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二宮金次郎像覚え書き

Kinjirou_2

以下は、しばらく前に書いたメモ。拙いです。
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  薪を背負い、手には本、それを読みながら歩くというお決まりのポーズ――。写真は、仙台市のある小学校に設置されている二宮金次郎像(石像)である。日本の学校ではおなじみだ。
 学校の隅にひっそりと佇んでいて、時に「学校の怪談」のネタにされたり(目が光るとか、歩き出すとか)もしたが、そもそもどうして金次郎像は学校にあって、銅像もしくは石像の定番として定着しているのか。
 
 二宮尊徳(金次郎)が学校教育と結びついた大きな理由として、国定修身教科書の教材として取り上げられた点が挙げられる。教科書が国定となった明治37(1904)年以降、二宮金次郎は修身教科書に登場する主流な人物の一人であった。尋常小学校の修身教科書では、彼の少年期の生き方が子どもたちの育つモデルとして取り上げられることとなった。「金次郎」の定番イメージは、まず、この教科書というメディアを通して全国に普及したといえる。
 日露戦争後の日本は物心両面で頽廃が進行し、問題への対応策として、例えば内務省は地方改良運動というかたちで、学校を「教化ノ中心」とした国民教化運動を展開していた。国力増進のために資金を国民から調達すべく、倹約と貯蓄が奨励された。それゆえに、修身科における金次郎の実直な生き方は、この時代を生きる格好のモデルとなった。
 さらにいえば、明治政府が尊徳を尊重したのには、百姓一揆の方法をとらず、決して政治を口にせず、農民自身の勤勉と倹約によって、農村の矛盾を解決した点が大きく作用している。勤勉と倹約を強調して農民の生き方を教える尊徳の態度は、施政者の側からすれば都合のよい人物であり、農民騒動をおさえこむ役割を果たすものだったといえる。
 だが、教科書に取り上げられた尊徳教材については、彼の出身地である神奈川県から、尊徳その人の実像を伝えるものではないという批判が寄せられていた。尊徳教材には多くの誤りがあり、事実ではないことが、現地の人たちから指摘されていたのである。
 この点と関わってとくに注意しなければならないことは、国定修身教科書が、いずれも貧困と悲惨な少年時代の「金次郎」のみを扱い、成人後の「尊徳」像を排除していることである。縄をない、ワラジをつくり、薪をとって売り、荒地を開拓したという勤労と倹約によって、後に「えらい人」になったと教科書は教えるが、その成功の秘密は語られることがない。金次郎の立身出世の方法の真髄とは、合法的免租であったが、修身教科書はこのことを決して教えなかった。あくまで、該当徳目(勤勉、倹約)に沿う形で尊徳を取り上げ、該当徳目を体現した模範的人物としての偉人化が図られた。それが「金次郎」の銅像ないし石像におけるお決まりのポーズへと結実していくことになる。

 金次郎像が広く普及するのは、実際には、この時期より下って昭和恐慌後の1930年代から。学校教育の文脈ではなく、むしろ農山漁村経済更生運動の展開にともなってであった。この時期に至って、金次郎は単なる少年の「手本」の範囲を超えた、いわば疲弊した農村経済の更生を支える教化運動のイメージ・キャラクターとして再登場することになった。
 像の普及は富山県の銅器製造業者たちが不況脱出のために金次郎の銅像を販売した系譜と、愛知県岡崎の石屋たちによるものとがあった(まさに報徳運動が突出して盛んだった二県)。彼らは全国小学校長会に実物を持ち込んだり、文部大臣を賛助会員とする「二宮尊徳先生少年時代之像普及会」を組織したりして営業活動を展開した。ちょうど金次郎生誕一五〇年(昭和12年)、皇紀二六〇〇年(昭和15年)というイベントと重なり、それを好機としてよく売れた。地元の学校に金次郎像を寄付するのが流行った。国にとってはいわゆる満州事変が始まるなど戦費調達のために勤倹や貯蓄の励行が求められる時期でもあり、毎日少国民に語りかける金次郎像の効果は大きかったといえる。
 昭和16年の金属類特別回収令によって、銅像のほうは校庭から「出征」していくこととなった。写真をとった小学校(昭和2年開校)に現存するものも石像であって、銅像ではない。もし、銅像であったなら現存はできなかった可能性が高い。国によって模範的な偉人に祭りあげられた「金次郎」は、哀れなことに、最後には「お国のために」身を犠牲にして(=武器弾薬と化して)消えていった。
 ところが、戦後、教育勅語や御真影が学校から退場していくなかでも、二宮金次郎像(表象・イメージ)は継承されていくこととなった。このあたりの経緯―経済更生運動のマスコットとして農村社会のなかから登場した金次郎像が、今度は戦後の経済再建への倫理的モデルとして認識された背景―はわからない。
 ただ、日常的な訓育のシンボルとして下からの高まりとしての側面をもつ金次郎の位置が、天皇というシンボルの神格化を重視する学校教育からはやや距離を有しているということは関係しているといえるかもしれない。
 
