をみることができるし、韓国の「超エリート教育」政策は、一部日本の教育論者が興味を持ちそうな内容であるし、また「学力格差」が問題視されている日本の現状からすれば、原住民への対応に取り組む台湾の事例もまた大いにヒントを提示してくれるものであると。
もちろん、まだまだわからないことがたくさんある。
例えば、韓国の先生の報告を聞いたときは、ヘルマン・ヘッセ『車輪の下』が頭をよぎったし(生徒は全寮制の好待遇のもと平日約12時間の猛勉強だから、生活指導面でのケアがどうなっているのか知りたかった。日本以上の学歴格差社会といった逼迫した現状との関連も気になる)、シンガポールではなぜ日本が挫折しそうな方向に積極的に向かおうとしているのかが知りたかった(小さい国家で教育予算が高いから教師や学校をめぐる環境が整いやすいのか)。

また、いずれの国も、「学力vsゆとり」といった貧困な二項対立の枠組みの上で議論などしていない(日本と同様の問題状況も一方ではあるのだろうか、そんな地点で停滞などしていない)。
それが第二の感想である。
学力(適正な競争)も大事だし、人格も大事だし、修学支援も大事なのである。
とくに、シンガポールの先生の報告は日本の教師の目を覚まさせるに十分なものだった。
同国教育省が2005年に打ち出した教育スローガンは、“TLLM―Teach Less, Learn More”だった。
教師がそれほど教えないということなのかと解釈してしまいがちだが、報告者の先生は「そうではない」と再三注意を促していた。
問題は、学習者を参与させることによる学力向上だと(「学力」か「ゆとり」かではない)。
そして、私たち現場の教師は「なぜ教えるのか」そして「何を教えるのか」という点について価値判断をし、教授学習の質的転換を図ることをめざしていると述べていた。
日本の学力政策が「どう教えるか」ということに凝り固まっていることを考えれば、スタンスの違いは明白である。
“何を学ばせ、評価するのか”という根本的な面を議論の対象としているのである。
旧来点数で計ってきたものだけを尺度とするのではない。
だから、日本でいえば「総合的な学習の時間」で学んだことをセンター試験の評価(点数)に盛り込むような、そんな対策もとられているようだ。
さらに、そのような知の質的転換を通しながら、旧来の点数的な学力も〈結果的に〉向上させようとする思惑も読みとれた。
そして、小国家で頭脳流出が問題とされるだけに、実は愛国心の涵養とも以上の動向が結びついているということも。

 そして、以上の論点は、大学が入試に際してどのような評価を行うべきなのかという問題―教育の接続、高大連携といった議論―に連なってくる。
上記三か国では、いずれも高等教育が拡大している傾向にある(何を「高等教育」に含めるのかは単純ではないが)。
これは日本と対照的である。どの国も教育の接続をさまざまなかたちで議論している。
その点で、日本と各国ではかなり温度差があるのではないかというのが、第三の感想であった。

日本の学力論議を相対化してくれる、きわめて有意義な機会であったと思う。
教育再生会議にみられる教育論議の低次元ぶり(戦略のうすっぺらさ)が、より際立って見えてくる。
とても恥ずかしくて、ゲストの先生方には教えられなかったよ。

※自分の理解に甚だあやしい部分もあるので、ヤギーさんあたりにいろいろ当日の補足をしていただけると助かります~。

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「待ってました!」「たっぷり!」

 「話芸から学ぶ説得の技法―浪曲と教育の接点を探る―」と題するセミナーに、お手伝いをかねて参加してきた。「現代教育科学の最前線」と題する研究シリーズの第1回である。
初めて、“生で”浪曲(浪花節)を聴いた。
伝統の口誦芸能、その「語り芸」はわれわれを大いに魅了してくれた。
一つの演目に30分ほどかかるわけだが、素人からみれば、あの「語り」(音楽)をつっかえずにこなすだけでも大変なはずなのに、声の強弱や身振り手振り、そして絶妙の「間」で聞き手を惹きつける、その鍛え抜かれた技術は圧巻である。
そして、そのような卓越した「語り」の技術があるからこそ、聴く側もその「語り」の内容を脳裡に焼き付けることができるといえよう。
相手に何かを伝えるということの大変さを、浪曲を通して再認識させられた。
ちなみに今日の表題は、浪曲を聴く際の聞き手の約束事である。
 
