« 2008年1月 | トップページ | 2008年3月 »

ハウスクネヒトさんの中等教員養成改革

 寺﨑昌男・竹中暉雄・榑松かほる『御雇教師ハウスクネヒトの研究』(東京大学出版会、1991年)を読む。
 タイトルからしていかにも硬派な教育史研究書だが、「大学における(中等)教員養成」という現代的な文脈を考慮に入れると俄然おもしろく読めてくる。
 ハウスクネヒト(Emil Hausknecht, 1853-1927)というと、帝大「教育学」の萌芽期を支えた張本人であり、何より「ヘルバルト主義の初等教授理論の紹介者」として位置づけられている。ところが、それは結果からみた一面であって、そもそも彼が意図していたものではなく、彼本来の課題は「(総合)大学における中等教員養成」にあったという(彼が来日した時期のドイツが、まさに、教員養成といった実践的目的をもつ教育学ゼミナールをアカデミックな大学内に設けるべきか否かという論争のただ中にあった。大学内の教育学ゼミナールの本格的な設立は、ケニヒスベルク大学のヘルバルトの手をもって嚆矢とされる)。「むしろ中等教育の教育課程論や内容論においてヘルバルト派の見地が存分に発揮されている」(177頁)というのが実相であったが、彼の「総合大学における中等教員養成」構想が戦前の日本において十分に実現しなかったため、ヘルバルト主義教授法の紹介者としての側面が強調される結果になったというわけである。彼の構想は実にしっかりしたもの(教育学ゼミ、国家試験、就職後一年の見習期間など)で、資格制度すらもたなかった当時日本の中等教員養成にとって画期的な提案だった。結局、総合大学での教員養成は戦後アメリカの手によるまで実現はしなかったわけだけど。「大学での教員養成」をめぐる近代ドイツでの議論について、もう少ししっかり調べてみたい気にはなる。
 
 それにしても、彼のヘルバルト教育学についての理解も、相当に深かったことが窺える。 
 ハウスクネヒトの教授は、訓育的教授論・教科編成論の理論的教授だけにとどまらず「一つの教材をどのようにして形式段階を用いて展開するかを、具体的に教えた」(83頁)。「ハウスクネヒトはライン、ツィラー両方の五段階用語を伝えるとともに、形式段階を用いた教案の作成まで、詳細に指導していた。さらに、教授上の諸注意ともいえる微々なる点まで教えた。……要するに、ハウスクネヒトが伝えた訓育的教授論は、その理論、教科構成・教科論、五段階教授法、形式段階による教案作成、生徒指導に及んでいた。しかも、きわめて、実践的な内容を含んでいた」(84頁)。
 ヘルバルト教育学についての非常に深い理論受容である。彼は、単に理論を理論として受け止め、紹介するのではなく、ヘルバルト教育学と同質の実践を自ら生産しながら指導していた。実践の生産が可能なかたちで理論を受容していたのである(ヘルバルトの理論に基づけばこのように実践をつくることができると)。これは当たり前のようでかなり難しい。そういう仕方で理論を受容していない場合がほとんどではないか。今の教育学者も見習わなければならない理論受容のかたちだ。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

そろそろ自重しないと

 先週は所属する居合道団体の総会(懇親会)であった。若い雰囲気に押されて、ぐびぐびいってしまったけど、やっぱりいけなかったね。翌朝の具合の悪さといったら大変なものだった(どんな惨状が繰り広げられたか、会員の皆様のご想像におまかせします)。
 振り返ると正月に実家でちびっと飲んで以来、一滴も飲んでいない。そこへ地酒も飲み放題ときてしまっては、かなり歯止めがきかない状況になる。しかも三次会まで行ってしまってはなぁ。三次会はどこへ行ったんでしたっけ(それぐらいのやばさです)。いや、そもそも三次会に行くことって、この会ではあまりない。鷺足ならぬ、千鳥足で帰路につく自分の姿を傍からみたら、完全におじさんだったことだろう。
 飲んでる最中にはまだ大丈夫でも、筋肉痛のように、影響はしばらく経ってからジンジンとやって来る。なんか昨年も同じ思いを味わったと思うのだが、この点ではまるで成長していない。何だか今年一年の自分を予言しているようで、非常に不安ではある……。
 もうちょっと自分の身体について意識しないと―、そう反省しつつ、性懲りもなく、来年もまた同じ事を繰り返すのだろう。

