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「数学力」はアップしているとな。

■「理系高3の数学力、30年前よりアップ」(『読売新聞』2008年1月29日)

 子どもの理数離れが懸念されているなか、理系高校生の数学力はおよそ30年前よりも上がっていることが、東京理科大学数学教育研究所が1万人を対象に行った学力調査で判明した。
 理科大への進学者が多い高校580校から任意に選び、調査協力を呼びかけた。2005年から3年間実施し、31都道府県からのべ146校が参加。「数学3」と「数学C」を履修している高校3年生に問題を出した。
 問題のうち約30問を国際教育到達度評価学会(IEA)が理系高校生に行った1980年度の国際数学教育調査(SIMS)と同一の問題にし、比較した。その結果、今回調査のほうが成績が上だった問題が全体の66・3%もあり、同程度が21・7%だった。80年度より成績が下回った問題は11・9%にとどまった。同研究所の澤田利夫所長は「理系の生徒の学力は長期的にみて低下していないことが証明できた」と話している。
 ただ、3年間の成績を比較すると、平均正答率は徐々に下がり、特に、図形など記述式で証明を求める問題の成績低下が著しかった。
 昨年12月に発表された経済協力開発機構(OECD)の国際学習到達度調査(06年実施)の結果では、日本の15歳の「数学的応用力」が03年の6位から10位に転落。文部科学省が来年度からの新学習指導要領で理数系の強化対策を打ち出していた。

 記事からポイントを選び出せば、以下の5点だろう。
①対象が「理科大への進学者が多い高校」の「理系高校生」(3年生)であること
②「31都道府県からのべ146校が参加」、「一万人を対象に」したこと
③「問題のうち約30問を国際教育到達度評価学会(IEA)が理系高校生に行った1980年度の国際数学教育調査(SIMS)と同一の問題にし、比較した」ということ(OECDが行うPISAとは異なるということ)
④結果として、「今回調査のほうが成績が上だった問題が全体の66・3%もあり、同程度が21・7%だった。80年度より成績が下回った問題は11・9%にとどまった」ということ
⑤「3年間の成績を比較すると、平均正答率は徐々に下がり、特に、図形など記述式で証明を求める問題の成績低下が著しかった」こと

 2007年10月に同研究所が行った「基礎学力調査」実施結果については、東京理科大学数学教育研究所のウェブサイトにて公表されている〔「理系を対象とする基礎学力調査」中間報告書(案)[pdf]、以下、報告書(案)と略す〕。
同報告書(案)には、「学校間の正答率のばらつき」「期待正答率と生徒の正答率」「教師の評価と実際の正答率」など、ほかにも注目するデータが報告されている。これらは「何が学ばれ、何が学ばれなかったか」を知る手がかりを得るうえで重要だろう。
 また、「理系生徒の基礎・基本的な数学学力の間には男女差はない」(7頁)という見解も興味深い。
 さて、報告書(案)と上の記事を読み比べて、まず②「31都道府県からのべ146校が参加」「1万人を対象」は報告書(案)からは読み取れない。報告書(案)では、今回の調査は21都道府県から58校の参加を得た旨、記されている(4頁)。最終的な参加「理系生徒数」は4575人である(同)。3年間の結果で記事のとおりになるのだろうか。
 加えて、⑤も報告書(案)からは確認できない。報告書(案)では、同一29校を対象とした07年度と06年度の比較がなされている。それによると、「相対的に成績低下傾向が見られた。しかし、全体37題の平均成績には有意差がみられなかった」(16-17頁)。記事中、「記述式で証明を求める問題の成績低下が著しかった」というのも、誤解を起こしそうだ(「著しい」という形容詞は主観的な表現)。報告書(案)では、今回、記述式の問題で成績がふるわなかったのは、「平面図形」「図形と方程式」「行列」「導関数」「三角関数」とされている(9頁)。
 なお、④について、報告書(案)では次のように述べている。
「全体32題中、今回調査がよかったのは19題、SIMS調査のほうがよかったのは6題、両調査に有意差がみられなかったのは7題であった。/この調査結果から、SIMS当時の生徒と比べて、今回の生徒の成績は劣っていないと言える。この傾向は05年度、06年度にもみられた。」(18頁)

