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「学園ドラマ」と学校化社会

 ここ最近(といっても数年だろうか)、「学園(スクール)」を舞台としたドラマがやけに多いことに気付く(「花ざかりの君たちへ」「ライフ」「鹿男あをによし」「ごくせん」「ROOKIES」等々)。ドラマティックな展開の舞台が学園内でなくとも―いやむしろそちらの展開が多いのだが―、登場人物間のつながりはほとんど学校をハブとしている。また、「学園」の範囲も最近だと大学にまで拡大している印象を受ける(「のだめカンタービレ」「ハチミツとクローバー」)。もちろん、学園ドラマといえば昔からの定番ジャンルではあるが、それでも最近は飽和感を否めない。なぜだろうか。

 このギモンに対して考えられる解答はおそらく次のようなものだろう。
 1960年代の高度成長以前、青少年は学校内の同年齢集団(=〈学級〉)のみならず、学校外の多彩な異年齢集団にも属し、双方に関わりを持っていた。ところが、高度成長がはじまり、農村から都市への流入が加速すると、伝統的に地域共同体が持っていた紐帯は弱体化し、学校外の異年齢集団の存立を支える社会的基盤もまた消失してしまった。その一方で、学校だけは、制度としてそのまま存在し続け、同年齢集団への、青少年の集団帰属意識は一層強くなった。そして、人々の共通の経験的前提と言えるのは、学校以外にはなくなった今、(視聴率を重視する)テレビドラマの舞台として設定される状況が頻出している―。 
 日本中羽振りがよかったバブルの時代であれば、消費文化が共通の経験的前提となって、それを漏れなく織り込んだ「トレンディ・ドラマ」が高視聴率をとりつづけた。だが、バブルが終わり、「格差」の顕在化が問題視される状況になると、もはや共通経験として共感を得やすい舞台となるのは学校以外には残らなくなってしまった―。

 このように見るならば、日本国民の経験において「学校教育」の占める割合の強さが推察される。
そして、社会からの正当な評価を得る機会が学校体験のみに限られるとき、社会は学校に全面的に依存する「学校化」の様相を強くする。過熱する学校バッシングや教育改革論議の現状と同様、「学園ドラマ」の隆盛もまた、学校的価値を過度に重視する「学校化」の一面を映し出しているのではないか―と思ったり。

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ムムムム

 日曜日は、福島市で居合道の大会に参加。
力を出し切るも、あえなく初戦敗退。またしても一本に泣く。
身重のあおぎんぐさんの言葉を拝借すると、「若さ」にやられたといったところ。
もっともそれでは身も蓋もないが、剣の「勢い」に負けたとは、上位進出者の演武を見ていて思った。
要するに、日頃師匠に注意されていることが敗因である。今回の指定技が、その「勢い」の点でとくに師匠から指摘を受けていた六本目「諸手突き」だったから尚更だ。試合を見ていてくれたすだっちは「あそこで差がついた」と評価してくれた。
 さて勉強にはなったものの、改めて明確になった課題を前に、「有意義だった」というより、その「遠い道のり」に戸惑っているというのが現状だ。ただ、「勢い」のある演武とはこういうものだ、という具体的なイメージをつかむことはできた。いろいろな居合をみて、視野を広げられるのが、大会のいいところだ。
 とりあえず、毎日の素振りと筋トレ(ちょっとずつ)。それを自らに課すことで試行錯誤していくことから始めたい。「生活習慣」から変えると帰路の途中に反省したのは、そういうことです。

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悉皆調査に起因する問題

■「学力テスト前に類似問題  滋賀県教委、活用促す」共同通信、2008/04/18。

 22日に実施される第2回「全国学力・学習状況調査」(全国学力テスト)を前に、滋賀県教育委員会が第1回テストをもとに類似問題を作ってホームページ(HP)に掲載し、市町教委に活用を呼び掛けていたことが18日、分かった。
 文部科学省学力調査室は「普段の授業に活用するのはいいが、テスト対策だとすれば問題だ」と指摘。県教委は「学習の質を高める取り組みの一環で、事前対策ではない」と説明している。
 県教委などによると、2月27日に県総合教育センターのHPに問題と答えを掲載。第2回テストに向け、市町教委担当者を集めて今月9日開いた説明会では、同センターが利用するよう呼び掛けたという。
 問題と答えだけで、教師が指導する際のポイントや生徒が問題を解く場合の注意点などは示されていなかった。県教委は「細かなフォローを掲載するなど配慮が足りなかった」としている。