 さて、今日は学部入試二次のお手伝いである。もう何年目になるのだろうというくらい、かなり長い期間にわたってこの補助作業に関わり続けている。
 今朝のニュースだと、今年はなにやら雲行きが怪しそうだが、どうなるか……。行って来ます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

信濃教育会~戦後への連続~

 前回、信濃教育会(信教)について触れたので、メモをもう少し。 
 「教育会の戦後への連続・断絶」は、現在教育会研究の一つの論点となっているところである。
 これまで教育史研究において「教育会」は、戦前教育行政の「翼賛団体」として(消極的に)評価され、[戦前-教育会]→[戦後-教員組合]の流れが必然的なものとして捉えられてきた(結果的に、日本近代教育の普及・展開に果たした教育会の歴史的役割はきちんと顧みられてこなかった、というのが研究会の問題意識の一つだと自分は理解している)。
 そのような枠組みでみると、信濃教育会はきわめて特異な存在に映る。
 信教は職能団体としての活動とともに、人事行政にも積極的に関与していた。
したがって、M川先生が1月の研究会で指摘したように、教育会=職能団体と教員組合=労働権・生活権保護交渉団体という分化が困難な歴史的条件を信教はもっていた。
 その信教でも存続か解散かということが、戦後大きな問題になった。
 しかし、占領下、長野軍政部による県教組と信教の「二本立て」指示のもとで決着がつけられたとみられている。その背景には軍政部による県教組への強権的介入(→弱体化)と、信教への一本化の思惑があった。そして、県教組による抵抗運動の一方で、信教は、占領行政への一体化のなかで「政治的復権」を成し遂げたといえよう。
 以後、信教は、自らの存在意義を専門家集団(=職能団体)としての教育世論の形成や、専門性に基づいた、官僚制への抑圧機能(官僚行政からの自由)におくとともに、「教員ギルド」と批判される側面も持ち合わせていくことになる。ここに「ガバナンス」という現代的論点が浮かびあがってくる…。そのような枠組みでみてよいのではないか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教育県検証~長野~

■「教育県 検証(1) 改革に着手 信濃教育会」『YOMIURI ONLINE』2008年2月13日。

■「教育県 検証(2) 進学率アップ 道半ば」同上、2008年2月14日。

 実は先週、記事を執筆した記者の方から、(本ブログを経由で)信濃教育会(以下、信教と略す)について質問を受けたところだった(教育情報回路研のエントリに信教の名を記したことが原因。いったい、誰が見ているかわからない。すだっちが言うように「ブログの裾野は広い」)。K山先生にも聞いて頂きたいといったので、先生のところにも連絡が回ったと思う。それにしても、うまいことまとめるなぁ。
 記事では「教育県」再興をめざした、信教による教員現職研修の新たな試み(信濃教育会改革)が紹介されている。

 記事で触れられているが、長野世論調査協会が行った調査(1999年)で「長野県は教育県だと思わない」が65.8%に登り、「大学進学率の低さ」と並んで、理由の一つに「信濃教育会が指導力を持ちすぎ」(16.9%)とあることに驚く。こんな指摘は他県では考えられない。
 長野県民における信教へのまなざしとはどんなものなのか。知りたくなってきた。正直今までは教育史研究の一対象としてしか見ていなかったが、この教育会は今日まで続いているわけで、Web上には、信教のHPはもちろん、信教をタネにした関連ページがいくつか確認できる(例えば、元新聞記者の方が綴った体験談「『教育県・長野』はどこへゆく」『ペンの旅・わが半生』)。そんな話題をもつような教育会は他にはないだろう。