 今回比較に使われているのは、IEAの、いわば従来型の、教科の枠組みを前提とした「学力」測定調査であり、先日騒がれたPISA(応用力、リテラシーといった能力を測定する)ではない、ということも十分考慮に入れておく必要があるだろう。
 また、今回の調査対象である「理系高校生」が、東京理科大学への進学者がある「進学校」の生徒だとすると、対象がじつはかなり成績上位層に限られてくるのではないかという気がする。
 「学力低下」という言葉を吐くときに気をつけたいのは、全体における上位層の厚さは実は変わっていないということである。ところが、今まで日本の学力の高さを支えていたぶ厚い中間層の一部が、下の方にひっぱられていった。「二極化」という状況であり、それによって全体としての「低下」が起きた、というのが、専門家間の一応の見解である(と思う)。それは「ゆとり教育の失敗」というより「成功」といったほうが的を射ている。80年代、新自由主義路線の中で登場した「ゆとり教育」のねらいはもともとそこだろう。
  それにしても、まだ報告書(案)の段階だというのに、よく記事にしたなぁ。

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下緒が切れそう

 時間が合わないのと、雪のため(原付の人間は)道場まで足を運ぶことができなかったのとで、二週間ほど居合の稽古にいけなかった。
 明日(日付変わって今日)は稽古に行こうと、素振りをして気合いを入れたところだが、刀をみて気がかりなことが。
下緒(さげお。さげを?)が切れそうなのである。今年の最初くらいに気づいたのだが、すぐにでもぷっつんといってしまいそうな状況である(知らない人のために説明しておくと、下緒とは刀に括り付けている紐で、居合道では付けることが作法として義務づけられている→たとえば、こちらの動画を参照)。栗形と左手との摩擦でほつれてしまったのだろう。装飾には頓着しないタチだから、刀を買ってから一度も付け換えたことがなかった。ついに一歩手前まで来た。稽古をしてきた年月が感じられて、少し感慨深いものがある。
 さて、ここまで来たので買い換えようと思うが、できれば大会の時にいろいろと物色してから購入したい。でも、それは春以降の話。それまでには間違いなく切れそうである。そこで、このブログを見ている錬武会会員の皆さんで「もういらない」という下緒があったら、お譲りください。

【追記】2008年2月4日。
  金曜日(2月1日)の稽古で、ついに切れてしまった。何とか切れた部分を縫い合わせて直したけれども、我ながら無様な出来映えである。

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教科書供給事業

 学校に通う児童・生徒に無償で給与される教科書は年間何冊か、ご存じだろうか。「約1億700万冊」(平成18年度実績)だそうだ。
 では、その年間に供給する教科書を積み上げると、どの高さぐらいになるか。「富士山の高さの約150倍」(570,000m)になるという。
 以下(↓)の冊子から学んだ。PDFでダウンロードが可能である。
 教科書供給という、あまり注目されないけれども、きわめて重要な教育事業の一端を知ることができてためになった(無償措置という、今やわれわれがあたりまえのように思っているサービスは、実は戦後1963年・昭和38からである。「義務教育書学校の教科用図書の無償措置に関する法律」を参照)。

 ■社団法人全国教科書供給協会『教科書を子どもたちに確実に届けるために―直面する教科書供給の問題点―』2007年。
 http://www.text-kyoukyuu.or.jp/attach/tdissue2006.pdf

 同冊子は、少子化に伴う教科書の売り上げ減少が供給手数料の減少へと連なり、教科書供給業者を圧迫しているという窮状を訴えている。
 この問題は、教科書供給サービス(供給ネットワークを通した全国均質のサービス)の質にもつながってくる問題であり、ひいては教科書それ自体の質にもつながってくる問題であるため、目を引いた(具体的な例として、教科書取扱店の廃業・倒産などが挙げられている)。
以下、引用しておく。

教科書供給業者が抱える問題点

教科書販売会社の場合
●昭和60年から児童・生徒数の減少が始まり、20年以上にわたる構造的な不況が続いており、教科書の売上高が年々大きく落ち込んでいます。
●教科書の定価が、平成15年度0.6%、16年度0.1%、17年度0.6%、18年度1.4%、平成19年度0.6%と5年連続引き下げられ、さらに手数料も18年度は0.2%の引き下げ、19年度は暫定的ながら0.6%の引き下げがありました。教科書の供給に要する費用は定価の中に含まれているため、その収入減は教科書供給会社の経営そのものを圧迫しています。
●供給業務のネットワーク化のための設備投資が増大しています。