 悉皆(全数)調査であることに起因する問題の一つがここにあるといえる。
日本に根深く存在する―競争的学力観ともいえる―教育観の貧しさが垣間見えるようだ。
先日も、一部の自治体で、全国学力調査の平均点を「学校ホームページでの、その学校の平均点の公表」という形でその自治体内の全学校で公表し、事実上学校の序列化が可能になっている現状が明らかとなった(「全国学力調査、透けるランキング 各校HPで結果公表」asahi.com、2008/4/11)。
 都道府県や住んでいる場所で有意な差異はない、というのが昨年度の調査をふまえた文部科学事務次官の見解だったが、地域の側はどうして数値化にこうも敏感になるのだろう。ヨコ並びの競争意識が好きなのは、何も教育の領域に限ったことではないが、元気のある地域はたいていそんなヨコ並び意識から脱却した独自の「まちづくり」をしている。

 まあ、ぜひ滋賀県には一位を獲ってほしい(そうなれば、この学力調査の価値が著しく下がるだろう)。

 ちなみに、昨年度の全国学力調査の結果を受けて、各地では学校改善支援プランに取り組んでいる。
例えば、茨城県教育委員会による「茨城県学校改善支援プラン」など。これを、全都道府県・主要都市について調べてみると、何か発見があるかもしれない。滋賀県の対応と五十歩百歩な自治体が多々あるとか。

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懲りない「心」の評価

■「子どもの道徳心を偏差値化 各地の小中学校でテスト」asahi.com、2008年04月10日14時19分

 子どもの道徳心を検査し、偏差値や5段階評価を示す業者テストが全国の小中学校で実施されている。テスト結果を受けて教師に渡される各児童・生徒の個人診断票には「重点指導項目」として「愛国心」「郷土愛」などが記される。今年3月に文部科学省が公表した改訂学習指導要領には道徳教育の目標に「我が国と郷土を愛し」という文言が加わったが、道徳の数値評価は「行わない」とされている。それだけに、保護者からは「先生がテスト結果をうのみにして生徒を色眼鏡で見るようになってしまうのではないか」などと不安視する声も上がっている。

 「偏差値30」
 今年に入って、福岡県内に住む小学生の息子(10)の母親は、本来教師が持っている道徳テストの個人診断票を偶然知り、驚いた。道徳心の5段階評価は「1」だった。
 テスト結果の評価コメントには、重点的な指導が必要な項目として、順に「愛国心」「勤勉努力」「自立節度」「郷土愛」などが挙げられていたという。母親は「子どもの心を数字で表すことはできないはず」と不信感をあらわにした。
 このテストの発行元は図書文化社(東京都)。同社によると、テストは「道徳教科の理解度をみる」のが目的で、90年度から販売している。偏差値などの数値評価は「子どもの到達水準を知りたいという現場教師の要望で付属資料として出している」が、いつからなのかは「答えられない」という。
 同社のテストは、小学生用や中学生用などがあり、約30~50問を選択式で回答する。例えば、中学生用では「寺の壁の落書きを見て、どんな気持ちになるか」などの設問がある。ただし、日の丸・君が代に関する設問は含まれていない。
 昨年度は全国47都道府県の小学校約1200校、中学校約1100校の児童・生徒約38万人が同社のテストを受けた。各都道府県ごとの児童・生徒数は「企業秘密に属する」として公表していない。
 福岡県内では、小学校46校、中学校5校で実施された。検査価格は1人430円で、自治体が予算を組んで購入することもあるという。このうち、文科省から道徳教育研究授業を委嘱されている大木町では、町立小中学校の全児童生徒約1300人を対象にテストを実施。経費約57万円は町が支出した。「子どもの力がどれだけ伸びたのか、研究授業の成果を判断するデータを取るため」(同町教委)だ。
 同社によると、道徳テストはほかにも複数の業者が作成し、全国で実施されているという。
 文科省教育課程課はこうした状況について「道徳テストが実施されていることは確認しているが、数値評価が行われていることは知らなかった」とコメント。ただし、「道徳は改訂学習指導要領でも『数値などによる評価は行わないものとする』としており、偏差値や5段階評価はなじまない」と指摘した。
 同社は「改訂学習指導要領に基づき、新版をつくる予定」で、「結果(数値評価)の示し方についても検討する」と話している。(白石昌幸)

 まず、文章にある「道徳教科」というのは間違い。道徳は「教科」領域には位置付いていない。出版社の人はほんとにそう答えたのだろうか。

 さて、「また(福岡)ですか」というのが率直な感想である。
なぜなら、同様の記事が―やはり朝日新聞だが―以前にもあったからである。
2003年5月3日の同紙に
(1)「通知表に『愛国心』、広がる 小6社会科11府県172校盛る 本社調べ」、
(2)「子供の心まで採点(「愛国」の陰で①) 『元寇、君ならどうする』 討論授業が『将来の模範」』」