       ◇

 長野が「教育県」だと言われてきた背景には、明治期の「高い就学率」(=近代教育普及の模範的存在)や大正自由教育の展開などを含め、教育・文化に対する県民の高い関心があったと言われてきた。
 だが、「教育県」の指標は、時代の移り変わりのなかで変遷を遂げていると考えている。とくに、戦後は「学力」(=進学率)が強固な指標となっており、また、その向上をめざすスローガンとして用いられてきた傾向にあるのではないか。あるいは「教育県」指標・言説には、その時代における人びとの教育観や学校観、あるいは社会の問題が刻みこまれているのではないか。質問を通して、そんなことを考えるきっかけをいただいた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

[木ログ]手塚岸衛・自由教育文庫

こんなのを見つけた。

■『千葉大学 手塚岸衛・自由教育文庫 目録』2005年。

 ―手塚岸衛・自由教育文庫について

 ―大正新教育と千葉の自由教育
  

一昨年前に、「大正の自由教育と千葉」と題する展示が同大学附属図書館で行われた様子。
 文庫目録がPDF化されてダウンロード可能、というのはうれしい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

企業の論理による言論の抑圧

 社会はそこまで倒錯したか、という思いを強くせざるを得ない。
日本教職員組合の教研集会・全体集会「会場使用拒否」をめぐる問題である。

■「日教組、全体集会実施困難に ホテル会場『他企業使う』」asahi.com、2008年02月01日。

■「日教組 全体集会を中止 プリンスホテル 高裁の使用命令拒否」『東京新聞』(Tokyo Web)、2008年2月2日。

■「教研集会:全体集会初めて中止に ホテル側の開催拒否で」『毎日新聞』2008年2月2日。

 国家による強力な統制とは異なる、民の非協力、迎合といったかたちでの言論の抑圧をみせつけられるとは思わなかった。
暴力による言論の「弾圧」とそれに荷担する企業、という構図が当て嵌まる。言論抑圧の具体的な姿を垣間見た。
「全体集会で民間ホテルの会場使用を予定したのも初めて」というから、組合の側にも不手際があったのかもしれない。とはいえ、ホテル側の対応は、「卑近な商業主義」と批判されても仕方のないものである。
産経をのぞく大手三紙(読売、朝日、毎日)の社説はいずれも、今回のホテル側の対応を批判している。言論の自由に関わる問題であるだけに、当然の対応だろう。

読売「ホテル使用拒否 司法をないがしろにする行為だ」2月3日
朝日「教研集会拒否―ホテルが法を無視とは」年2月2日
毎日「社説:会場使用拒否 言論の自由にかかわる問題だ」2月2日

 司法の判断より企業の論理を優先させた「グランドプリンスホテル新高輪」の文字は、深く刻みこんでおく。これが大きな問題への予兆である可能性は、ゼロではない。
 ほとんど換骨奪胎されてしまい、労働組合的性格の面でも、専門職的指導性の面でも、もはや大きな影響力たり得てないにもかかわらず、それでも叩かれる日教組というのは実に不思議な存在である。ここまで来ると、むしろ右翼や批判者は組合を愛しているんだなといわざるを得ない(それが、「亡霊」であるにもかかわらず)。

【追記】2008年2月11日
株式会社プリンスホテル(2月5日)
http://www.princehotels.co.jp/kouhou/pdf/20080205kumiai.pdf

 虚偽だらけの釈明で、実に言い訳じみている。本来、(日教組への)謝罪文の体をなしていなければならないのに、それがみられない。

(1)
「右翼団体等からの圧力は一切なく、右翼団体等をおそれて解約したのでも決してございません」。
いや、おそれたのだ。「右翼団体等」が念頭になくても、契約を解約したというのか。だったら、なおさら問題だ。

(2)
 相手が暴力団ならともかく、「他のお客様に多大なご迷惑がかかる」といって、ある一人のお客様(=日教組)を排除するのは、接客のあり方として杜撰である。
会場使用を一方的に解約する代わりに、別の会場使用の手続きをとるといったフォローをホテル側は行ったのか。尋ねてみたいところである(「主催者側には他の会場を探す時間もあったのではないでしょうか」などという文言からは、そのようすは見えてこない)。
仮にしていたとしても、客の意向に添えなかったのだから、接客対応としては問題だ。ホテル側の器量が問われた問題だった。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

« 2008年1月 | トップページ | 2008年3月 »