 今回のセミナーの趣旨は、次のようなものであった。
「西洋教育史の歴史を振り返ると、教育という営みは、「話-術」とも言うべきレトリックと密接なつながりをもっていました。教育もレトリックも、たんに話しの内容を理路整然と語るだけではその役割を果たしません。聞き手の心を「動かし」、「説得」するためには、語り手と聞き手とのダイナミックな関係を構築することが必要です。このような関心から見た場合、我が国における「話芸」の伝統は、教育学にとって貴重な資源になりうるものです。……」
①語り手、②聞き手、③語りの内容(知識・情報)のうち、われわれは③には力を入れてきたかもしれないが、①と②の密接なつながりについてはほとんどかえりみてこなかった。
いまや、相手に「話す」「語る」といえば、プリントやパワーポイントでの発表が主流のご時世。テレビにはひんぱんにテロップが出る。
しかし、われわれはもっと自分の身体(声や身振り手振り)を通して、聞き手の心を動かすという点への視座をもってもいいのではないか。
お経の内容がいくら正しくても、それを語るお坊さんの読経が不十分ではありがたみは湧いてこないように、(③内容が充実していることは大前提だが)たとえ③が十分で正しいものであっても、①語り手の技術が不十分では、必ずしも②聞き手には伝わらない―。
以上が、教育にも連なる、セミナーの大きなテーマだったように思う。
 
 ここから、すぐに思い浮かぶのは『教師のためのことばとからだ考』などで知られる竹内敏晴氏の「からだ」論である。
例えば、「わたし」が「あなた」の話を「聞く」というとき、それは単に話されたことばの文章内容だけを抽出して取り込むということではない。
それは、話しかける「あなた」の息づかいや、ことばを探して立ち止まったり、もどかしく手を振ったりする「からだ」(身動き)全体を「わたし」が受け取ることを意味する。
逆にことばを「話す」というのは、相手を動かし変えようとする「からだ」と心の試みだということになる。
「情報」が人と人との関係を捨象して、言語=文章化し抽象化した意味内容のみを伝達する機能である―情報は受け手を特定しない、交換性をもつのに対し、「話しことば」は「じかで、たった一回きりの、文内容を越えたなにかであり、からだからからだへ響きあい、共鳴し反撥すること」として対比される。
竹内氏はそのような視点から、「わたし」を疎外して「情報」のみを抽出しようとする情報社会の構造的動向に対する「からだの反乱」を説こうとする。

 学校教育がまさに「わたし」を疎外して「情報」のみを扱うものであるならば(例えば「学力テスト」といったかたちで)、「話芸」「語り芸」などの日本伝統の「わざ」は、今の教育の問題状況を変革するヒントを提示しているのかもしれない。
つまり、教師の教育技術も、子どもが学ぶ知識もそれ自体が具体的文脈から独立して存在するのではなく、教師-子どもの全人的関係性や、「からだ」という媒体を通した「話す」「聞く」といった行為の過程=現象全体の中に埋め込まれているのだと(話芸のプロが聞き手の反応を敏感に読みとり、場の空気を換えようとする臨機応変な対応は、知識の文脈依存性をよく示していると思う。稽古だけで学べるものではなく、舞台という「場」でお客「聞き手」との関係を通じて初めて、それに習熟していくことができるのだろう。教師が子どもに教えることもまた然りである)。

