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視座の転換を促す「経験」

 新年早々にもかかわらず、休日返上で国際シンポジウム「21世紀アジアの教育改革」のお手伝いに行ってきた。
今回のシンポジウムは、はるばるモンゴルからゲストを招き、教育改革について紹介していただくほかに、現役高校生(=学習主人公)にもご登壇いただくという点で独自性のきわめて高いものであった。あまりに内容が豊富だったので、議論や質疑応答のための時間が足りず、情報を十分消化しきれなかった点が残念。

   ■  □  ■

 6日の高校生の「国際理解教育」をめぐる実践発表は、聴いていて実にうらやましく思った。
自分が高校生の頃に、こういう学習の機会があればと。
実に「すぐれた」実践の報告であった。
指導にあたられた先生方は、教材研究にあたって実に大変な思いをされたと思う。
 自分が「すぐれている」と感心したのは、実践・学習を通して〈世界の「客観的」認識を、どこまでも自分たち「主体」の側のあり方の問題として捉えていこう〉という視座の転換への指向が垣間見え、しかもそれが生徒の側に「自覚」されていたことである。単に他国の人々と文化交流をしようというのにとどまらない、諸々の直接経験を通して、今まで自分自身の生活から切り離された“他人”でしかなかった外国の人々が、自分の身近な生活を支えている“隣人”として認識されるようになる――。
そのような目標を随所に感じ、発表を聴きながら、吉野源三郎『君たちはどう生きるか』や鶴見良行『バナナと日本人』を思い浮かべていた。

 「総合」の時間などを利用した、教科の枠組みを超える体験学習=直接経験を行うと、すぐに“ただ「直接体験」をすれば済むものではない”といった批判が起こりがちだが、その批判は妥当なものではない。
 「直接経験」そのものを問題にするのではなく、その経験の“質”をこそ問い、「直接経験を通して学習者は何を学んだのか」を問題にすべきである。
直接経験から学習者は、単に個人的な感情・態度の変化(「これからは他国の人と仲良くしようと思う」)にとどまらず、例えば「フェア・トレード」などの「客観的」認識にまで結びつく「主体的」思考へと展開しえたか、そこを評価すべきである。

 だから、自分は高校生と先生方に次のような質問をぶつけてみたかった。
(1)「国際理解」実践を通して、自分の日常生活や世界をみる眼にどのような変化があったのか。
(2)報告された特別学習の成果が、教科学習に向かう姿勢にどのように作用したか。

それが明示されれば、上記の評価や“何をもって「国際理解」とするのか”という根本的な問題についての共通理解も可能になったと思う(今回はシンポそれ自体、テーマがいくつも錯綜していた。開催までの裏側を知っているだけに、何とも…。企画側の全責任である)。

 ところで、今回実践発表をしてくれた高校生のみなさんは、見事なまでに全員“女子”だった。いったい男子はどうした。女子に花を持たせたのか、それとも単にだらしないのか(後者だろう)。それとも企画者・T先生の嗜好が露骨に出たのだろうか……。

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