〈参考文献〉
・中村紀久二『教科書の社会史―明治維新から敗戦まで―』岩波新書、1992年。
・森川輝紀「コラム 校庭に建つ二宮金次郎像」、辻本雅史・沖田行司編『教育社会史』(新体系日本史16)山川出版社、2002年。
・新谷恭明『学校は軍隊に似ている』海鳥社、2006年。

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 この記事で、ちょうど300回目のエントリ! 今後の目標は「放置プレイ」、とまではいかないが、さらに手抜きでいかせていただきます。

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[木ログ]神聖喜劇ふたたび

ETV特集 神聖喜劇ふたたび~作家・大西巨人の闘い~ 1/10

シビれるわー。番組の構成にも魅せられる。動画は10分割されているけど、全部視聴することをおすすめ。

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1974年からの証言

 あちこちで話題になり、絶賛されていた原武史『滝山コミューン一九七四』(講談社、2007年)をようやく手に取ることができた。
 〈戦後〉の問い直し、戦後教育・戦後教育学への批判(自己批判も含めて)が活発化している状況下での刊行だったから、自分も非常に関心を持っていた。
 なるほど、こういう本だったのか。たしかにこの本はおもしろい。貴重な戦後教育史資料の一つに位置づけることも可能だろう。「戦後は個人を重視したばかりに伝統や公共が軽んじられた」的な、劣化保守の議論とは一線を画した戦後教育認識が、実体験をもとに論じられている。
[「二〇〇六年十二月に教育基本法が改正される根拠となったのは、GHQ(連合国軍総司令部)の干渉を受けて制定されたために「個人の尊厳」を強調しすぎた結果、個人と国家や伝統の結びつきがあいまいになり、戦後教育の荒廃を招いたという歴史観であった。だが果たして、旧教育基本法のもとで「個人の尊厳」は強調されてきたのか。問い直されるべきなのは、旧教育基本法の中身よりも、むしろこのような歴史観そのものではなかったか。」279頁]

 だが、読後感は複雑だ。読んでいて、原少年の冷めた心情に深く共感できるところもあれば、そうでないところもある(著者自身が「滝山コミューン」に対する感情に揺れている)。著者より、15、6年後の平成への変わり目の時期に、保守的な土地柄の東北の小学校で、小学生を送ったという年代的、地域的な違いゆえだろうか。いや、出来の違いだろう。
 原氏の小学校時代の記憶はおどろくほど鮮明である。対して自分は、原氏の同級生と同じく当時の細やかな記憶はほとんど「喪失している」。原氏は有名私立受験のために進学塾に通う早熟な小学生時代を送り、一方ではこまめに日記を付け、鉄道の世界に耽り、また集団生活への同化に違和感をもつナイーブさを持ち合わせていた。毎日バカをやって暮らしていた自分の少年時代とは比較にならない。自分が受けてきた義務教育(それも「戦後教育」という範疇に入ってしまうのか?)を振り返るとき、たとえ同質の問題を抱えていたとはいえ、著者が体験した集団主義教育の質の高さや子どもたちの積極的な姿をうらやましく思ってしまう。私が体験した教育もまたある種の集団主義を抱えてはいたが、それはもうイデオロギー性や「美しい物語」を失った、多分に管理主義的なそれだったとしか受け取ることができない。
 ただ、だからといって、原氏が体験した教育が特異で例外的なものだったとみるべきではない。むしろ、そこに最も純粋な形で、「戦後教育」の有する可能性と問題点が表れているとみるべきだろう。