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バターとマーガリンの違い

 バターとマーガリンの違い、みなさんはご存じだろうか。
自分は長いこと、
 バター…動物性油脂から作る
 マーガリン…植物性油脂から作る
と覚えてきた。テレビで知ったうろ覚えの知識であるが、疑問に思うこともなく記憶していた。
 しかし、「その理解はちょっと違うのではないか」と研究室の先輩から―だいぶ以前のことだが―指摘されて考え込んでしまったことがある。そこで、今更ながら少し調べてみた。
 雪印のHPでは、次のように原料を区別している。
 ・バター…生乳を分離して作られるクリーム(乳脂肪)
 ・マーガリン…食用植物油脂(大豆油、コーン油)

  (「お客様広場」@雪印株式会社)

バターはミルクの中の脂肪を集めることでつくられています。
ミルクの中には小さな脂肪の粒(脂肪球)が、たんぱく質の被膜に包まれて浮遊しています。搾りたてのミルクを数時間器に入れて静置しておくと、上に脂肪の層が浮んできます。これがクリームです。このクリームだけをすくい取り、道具を使ってゆすったり、叩いたり、攪拌(かくはん)したりすると、脂肪を包んでいる被膜が衝撃で破れ、脂肪どうしがくっつきあい粒となって浮んできます。これを取り出し練り合わせたものがバターです。

マーガリンはバターの代用品として、1869年フランスで生まれました。当時プロシアと戦争中だったフランスは、生活必需品であるバターが欠乏しており、代用品が求められていました。そこでナポレオン3世は、代用バターの発明を懸賞募集し、フランス人メージュ・ムーリエ・イポリットの考案を採用してmargarineと名付けたのが始まりです。
(学生のみなさまへ@雪印株式会社)

 また、マーガリンについては、次のような記述もある。

マーガリンとは、植物性・動物性の油脂を主原料として精製した油脂に発酵乳・食塩・ビタミン類などを加えて乳化し、練り合わせた加工食品。
(きのまま)

あるいは、次のページの表(「マーガリンって何?」@日本マーガリン工業会)

主原料が「植物性・動物性の油脂」とあるから、「植物性から」という自分が有していた区分方法はやはり違うということになる。そして、マーガリンについては、「今すぐ捨てなさい!」という、その危険性を指摘する記述を多く確認することができた(例えば、「マーガリンは今すぐ捨てなさい!」@INSIGHT NOW!、2007年12月2日)。自分が小学生のころ、よく給食にはマーガリンが出ていたが、今の給食はどうなのだろうか。自分の推測ではほとんど出ていない気がする(上に挙げたような意見が浸透している状況だし、加えて食の安全が叫ばれる状況では「給食費を払いたくない」という意見が出ても不思議ではない気がする)。
 
 さて、以上から、もっと明確に両者を区分するためには、次のように理解するといいのではないか。
 ・牛乳…乳製品。牛乳(生乳)から分離したクリーム(乳脂肪)をもとにつくる。
 ・マーガリン…動・植物性油脂に発酵乳等を加えて作る。

「乳製品」(動物の乳、とくに牛乳を加工してつくられる製品の総称)というカテゴリーをかませてみると、両者がよく区別できるのではないかと考えた次第である。「マーガリンは乳製品じゃない」というのでおそらく間違っていないと思う。
【追記2007/12/12】  「乳および乳製品の成分規格等に関する省令」でも「乳製品」の項目(第2条第10項)に「マーガリン」の記載はない。

 ところで、「食育」では以上のような知識はちゃんと勉強するように考えられているのだろうか。「食育」という発想は確かにプラスの一面はあると思うけど、他面で食品業界のいいように利用されそうな気がするのは自分だけだろうか。食に関する知識を突き詰めていくならば、「食育」は(食の安全に過敏になっている現状だし)けっこう激しい論議を呼びそうな気がする(今のところ、「食生活の改善」=「日頃の態度・心がけ」に問題は収斂しているが)。