教科書取扱書店の場合
●教科書・一般書籍供給会社と同様、手数料収入の減少により、経営の存続が年々厳しくなっております。後継者不足なども手伝って辞退・廃業が続いています。
●複数学年使用する教科の増加等により給与形態が複雑になり、供給面でも大きな労力を要しています。
●セキュリティの面で供給時に入校許可がいるようになる等、訪問時の所要時間が増加の傾向にあり効率が悪化しています。

〈リンク〉
社団法人全国教科書供給協会

社団法人教科書協会

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研究=自分の生き方の反映

 週末は科研の教育会研究会。下準備を手伝ってくださったすだっち、サコさん、ばっしーさん、ありがとうございました。助かりました(なんだかんだで、一人ではけっこう準備・気配りが大変ですね)。
 さて、研究会だが、新春から熱い議論が交わされて、いろいろと感じるものがあった。
 研究会に参加していつも思うのは、〈教育(学)〉という枠組みを大きく越えて議論がなされている、ということ。
ある教育の歴史的事実を捉えるためには〈教育(学)〉の発想だけではダメで、隣接領域(日本史、政治学、経済学、行政学、社会学、哲学etc.)の視点もふまえないと史実を鮮やかに切れるメスは持てない―、そう言われているような気がする。でも、それが難しい。いろいろな他分野の知識や流れてくる情報を自在に摂取できる“襞”が自分の体にあればなぁと思う。
もっとも、それは結局、それら知識や情報を自分の生き方に関わるものとして身につまされて受け止められるかという問題であり、“襞”というのは世界と関わっていく「主体」としてのあり方・思想のことなのだろう(そこが史料を血読できるかどうかの分かれ目なんだと)。 
 
 さて、研究会の内容から受け止めた事をいくつかメモ書きすると、
・〈教育会〉という発想が一体どこから来たのかという問題提起(近世からの連続性、海外からの視点)
・〈教育会〉をめぐる情報がどのように取捨選択されたか、政策担当者(森・田中・澤柳)の思想を同時代的な視点から把握する意義
・教育会の初期の形態の中に教育“自治”への可能性をみることができるか
・学校規模の拡大傾向との関係で教育会を検討していくことができるか
・教育世論の形成と権威化と事実化にかかわる教育会の歴史的位相の検討(「労働組合法に戦前の権威主義体制からの解放の手段を見出した教員社会は、生活権を中心とする労働者意識の形成と教育問題の専門的検討による教育の権威化の創出という二つの側面を統一的に展開しえたのであろうか」)。
・戦後、教育会の解散・存続をめぐる問題(戦後も存続した信濃教育会、栃木連合教育会の事例)
・北海道の独自性(府県とは異なる地域性-「開拓と連動した教育」)への視点
、などなど。
盛りだくさんだったけど、どれも重要な視点である。

 それと今回もすごかったのが“夜の部”で、「象牙の塔」内部の混乱をめぐる先生方の情報・体験談は、(私の研究生活にも結びついた、容易に身につまされるものであるため、いやそうでなくとも)あまりに鮮烈である(C先生の「ファイル2,3冊」発言には吹いた)。
大学(院)教育改革といいながら、グランドデザインもくそもあったものではない。
改革云々言う前に、まずそれを謳う側が、自己の「主体」としてのあり方・生き方=自己認識を見つめ直さなければ。
うん、なんか前半の話とつながった気がする。
これからの研究生活への「自戒」として留めておこう(笑い)。

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視座の転換を促す「経験」

 新年早々にもかかわらず、休日返上で国際シンポジウム「21世紀アジアの教育改革」のお手伝いに行ってきた。
今回のシンポジウムは、はるばるモンゴルからゲストを招き、教育改革について紹介していただくほかに、現役高校生(=学習主人公)にもご登壇いただくという点で独自性のきわめて高いものであった。あまりに内容が豊富だったので、議論や質疑応答のための時間が足りず、情報を十分消化しきれなかった点が残念。

