« [金ログ]逆襲の「蟹工船」 | トップページ | 1974年からの証言 »

篠原さんのつれづれ

篠原助市『教育生活五十年』相模書房、1956年(伝記叢書4 1987年)に眼を通してみた。
 戦前教育学の最高峰と目される教育学者が、自らの歩んできた道のりを振り返った自伝である。
 教育学者として歩んできた軌跡(どんな人と出会い、どんな思想、研究に触れてきたか)はもちろん、厳格な教育学者という枠におさまらない、人間・篠原助市の側面も垣間見える。酒好きで、それが師範学校一年間停学という大きな問題にまで発展したこと、高師受験に一度は失敗していること、授業中の居眠り…、また家庭では妻の神経衰弱、わが子の死など、私生活での苦労のこともかなり率直に書いている(もし篠原が今の時代に生きていたら、きっとブログを書いていたのではと思う)。

            ◇

 記述はわずかなのだけど、とりわけ自分の眼をひいたのは、篠原が武専(大日本武徳会武道専門学校)の講師をしていたという事実(大正7年9月~大正8年3月)である。期間は短いが、学生に英語を教えていたようだ。次のような記述がある。

 大正七年、海水浴から帰ると間もなく京都の武道専門学校(校長大久保弘道氏)の校長事務取扱から、一週二時間講師に来任してくれと頼まれた。結局引き受け、朝八時から出講することにした。職員室では職員一同(校長代理も)同窓で、時間は厳重に守られ講義の原稿は幾らか体育を重んじ、参考書として生徒にウェルプトンの「体育」を持たせた。
 学校では武道科(剣道部、柔道部)の外、国語漢文科及び生理衛生科の教員資格を得しめ、その上に研究科(二年以内)があった。学生の英語能力が不十分なので、せめて「ウェルプトンの体育論」E. Weilpton ; Physical education. 位は読破し得るようにとの老婆心から、校長代理に相談して、午前七時から一時間アーヴィングのスケッチ・ブックを読ませた。暗い中に宅を出て教室に入ると、学生の数は少なく、しかも早朝の寒稽古をすませて、急いで来るので準備している学生は半分にも足りなかった。登校の途次、校長代理と概ね同行し、英語の特別講義の終ったころ、他の相国寺西門前町から通勤の職員も続々見えた。それから二時間原稿を筆記させ、狭い職員室で大きな陶器の火鉢を囲んで雑談の後十一時頃自宅に帰りつくのである。(209頁)

 武専は、戦前、武道の専門的指導者(柔道、剣道)を育成すべく設立された教育機関であり、全国各地から選抜された武道のエリートたち(18歳~22歳)が京都武徳殿で過酷な(ときに死者すら出すほどの)稽古を重ねた。どうして自分は関心を持っているかというと、自分が大学で剣道部に在籍していたとき薫陶を受けた“師範”がまさに武専の出身だったから(東北で唯一の範士九段剣士)。
 「学校では武道科(剣道部、柔道部)の外、国語漢文科及び生理衛生科の教員資格を得しめ、その上に研究科(二年以内)があった」という篠原の記述にもあるように、私の“師範”も教員の資格をもっており、過去、女学校や高校で教鞭を執っていたと聞いた。
 また、学科の授業の多くは京大の教授が兼任で担当していたこと(よって内容的にとても高度だったこと)も、篠原の「職員室では職員一同(校長代理も)同窓」という記述で再確認できる。だから師範もまた、驚くほど「国語漢文」については博識で書道にも長け、毎年剣道部卒業生に漢文を認めた色紙を配っていた(自分も頂いた)。その教養たるや、今の剣士ではとうてい及ばないほど豊富なものだ。『剣の道』や『剣道の法則』などの著書、剣道雑誌の連載などもあり、その中でも思想の深さを披露している。
 
    ◇

 ほかにも、篠原は、東京高等師範学校の研究科時代に、はじめて社会的教育学(ナトルプ)やデューイに接したこと、東北大学の普通講義(教育学概論)での購読テキストとしてデューイ『民主主義と教育』を用いたといったことも書いている。だが、周知のとおり篠原のデューイに対する見方は消極的だ。
 次のような記述がある。 

米国のデューイの著書に初めて接したのも〔東京高師―引用者注〕研究科時代であった。忘れもしないが、三十八年二月十一日の紀元節に、偶然彼の「社会と教育」J.Dewey;School and society.を見つけ、ストーブに腰掛けを引き寄せて読み始めた。デューイの説が、今迄学んだ教育学と全然違っているのに驚かされ、驚きの中から興味が湧き立ち、その日の午後一気に読み終えた。だがこの小冊子以来、私と彼の著書との関係は長い間断絶した。私の仕事と興味が他の方向に向かったからである。(71頁)

 その後も、デューイについて彼は積極的な評価をしていない。なぜなのかは、今もよく理解できない。ただ、彼がドイツ新カント派に影響を受けたからといって、アメリカ新教育の動向にまったく眼を向けていなかったわけではなく、海外視察先でデューイの弟子キルパトリックに会ったりもしている(が、あまりインパクトを受けなかったようだ)。

|

« [金ログ]逆襲の「蟹工船」 | トップページ | 1974年からの証言 »

教育史ノート」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/69457/41220011

この記事へのトラックバック一覧です: 篠原さんのつれづれ:

« [金ログ]逆襲の「蟹工船」 | トップページ | 1974年からの証言 »