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[木ログ]電波教授対策

◇これから大学院へ行く人へ -電波教授対策-
http://anond.hatelabo.jp/20070921072110

 これを書いたのはおそらく「理系」の人だと思うけど、「文系」の自分でも肯いてしまう部分が多々ある。「電波教授」の指標、これから大学院へ行く人は十分に留意されたし。

・しゃべりが上手い
・理論が非常に弱い
・研究室の目標が興味をそそる
・最近の発表論文に著者名が書かれていない
・関連分野の研究室と交流が無い
・比較的新しい分野
・出張が多い
・博士課程の学生が多い場合がある

大学の中の「世間」は、実に非学問的な力学で動いている。それなりの期間大学に居座るようになって、その汚い部分は自分にも、「もうたくさんだよ」というぐらい見えてきたと思っている。

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やれやれな脅迫

「『忘年会やめろ」と脅迫 仙台、小学校に中止指示」
(MSN産経ニュース、2007年12月4日)

 宮城県教育庁に「仙台市小学校の忘年会をすべて中止せよ。さもなくば、子供の命を奪う」などと手書きによる脅迫文書が届いていたことが4日、分かった。
 平成17、18年の年末にも同じ内容で字体が似た文書が届いており、仙台中央署は同一犯の可能性が高いとみて脅迫容疑で捜査している。
 これを受け、仙台市教育局は小学校123校に忘年会の中止を指示。学校などに登下校時の安全確保を呼び掛けた。
 調べでは、3日午前11時ごろ、県職員が茶封筒を開封。便箋(びんせん)に黒のボールペンで「朝、子供の命を奪いに行く。特に19日、20日、気をつけろ」と書かれ、仙台市の若林郵便局の1日付消印が押してあった。

(1)バカな脅迫文書である。
①仙台市小学校への要求なら、宛先は県教育庁(県教委)じゃなくて仙台市教育局(市教委)だろう。
②一銭にもならない要求をして、何の意味がある。
③全小学校123校が「忘年会」をしないと、どうやって確認するんだよ。
④「朝、子供の命を奪いに行く」と、犯行の時間帯を自分で限定してしまっている。
⑤「十九日、二十日、気をつけろ」というが、「子供の命を奪いに行く」のは「朝」なんだろ。仮に、ある学校が20日に「忘年会」をしたとしても、「子供の命を奪いに行く」チャンスは、21日の「朝」しかないんじゃないかな。その後すぐ土・祝日・冬休みに入るけど、それからでは出歩く子供が減るから難しいだろう。
⑥当然「忘年会」を開いていない小学校の子供を襲うことはできないだろう。それとも「忘年会」予定の情報を掴んでいるのか。今どき学校名で予約するところなどないから、掴んでいるとしたら、かえって身元を特定されてしまうぞ。
⑦そんな暇があるなら、年越しの準備をしろ。
まあ、犯行声明から読みとれる無知ぶりは、教育関係者のそれではないな。第一、平日に忘年会を開けるほど、先生方は暇じゃないだろう。

(2)こういったふざけた快楽犯(としか言いようがない輩)にいちいち付き合わなければならない先生方が気の毒である。自分なら「まともに取り扱う必要なし」と判断するが、世論が世論だから、市教育局も「『中止』の指示」というかたちで手を打ったのだろう。だが、こんな仕様もないことを毎年繰り返すのは、あまりに馬鹿げている。もっとも学校側からすれば、さしあたり「登下校時の安全確保」を行った上で、次のような対処・選択肢をとるのだろうけど。
①派手な飲み会としての「忘年会」は避ける。代わりに茶話会(≠忘年会)などの催しを開く。
②個別に、パーティ・宅飲みなどをやればいいさ。
③「忘年会」ではなくて、「新年会」という手もある。 
④年末ではなくて、年度末に行う(「送別会」「謝恩会」。教員の世界だとこっちが主流なんじゃないですか?)。
⑤その前に校務が忙しくて開けんわ、このバカちんが。

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