と題する記事が載っている。
「国を愛する心情」など愛国心を通知表での評価に含めた学校の数で、福岡市は63校と圧倒的に多かった。
 以下、(2)の記事からの引用。
「市内の小学6年生のある担任教諭は、最初に通知表の文案が示された1学期の職員会議でこの文言に気付かなかった。当時の最大の関心事は、本格導入された総合学習の評価をどうするかだった。(中略)気付いた後、評価をどうするか同僚と話し合った。結論は、「子どもの愛国心は評価しようがない」。2学期以降は児童の評価を3段階(ABC)のBにそろえた。」
 結局、愛国心評価の実態なんてこんな程度だ。「国を愛する」という言葉(徳目)に一定の解釈を当て込んで、子どもの思考を硬直させることはできない。特定の徳目解釈に現実を当てはめようとすると無理が出てくるし(「水からの伝言」はそのいい例)、現実には徳目同士が対立するケースがザラにあるからだ。子どもはその矛盾を的確に衝く。困るのは教師だ。だから、上記のように「事なかれ主義」になる。

 そもそも、道徳とは社会のある具体的状況においてどのような意志決定をするかという「行為」の問題に帰着するものであり、「心」の問題に還元されるべきではない。
 「寺の壁の落書きを見て、どんな気持ちになるか」とテストの設問があるというが、「気持ち」なんてどうでもいいから、「落書きをなくす」ためにどう工夫するのがよいかを、独自の工夫を行っている実践例などの事実をもとにして議論をするほうがはるかに有意義だろう。そして、それを「道徳的だ」といちいち段階的に評価できますか? 

         ◇

 それにしても、ここにも商業主義の影響が……。

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恐るべき「善意」

 斎藤貴男「緊急ルポ プリンスホテルの恐るべき『善意』 ルーティンワークが自由を殺す」『世界』2008年4月号(no.777)を読む。じつに刺激的な論考だった。例の、グランドプリンスホテル新高輪による、日本教職員組合の教研集会・全体集会「会場使用拒否」問題についてのルポである。最近の映画『靖国』上映中止問題にも見られるように企業の「事なかれ主義」が顕在化している昨今、このルポを読んで問題の深刻さを痛感せずにはいられなかった(ホテル側の会見の様子を読んでも、日教組を顧客としてすら扱っていない差別的対応がうかがえる。「ホテル・ルワンダ」とは大違いである―と思ったら、すでに内田樹氏が『ホテル・ルワンダ』を取り上げつつ同問題を論じていた)。

 ホテル・会場の位置や敷地などをインターネットを経由して見ながら、ホテル側の説明「受験シーズン」「周囲に迷惑がかかる」がどうにも腑に落ちないでいた。ルポの次の文章は、その「善意」の疑わしさを明確に衝いている。

プリンス側の言い分そのものも、疑わしくないか。会場周辺もプリンスホテルの広大な私有地なのだから、警察はむしろ有効な警備態勢が敷きやすい。万が一にも病人や受験生に被害を及ぼして、本気で警察の面子を失わせたらどういう報復が待ち受けているのかを、街宣車の主たちはよく知っている。
 しかも会場の目と鼻の先にはロシア通商代表部が立地していた。ということは、日教組側は後になって知ったことだが、この一帯は「国会議事堂周辺地域及び外国公館等周辺地域の静穏の保持に関する法律」によって拡声器の使用が禁じられている。だからこそ、自民党は例年グランドプリンスホテル新高輪で党大会を開くのだ。福田康夫首相が今年一月一七日、“生活重視”の党運営を打ち出したのも、この場所だった。(75-76頁)

 しかも「この種の出来事が、二〇〇八年の日本には珍しくない」(76頁)として、「DV防止講演会を中止したつくばみらい市」の問題なども挙げられている。斎藤氏の最後の指摘が、不気味に響いてくる。

今回の事件がヒントとなって、反権力的な集会や会合を容易に潰すノウハウが確立されていく危険も小さくないと思われる。彼らだけを笑う資格が、しかし、現代の私たちにあるのだろうか。(82頁)