   ■  □  ■

 6日の高校生の「国際理解教育」をめぐる実践発表は、聴いていて実にうらやましく思った。
自分が高校生の頃に、こういう学習の機会があればと。
実に「すぐれた」実践の報告であった。
指導にあたられた先生方は、教材研究にあたって実に大変な思いをされたと思う。
 自分が「すぐれている」と感心したのは、実践・学習を通して〈世界の「客観的」認識を、どこまでも自分たち「主体」の側のあり方の問題として捉えていこう〉という視座の転換への指向が垣間見え、しかもそれが生徒の側に「自覚」されていたことである。単に他国の人々と文化交流をしようというのにとどまらない、諸々の直接経験を通して、今まで自分自身の生活から切り離された“他人”でしかなかった外国の人々が、自分の身近な生活を支えている“隣人”として認識されるようになる――。
そのような目標を随所に感じ、発表を聴きながら、吉野源三郎『君たちはどう生きるか』や鶴見良行『バナナと日本人』を思い浮かべていた。

 「総合」の時間などを利用した、教科の枠組みを超える体験学習=直接経験を行うと、すぐに“ただ「直接体験」をすれば済むものではない”といった批判が起こりがちだが、その批判は妥当なものではない。
 「直接経験」そのものを問題にするのではなく、その経験の“質”をこそ問い、「直接経験を通して学習者は何を学んだのか」を問題にすべきである。
直接経験から学習者は、単に個人的な感情・態度の変化(「これからは他国の人と仲良くしようと思う」)にとどまらず、例えば「フェア・トレード」などの「客観的」認識にまで結びつく「主体的」思考へと展開しえたか、そこを評価すべきである。

 だから、自分は高校生と先生方に次のような質問をぶつけてみたかった。
(1)「国際理解」実践を通して、自分の日常生活や世界をみる眼にどのような変化があったのか。
(2)報告された特別学習の成果が、教科学習に向かう姿勢にどのように作用したか。

それが明示されれば、上記の評価や“何をもって「国際理解」とするのか”という根本的な問題についての共通理解も可能になったと思う(今回はシンポそれ自体、テーマがいくつも錯綜していた。開催までの裏側を知っているだけに、何とも…。企画側の全責任である)。

 ところで、今回実践発表をしてくれた高校生のみなさんは、見事なまでに全員“女子”だった。いったい男子はどうした。女子に花を持たせたのか、それとも単にだらしないのか(後者だろう)。それとも企画者・T先生の嗜好が露骨に出たのだろうか……。

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変わりゆくふるさと・変わらない価値

 明けましておめでとうございます。今年も本ブログをよろしくお願いします。
 今年は、「わからないこと」に謙虚に向き合い、自己認識をしっかりと持ち続ける一年にしたいと思います。 

   ■  □  ■

 大晦日は、栄養補給のために実家に帰省。しばしの休息をとってきた。
実家は福島県のいわき市にある。
久々に戻ったのだが、いわき駅および駅前の風景が再開発のために大きく様変りしていて、驚いた。
「ラトブ」という新駅前ビルが完成していた(2007年10月オープン)。「文化と商業の複合施設」――図書館・文化施設と商業店舗が一つの建物内に同居する――という、ユニークな施設である。
旧駅ビルも改築して駅前全体がリニューアルしていく予定とのこと。
 さらに、旧平市民会館の跡地には、いわき芸術文化交流館(アリオス)という、これまた立派な建物ができあがっている(本年4月オープン、HPはコチラコチラ)。
シンボルマークのデザインを作成したのは、米米CLUBの石井竜也氏とのこと。
娯楽だけではなく、文化・芸術の面に踏み込んで一手を打ったのは、なかなか思い切った作戦だと思う。
果たして採算がとれるかどうか、企画次第だろう。
ハードは見違えるほど立派になった。ソフトに期待したい。
個人的には、このあたりの「文化交流ゾーン」には、多くの思い出があるので応援したい。
旧平市民会館では、小林研一郎指揮のオーケストラ(ハンガリー舞曲第5番を生で聴いた)や劇団飛行船に存分に魅了されたし、ほかにも市立美術館でキース・ヘリング展やロバート・キャパ展をみて驚嘆したり、市文化センターで映画鑑賞やコンサートを楽しんだりと、たくさんの思い出が残っている。
とくに〈学校〉を通して、これらの文化・芸術施設を大いに活用させていただいたという印象が強い。
合唱・合奏コンクール、美術展、芸術鑑賞会など、記憶は鮮やかである。
非常に価値のある機会だった。
そういう機会は、後の世代にも変わらずに開かれていてほしい。

 地方交付税が削減され、今後ますます地方の疲弊が不安視される中、新施設を軸とした事業が地域の若者の雇用確保にもむすびつき、さらに教育・生涯学習にとっても有益なものとなり、そして、最終的には地域の活性化につながっていくことを願う次第である。

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