 それにしても、戦前ではなく、ほんの30年前に本書が示すような集団主義教育実践が行われていたことは正直知らなかった。著者が通っていた東久留米市立第七小学校〔七小〕では、全共闘世代の若手教員を中心に全国生活指導研究協議会〔全生研〕の方式に基づく教育が行われ、新聞メディアなどを通して注目を浴びていた。生活指導・学級集団づくりに関する著書も多く出されていたが、原氏の目線を通して読み直してみるかぎり、たしかに違和感を抱くところもある。
[「そこには一見、憲法や教育基本法に保障された「個性の尊重」が、「内外の反動的諸勢力」によって脅かされているという、典型的な護憲派リベラルの主張が読み取れる。だが全生研で強調されたのは、集団主義教育であった。「大衆社会状況の中で子どもたちの中に生まれてきている個人主義、自由主義意識を集団主義的なものへ変革する」という文面からは、世界が東西の二大陣営に対立していた時代にあって、まだ理想の輝きを失っていなかった社会主義からの影響が濃厚にうかがえる。「個人」や「自由」は、「集団」の前に否定されるのである。
 このような集団主義教育は、旧ソ連の教育学者、A.S.マカレンコ(一八八八~一九三九)の著作によるところが大きかった。」50-51頁] 

 70年代教育を歴史的に捉え直す本格的な研究はまだないんじゃないか。当事者たちが生きているから、生々しくなってとても書けないというのがあるかもしれない。ただ、戦後史の枠組みで捉え直していく意義は大いにありそうだ。
 本書が、マイナスイメージの戦前教育と、それとは対照的に「日本国憲法、教育基本法の価値理念によって聖化された戦後教育」という構図を破壊する力は十分にある。
[「私は当時の七小が、文部省の指導を仰ぐべき公立学校でありながら、国家権力を排除して児童を主人公とする民主的な学園を作ろうとした試みそのものを、決して全否定するものではない。それどころか、この希有といってよい体験から少なからぬ影響を受けていることを、いまの私はよく自覚している。
 しかし、ここで問題にしたいのは、自らの教育行為そのものが、実はその理想に反して、近代天皇制やナチス・ドイツにも通じる権威主義をはらんでいることに対して何ら自覚をもたないまま、「民主主義」の名のもとに、「異質的なものの排除ないし絶滅」(前掲『現代議会主義の精神史的地位』)がなぜ公然と行われたのかである。それは、ナチス政権下の公法学者となったカール・シュミットと同じように、民主主義に対するきわめて一面的な理解に根差していたといえないだろうか。」211-212頁]

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篠原さんのつれづれ

篠原助市『教育生活五十年』相模書房、1956年(伝記叢書4 1987年)に眼を通してみた。
 戦前教育学の最高峰と目される教育学者が、自らの歩んできた道のりを振り返った自伝である。
 教育学者として歩んできた軌跡(どんな人と出会い、どんな思想、研究に触れてきたか)はもちろん、厳格な教育学者という枠におさまらない、人間・篠原助市の側面も垣間見える。酒好きで、それが師範学校一年間停学という大きな問題にまで発展したこと、高師受験に一度は失敗していること、授業中の居眠り…、また家庭では妻の神経衰弱、わが子の死など、私生活での苦労のこともかなり率直に書いている(もし篠原が今の時代に生きていたら、きっとブログを書いていたのではと思う)。

            ◇

 記述はわずかなのだけど、とりわけ自分の眼をひいたのは、篠原が武専(大日本武徳会武道専門学校)の講師をしていたという事実(大正7年9月~大正8年3月)である。期間は短いが、学生に英語を教えていたようだ。次のような記述がある。