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懲りない強迫「愛国心」

■「新学習指導要領:総則に「国と郷土愛する」、異例の修正--きょう告示」『毎日新聞』2008年3月28日。

 文部科学省は28日、2月に公表した小中学校の新学習指導要領改定案の総則に「国と郷土を愛する日本人を育成する」という文言を新たに盛り込み告示する。改定案公表後に総則という基本的な考え方を修正するのは極めて異例。文科省は「パブリックコメント(公募意見)などを踏まえ修正した。改正教育基本法の趣旨をより明確にする意見を取り入れた」と説明している。
 文科省によると、改定案公表翌日の2月16日から1カ月間、電子メールや郵便で意見を受け付け、5679件が寄せられた。「国を愛する心について総則に明記すべきだ」などの声があり、国会での議論、与党部会とのやり取りなども加味して修正したという。
 音楽で「君が代を指導する」が「君が代を歌えるよう指導する」になるなど軽微なケースも含めると、修正は181カ所(同様修正の重複除く)あった。
 改正教育基本法(06年12月成立)には「愛国心」表記が新たに盛り込まれた。新学習指導要領改定案では、愛国心について総則にはなかったが、国語や社会、道徳の部分で触れていた。文科省は「道徳の内容は教育活動全体を通じて行うと定めており、考え方は(総則に示しても)同じ」と説明している。
 新学習指導要領は、学力低下の批判などを受け、主要教科と体育の授業時間を約1割増やしたほか、学習項目など内容も理数を中心に約40年ぶりに増やした。【加藤隆寛】

◇「基本法改正の趣旨が生きる」--文科相
 渡海紀三朗文部科学相は27日、「総則に(愛国心を)書いた方が教育基本法改正の趣旨が生きるとの意見があったので(修正を)判断した」と説明。「バランスを欠く意見は排除したつもり」と述べた。
 公募意見の過半数が50代以上だったことには「子を持つ世代から意見をいただくのが理想だが、たまたまそうだった」と話した。

  ちょっと前のニュースだが、チェックしておかざるをえない。
 こういう「異例」なかたちで学習指導要領の方針が変わることもあるという勉強になった。まあ、最後は審議会も何も関係ないということだ。ただ、過去にこんな例があっただろうか。
 「パブリックコメント(公募意見)などを踏まえ修正した」というそのパブリックコメントの概要は、こちらでみることができる。が、そのような要望がどの程度あったのかは資料からは判断できない。タウンミーティングでの「やらせ」の先例があるから、なおさら素直には受け取れない。
 
       ◇
 
 そもそも、こんな措置によっても愛国心が育たないことは確実である。一部の自慰的愛国者の下品な自己満足感からの圧力があったと受け取っておこう。こんな発想でしか「教育改革」が行われないのだから、「学力低下」が起きても何ら不思議ではない。

 普通に考えれば、愛したい国や社会があって、それへの感情が自然と内面裡に湧いてくるというのが愛国心であって、そもそも「教える」という質のものでないことは容易に理解されるだろう。愛郷心もまた然りである。
 要するに、まず問題とすべきは個々人が愛したい・守りたいと思うような国・社会のほうである。国・社会について学んで、そこから個々人がどのような影響を受け、意志決定を行うかということは、各人の自由だろう。
 ところが、政策の現状は、社会的負担の増加などリスクが個人化される不安定な社会状況を強いておきながら、モラルの低下へと論点をずらして不安をますます煽り(しかも「自己責任」論の立場から)、特定の感情(「愛国心」)へと誘導する、じつに倒錯したものである。そのうえ、愛国心の無理強いのためなら、簡単に歴史も修正するし、ニセ科学でも何でも道徳に利用できるものは利用してしまう。
 教師には「愛しなさいよ。それが当然でしょ!」と言って脅迫する典型的ダメ親か、ストーカーまがいの詐術を強いるということになる。だから、こういった問題が教師のモチベーションを著しく下げるのではないかと危惧する。
しかも、その発想で行動を縛る(「君が代を歌えるように」)というのだから、ほとんど子どもをペット扱いである。
 これが言い過ぎだとしても、あまりに独善的で、内向きな発想であることは確かだ。いいかげん「こっちの心の事なんかほっといてくれ」と言いたくなってしまう。

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稽古の春

 居合の春―。仙台錬武会の第3回一日稽古会に参加してきた。出席者が多く、にぎやかで活気に満ちた楽しい会だった。稽古には実にイイ季節である。それに業の課題を貴重な土産として持ち帰ることができた(ついでに先生がハーレーにまたがった姿もスクープ!camera)。いろいろと下準備を行ってくださった事務局に深く感謝申し上げます。会場の確保から資料の作成までいろいろと大変だったはず。おかげでくたくたになるほど充実した一日だった(6、7時間も刀を振っていればさすがに応える。基礎体力の強化も目標に入れないといかんか)。

 自己紹介のときに再認識したのだが、自分の居合歴も、はや7年目に突入しようというところ(県連のサイトに寄稿した「居合のすすめ」が26歳のときだって。)にきた。よく続けてきたという達成感の一方で、妙な虚しさも感じるのは春(なのに変わらない自分という問題構図がある)だからだろうか。

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