 大正七年、海水浴から帰ると間もなく京都の武道専門学校(校長大久保弘道氏)の校長事務取扱から、一週二時間講師に来任してくれと頼まれた。結局引き受け、朝八時から出講することにした。職員室では職員一同(校長代理も)同窓で、時間は厳重に守られ講義の原稿は幾らか体育を重んじ、参考書として生徒にウェルプトンの「体育」を持たせた。
 学校では武道科(剣道部、柔道部)の外、国語漢文科及び生理衛生科の教員資格を得しめ、その上に研究科(二年以内)があった。学生の英語能力が不十分なので、せめて「ウェルプトンの体育論」E. Weilpton ; Physical education. 位は読破し得るようにとの老婆心から、校長代理に相談して、午前七時から一時間アーヴィングのスケッチ・ブックを読ませた。暗い中に宅を出て教室に入ると、学生の数は少なく、しかも早朝の寒稽古をすませて、急いで来るので準備している学生は半分にも足りなかった。登校の途次、校長代理と概ね同行し、英語の特別講義の終ったころ、他の相国寺西門前町から通勤の職員も続々見えた。それから二時間原稿を筆記させ、狭い職員室で大きな陶器の火鉢を囲んで雑談の後十一時頃自宅に帰りつくのである。(209頁)

 武専は、戦前、武道の専門的指導者(柔道、剣道)を育成すべく設立された教育機関であり、全国各地から選抜された武道のエリートたち(18歳~22歳)が京都武徳殿で過酷な(ときに死者すら出すほどの)稽古を重ねた。どうして自分は関心を持っているかというと、自分が大学で剣道部に在籍していたとき薫陶を受けた“師範”がまさに武専の出身だったから(東北で唯一の範士九段剣士)。
 「学校では武道科(剣道部、柔道部)の外、国語漢文科及び生理衛生科の教員資格を得しめ、その上に研究科(二年以内)があった」という篠原の記述にもあるように、私の“師範”も教員の資格をもっており、過去、女学校や高校で教鞭を執っていたと聞いた。
 また、学科の授業の多くは京大の教授が兼任で担当していたこと(よって内容的にとても高度だったこと)も、篠原の「職員室では職員一同(校長代理も)同窓」という記述で再確認できる。だから師範もまた、驚くほど「国語漢文」については博識で書道にも長け、毎年剣道部卒業生に漢文を認めた色紙を配っていた(自分も頂いた)。その教養たるや、今の剣士ではとうてい及ばないほど豊富なものだ。『剣の道』や『剣道の法則』などの著書、剣道雑誌の連載などもあり、その中でも思想の深さを披露している。
 
    ◇

 ほかにも、篠原は、東京高等師範学校の研究科時代に、はじめて社会的教育学(ナトルプ)やデューイに接したこと、東北大学の普通講義(教育学概論)での購読テキストとしてデューイ『民主主義と教育』を用いたといったことも書いている。だが、周知のとおり篠原のデューイに対する見方は消極的だ。
 次のような記述がある。 

米国のデューイの著書に初めて接したのも〔東京高師―引用者注〕研究科時代であった。忘れもしないが、三十八年二月十一日の紀元節に、偶然彼の「社会と教育」J.Dewey;School and society.を見つけ、ストーブに腰掛けを引き寄せて読み始めた。デューイの説が、今迄学んだ教育学と全然違っているのに驚かされ、驚きの中から興味が湧き立ち、その日の午後一気に読み終えた。だがこの小冊子以来、私と彼の著書との関係は長い間断絶した。私の仕事と興味が他の方向に向かったからである。(71頁)

 その後も、デューイについて彼は積極的な評価をしていない。なぜなのかは、今もよく理解できない。ただ、彼がドイツ新カント派に影響を受けたからといって、アメリカ新教育の動向にまったく眼を向けていなかったわけではなく、海外視察先でデューイの弟子キルパトリックに会ったりもしている(が、あまりインパクトを受けなかったようだ)。

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[金ログ]逆襲の「蟹工船」

■「『蟹工船』再脚光…格差嘆き若者共感、増刷で売り上げ5倍」@YOMIURI ONLINE、2008年5月2日。

以下、『蟹工船』(岩波文庫版)より。

「おらア、キット殺されるべよ。」
「ん。んでも、どうせ殺されるッてわかったら、その時アやるよ。」
芝浦の漁夫が、
「ばか!」と、横からどなりつけた。「殺されるッてわかったら? ばかア、いつだ、それア。――今、殺されているんでねえか。小刻みにによ。あいつらはな、じょうずなんだ。ピストルは今にもうつように、いつでも持っているが、なかなかそんなヘマはしないんだ。あれア「手」なんだ。――わかるか。あいつらは、おれたちを殺せば、自分らの方で損するんだ。目的は――ほんとうの目的は、おれたちをウンと働かせて、締め木にかけて、ギイギイ搾り上げてしこたまもうけることなんだ。そいつを今おれたちは毎日やられてるんだ。――どうだ、このめちゃくちゃは。まるで虫に食われている桑の葉のように、おれたちのからだが殺されているんだ。」
   ……
「気の毒だ。それでもまだ一生懸命働いてやろッてんだから。」
「だれが!――しかたねんだべよ。」
芝浦が笑った。「殺される時も、しかたがねえか。」(98-99頁)

「おれたちには、おれたちしか、味方がねえんだな。始めてわかった。」
「帝国軍艦だなんて、大きな事を言ったって大金持ちの手先でねえか、国民の味方? おかしいや、くそ食らえだ!」
   ……
「今度こそ、このまま仕事していたんじゃ、おれたちほんとうに殺されるよ。犠牲者を出さないように全部で、いっしょにサボルことだ。……」
「それでもし駆逐艦を呼んだら、皆で――この時こそ力を合わせて、一人も残らず引き渡されよう! その方がかえって助かるんだ。」
   ……
「ほんとうのこと言えば、そんな先の成算なんて、どうでもいいんだ。――死ぬか、生きるか、だからな。」
「ん、もう一回だ!」

そして、彼らは、立ち上がった。――もう一度!(114-115頁)

  労働者の反抗の叫びを描き、団結を喚起したプロレタリア文学の代表作。これが21世紀の今、リアルな等身大の文学として再評価されていることの意味を十分に受け止める必要がある。
  現代の若者が「殺される」とすら感じている不安が『蟹工船』と共鳴している。

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スクールとホーム

 前回、「学園(スクール)ドラマ」の隆盛と、その背景(=「学校化」)について思うところを書いた。
 それと並んでもう一つ、テレビからうかがえる最近のおもしろい傾向として言えるのは、J-POPで、"HOME"や"おかえり"、“帰りたくなったよ”など縁(よすが)や結びつきの表象としての〈ホーム〉(=家庭、ふるさと)を連想する曲が目立つこと。

 これを〈スクール〉と関連させると、次のようなことが言えるのではないか。
 学校や学級という組織は、伝統的な共同体結合原理から離床して実現した疎外的な空間であり、そこで、本来多面的・全体的存在である青少年は、学習活動をすることのみに自己の活動を限定される。それぞれいくつもの領域に分けられ、パッケージ化された知識を伝達され、学力への習熟をくり返し要求される。子どもたちは一面的な生活と、その組織のリズム(=規律)に一方的に自分を合わせることを強要される。
 しかも、学校・学級は、自らの需要を生み出す働きかけを、競争の創出とそれによる学習意欲の喚起というかたちで展開する。
 同一年齢、同一教師、同一空間といったすべての要素が同一化される条件下で、子どもたちはたえず規律と競争へと駆り立てられることになる。厳格な規律と競争的な人間関係のなかで疎外状況が放置されれば、青少年はバランス回復の衝動に駆られ、学校への否定的感情、教師への敵対感情、生徒間の軋轢を増幅させ、ときにその状況からの離脱を図ろうとする。
 突如、強制的に規律的な空間へと組み込まれ、教師の権威に服従することを求められる。そのような人為性に子どもたちが簡単に同化するほうが難しい。
 だが、公的世界へのイニシエーションとして、そのような厳しい環境を尊重する傾向は依然としてある。むしろ、学校に競争や規律を求める風潮は、いっそう強くなっているのではないか。
 だからこそ、そのようなギスギスした公的世界から峻別された、プライベートで情愛的な結合の象徴としての〈ホーム〉が一方で強調されることになるのではないか。

 ところが、「家庭内暴力」「児童虐待」など、今やその〈ホーム〉の脆弱性が問題とされる状況である。
 したがってネクストステージとして、〈スクール〉に包括的で抱擁性のある(「学園ドラマ」のシナリオのような)関係性が強く求められることになる。ということで、昨今の「学園ドラマ」の隆盛に話が戻っていく――。

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